銀桜録 黎明録篇 | ナノ


1

九月十四日。

今朝、土方から隊士達に新見が隊規違反で切腹となったという報告があった。
"立派な最期だった" と告げた土方であったが、その真相を知っているのは変若水に関わる幹部のみである。

しかし、近藤一派と芹沢一派の間に大きな溝があるのは周知の事実である。
そのせいで、土方の報告があったその日のうちに隊内で広まった噂があった。


「……新見さんも死んじまったし、次は芹沢局長なんじゃないか?」

「確かに……近藤局長や土方副長が、あの人を見逃すはずがないよな」

「最近は、会津藩の重役も芹沢局長じゃなく近藤局長や土方副長と直に連絡を取るようになってるらしいぞ」


たまたま通りかかった場所で聞こえてきた噂話に、井吹は思わず足を止めた。
井吹の中でもそろそろ何かが起こるのではないかという嫌な予感があり、その隊士達の噂話は井吹の不安を益々煽る。

もう少し詳しい話を聞きたくて井吹がその隊士達に声をかけようとした時、「何言ってやがんだ、お前ら!」と怒ったような声が響く。
永倉の声だった。


永倉「芹沢さんは何だかんだで、新選組にあんだけ貢献してたんだ。寝首をかくような真似、するはずねえよ」


永倉は芹沢と同門の神道無念流だ。
それもあってか、芹沢の事を嫌いになれないと永倉が言っていた事を井吹は思い出す。
勿論横暴な行いに腹が立つ事もあるが、芹沢はやるべき事をやっているし、芹沢がいなければここまでやってこれなかった、というのが永倉の言い分であった。


永倉「なあ、そうだろ?龍之介」


永倉が井吹に問いかける。
視線が集中する中、井吹は静かに頷いた。


井吹「……そうだな」


だが、一体なんだろう。
この拭い切れない不安は。
井吹が眉を顰めたその時、別の足音が近づいてきた。


斎藤「……新八。もうすぐ、巡察の時間だぞ」


静かに現れたのは斎藤である。
だが、実は斎藤はすぐ近くで永倉達の話を聞いていたのではないか、と井吹は思う。
先程近づいて来た斎藤の足音は遠くからやって来るには大きすぎて、そして唐突に聞こえ始めたものだったのだ。

しかし井吹は、その事には触れなかった。
永倉は「ああ、分かってるよ」と些か不機嫌な様子でその場から立ち去っていく。
隊士達も斎藤に一礼をして部屋を去って行き、その場には井吹と斎藤が残された。

井吹がちらりと斎藤の方を見れば、蒼い瞳と目が合った。


斎藤「……何か言いたい事でもあるのか」

井吹「あ……いや、その……」


井吹には、斎藤に対して以前から疑問に思っていた事があった。
"新選組" という名前を拝命したあの日や斎藤から天分の話を聞いた時に聞こうと思ったが、結局聞けず終いになっていた疑問。
それを聞く良い機会かもしれないと、井吹は恐る恐る口を開く。


井吹「……ずっと、あんたに聞きたかったことがあるんだ」

斎藤「……ああ、なんだ?」

井吹「……あんた、前に言ってたろ。自分の天分に気づいたのは、剣以外何もなくなった時だって。あれって……一体、どういう意味だったんだ?」


ほんの一瞬。
斎藤の蒼い瞳が、僅かに揺らいだ。
揺らがぬ斎藤の瞳しか知らなかった井吹にとって、それは初めてみるものであった。


斎藤「……まだ俺が、江戸にいた頃のことだ」


目を伏せた斎藤は、静かな声で話を切り出した。


斎藤「試衛館に通うようになってからしばらく経った頃、とある旗本の子弟に決闘を申し込まれたことがある。……相手は真剣勝負を望んでいた。だから俺もその求めに従って真剣での勝負をすることにした。それが真摯な勝負に挑む武士としての心構えだと思った」

井吹「真剣での勝負、って……」


木刀でも刃引きした刀でもなく、真剣での勝負。
どちらが勝ったのかと聞こうとした井吹だったが、もし斎藤が負けていたなら彼は生きていないのだろうという事に気付く。


斎藤「……その後、俺は殺人の罪に問われ江戸にいられなくなり、脱藩することになった。武士というのは仕えるべき主君を持って、初めて武士となれるのだ。だが脱藩してしまった俺が、今後主君として呼べる方を得ることはない。……だから俺は、刀を差すのをやめた」


静かな声で言葉を紡ぐ斎藤。
それはまるで、他人事のように淡々とした口調だった。
刀を手放す事が、彼にとってどれ程重たいものなのか。
武士ではない自分には想像も出来ない程の辛さだろう、と井吹は思う。


斎藤「……刀を差さずに歩くようになってまず驚いたのは、腰の軽さだ。道を歩く時ももう右による必要などない。店に入った時、刀を預ける必要もない。刀の手入れをする必然も失せた。そんな状況になって、俺はようやく悟ったのだ」


蒼い瞳が、井吹を捉える。


斎藤「武士ではない俺など、もはや存在しない。刀というのは……武士というのは、既に俺の一部になってしまっているのだと」


静かで、それでいて強かな瞳だった。
井吹にとって常に冷静沈着で近藤達に忠実な斎藤は、欲の無い人間に思えていた。
そんな彼が、武士である事を渇望している。
井吹にとって、そんな斎藤の一面は意外なものだったのである。


斎藤「……この新選組の他に、もう俺を武士として扱ってくれる場所はあるまい。そして会津公は我々に新選組という素晴らしい名をくださった。身元もわからない我々を預かって庇護すると言ってくださった。……その新選組、そして会津藩から下された命ならば、俺はどんなものでも受けいれる」


揺るぎない決意を秘めた瞳で、斎藤はそう告げた。
そこには一分の迷いも含まれていなかった。
その覚悟の大きさに、井吹は目を見開く。


井吹「……俺には無理だ」


以前、自分もいつか斎藤のような『覚悟』を持つことが出来るようになるだろうかと考えたことがあった。
だが、到底自分には出来そうもない。
心の底から、絞り出すように出た言葉だった。


斎藤「……世の中の者全てが、俺と同じように生きねばならぬということではない。俺は、こういう生き方しかできぬからそうしているだけのこと」


井吹の言葉に珍しく面食らったような表情を見せた斎藤だったが、口元を僅かに緩めながらそう付け加えた。


斎藤「どう生きれば、最期の瞬間後悔せずにあの世へ逝けるのか。問題は、それしかない。……ただ、どれほど好きだったとしても、辛く苦しい思いをすることはある。そういう時に大切なのは壁を乗り越えることではなく、柳のような ─── しなやかな心を持つことだ」

井吹「……」

斎藤「天分というのは、つまるところ……一つのことを続けられるか、続けられないか。その単純な差異でしかないのだ」


斎藤は、井吹とそれ程歳は離れていない。
だが、一体どれ程の苦難を乗り越えれば、人にそんな助言ができるようになるのだろう。
井吹には、斎藤の背中がいつも以上に大きく見えた。


斎藤「……本気の言葉というのは、必ず相手に伝わる。それがどんな言葉であれ、な」


井吹にとってその言葉は、斎藤なりに井吹を応援してくれているように思えた。
出会った当初よりも、斎藤が井吹に向ける眼差しはかなり和らいだように思える。
しかし、井吹がそう思ったのも束の間。


斎藤「……正義と正義がぶつかった時、歩み寄ることも譲ることもできぬのだとすれば ─── 結果は、一つしかないのだ」


それは、隊士達がしていた噂についての斎藤なりの意見だと井吹は気づく。
先程とは異なって冷酷な光を浮かべる斎藤の瞳に、井吹は芹沢の運命と共に、時間があまり残されてないだろうということを察してしまったのである。

斎藤は、隊士達の稽古に向かうと言って井吹に背を向けて歩き出す。
しかし、途中ではたと足を止めた。


斎藤「……井吹。先程の話だが……名前には、決して他言するな」

井吹「……さっきの話って……?」

斎藤「……俺の、過去の話だ」


斎藤の言葉に、井吹は面食らった。
ただ口止めをするのではなく、わざわざ名前に限定して口止めをするのは、なんだか斎藤らしくなかったのである。


井吹「ああ、別に言うつもりはないが……でも、なんで名前なんだ?」


斎藤が一瞬、井吹の方を見る。
その蒼からは先程の冷酷な光は消えていた。


斎藤「……あの時……迷惑をかけると思い、俺は無断で試衛館を去った。その時に、俺は……彼女を傷付けた。彼女を裏切ってしまった。彼女に、もう二度と…あのような表情をさせたくはない」


斎藤の表情に浮かんでいるのは、悲痛な色。
初めて見るその斎藤の表情に、井吹は思わず息を飲む。

あのような表情、というのがどんな表情なのか、井吹には分からない。
しかし名前の性格を考えれば、想像するのは容易だった。


井吹「……もしかして、あんたは……今の話をすれば、名前があんたを嫌うとでも思っているのか?」


斎藤は何も答えなかった。
ただ僅かに目が細められ、斎藤は再び井吹に背を向ける。
それは、肯定の証だった。


井吹「……そんな筈、ないだろ」


井吹は思わず斎藤に駆け寄る。
そして自分よりも少し高い位置にある斎藤の肩を掴み、無理やり自分の方を向かせた。


井吹「俺は、あんたらよりも名前と過ごした時間は短いが……それでも分かるよ。名前は、そんな奴じゃない。あんたの過去を聞いただけで、あんたから離れていくような……そんな奴じゃない。あんただって分かってるだろ?」


ほんの一瞬、斎藤の眉が寄った。
しかし斎藤は井吹の手をそっと払うと、井吹に背を向けてしまう。


斎藤「……人の心とは、変わりやすいものだ」


それだけ言い残すと、斎藤はその場を去って行ってしまった。
井吹には遠ざかっていく斎藤の背中が、酷く寂しげに見えてならなかったのである。

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