3
斎藤は、沖田に言われた通りに裏庭へと向かっていた。
先程の沖田の言葉はかなり意味深なものであった。
"良いもの" とは、一体何のことなのだろう。
なんだか気になってしまい、足早に目的の場所へと向かう。
…というのも、もしや "彼女" がそこに居るのではないかと多少なりとも期待してしまっていたからで。
そして、裏庭が見えてきた時である。
─── 鼻を掠めたのは、焦がれていた春の香り。
斎藤「…っ、!」
目の前の光景に、斎藤は息を飲む。
庭は広く、そこには一本の桜の木があった。
その桜は既に満開で、雲ひとつなく晴れ上がった空を背景に、時折花びらを散らせてくる。
そして、まるで雪に洗われたように美しく咲く桜の下に、一人の少女の姿があった。
高く髪を結い上げて男物の袴を身に纏い、腰には大小の刀を差している。
後ろ姿ではあったが、それは紛れもなく少女の背中であった。
何故なら、どんなに髪型や服装が変わっていても、"彼女" の背中ならば絶対に分かるから。
忘れもしない、薄紅色の雪に儚く包まれるその少女。
息をし忘れるほど、瞬きが億劫になるほど美しい、その少女は。
斎藤「 ─── 名前……」
別れを告げたあの日。
悲しげに、切なげに揺れた焦茶色を、一日たりとも忘れたことは無かった。
理由も告げずに彼女を突き放してしまったことを、後悔している自分がいたのだ。
家や試衛館に戻れなくなった以上、もう二度と彼女に会うことはないだろうと思っていた。
だが彼女と離れたことで、斎藤の生活は一変した。
まるで陽の光を浴びていないような、心に穴が空いたような日々が幾度も続いた。
自分は剣に生き、この命を土方達の為に使うと決めた身。
しかしどうしても、彼女の春のような温かさを忘れることが出来なかった。
邪だとは思いながらも、真を言えばもう一度彼女の顔を見たくて仕方がなかったのである。
斎藤「名前」
先程よりも大きな声で、しっかりとその名を呼ぶ。
束ねられた艶やかな髪が柔らかく揺れ、ゆっくりと振り返った。
花が降る中で、彼女は硝子玉のように丸い目を大きく見開いていて。
名前「…はじめ、くん…?」
懐かしい、鈴の音のような声。
斎藤「…ああ」
斎藤がゆっくりと頷けば、名前は声を震わせた。
名前「…嘘…どう、して…」
恐らく、突然斎藤が現れたことに頭が追いついていないのだろう。
名前は困惑した表情のまま、何か術でも掛けられているかのように固まってしまっていた。
斎藤は、ゆったりとした足取りで名前のもとへと歩む。
彼女との距離が縮まるごとに、僅かに胸が高鳴っていくのを斎藤は感じていた。
初めの一言は、何と言うべきだろう。
" 暫くだったな " ?
" 元気にしていたか " ?
" その格好はどうしたのだ " ?
寡黙で口下手なはずの自分の中に、彼女に対して言いたい事が山ほど溢れてくる。
…だが、何よりも伝えたいのは。
斎藤「 ─── すまなかった」
あの日、無垢な彼女を突き放してしまった事への謝罪であった。
あの時の彼女の傷付いたような悲痛な表情は、これまでに何度も斎藤の胸を締め付けた。
彼女のあの表情を思い出さない日は無かったのだ。
なんて自分は身勝手なのだろう、と斎藤は思う。
あの時自分が彼女にしてしまったのは、裏切りに等しい。
それのみか、己の都合で自分の方から突き放しておいて、彼女との再会を望んでいたなど。
そのためこれは、許しを乞う為の謝罪ではない。
彼女を突き放すことしか出来なかったあの日の自分の行いを、ただ彼女に詫びたかっただけなのだ。
だから「お前の顔など見たくもない」と、今度は自分が名前に突き放される覚悟もしていた。
彼女の顔を一目見ることができたら、斎藤としてはそれで十分だったのである。
…しかし、彼女の口から出た言葉は斎藤にとって予想外のものであった。
名前「…夢…?」
斎藤の謝罪は聞こえているのかいないのか、まるで上の空のような表情で斎藤の顔を見つめながら呟く名前。
一瞬目が点になった斎藤だったが、その言葉を聞いて小さな笑みを浮かべた。
斎藤「…夢ではない」
名前「…ほ、本当に…?」
斎藤「ああ」
名前の白い手が伸びてきた。
彼女の温かな両手は斎藤の顔を包み込み、その存在を確かめるようにぺたぺたと触っている。
不意をつかれて今度は斎藤が固まる番であり、顔に熱が籠る。
勿論それは、表情に出ることは無かったが。
名前「……一君……一君だ」
気が済んだのか名前の白い手が離れる。
そして彼女は、ふわりと笑みを浮かべる。
斎藤には泣き笑いのようにも見えたが、春の日差しのように麗らかな笑顔だった。
しかしその瞬間、名前の小さな体がふらりとよろける。
斎藤が咄嗟に彼女の背中に手を回してその体を支えれば、彼女は焦ったような困ったような表情になった。
名前「わ、ごめんっ…!びっくりしたのと安心したのとで、力抜けちゃって…」
斎藤「…いや、構わん。驚かせてしまってすまなかった」
どうやら体に力が入らなくなってしまったらしい。
構わないと斎藤が告げれば、名前は遠慮がちに斎藤に身を委ねてくる。
斎藤「名前…本当に、すまなかった」
名前「ううん。…一君が無事で、本当に良かった…」
斎藤がもう一度謝罪の言葉を述べれば、名前はふるふると小動物のように首を横に振る。
そして「良かった」と心の底から安堵したような声を零した。
二人の間を吹き抜ける、麗らかな春の風。
その風は寒くはないが、薄紅色が雪のように降っていた。
<< >>
目次