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──── 空が、茜色に染まり始めた頃。
この時間帯になると、斎藤は道場を出て帰路につく。
それは、今日も変わらない。
…だがいつもと変わった事があるとすれば、今日は名前と会話をしていない事だけだろうか。
名前が見合い話の件を打ち明けてくれてから、斎藤は彼女の姿を見かけていなかった。
一年前なら気にも留めなかっただろうが、今となっては名前の声が聞こえてこないだけで、彼女の姿をつい探してしまう。
名前の姿が見えない時は、彼女は大抵は商売に行っていたり炊事場で料理をしていたりしている。
それが終われば道場に現れて、必ず斎藤に声を掛けてくれていた。
たった一日、それが無かっただけで何だか物足りなさを感じてしまう。
だが、これといって彼女に用がある訳でもないため、斎藤は彼女を探さなかった。
明日になれば、また会える。
…それもあと、何日続くかわからないが。
そう考えた時、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたように胸が苦しくなった。
一体何だ、これは。
原因不明の胸の痛みに、草履を履きながら眉を顰めた時であった。
名前「一君っ…!」
バタバタと走る音が聞こえてきたかと思うと、聞き慣れた声が背中へ飛んできた。
斎藤が振り返れば、そこには息を切らした名前が立っていた。
名前「帰るところだったんだ。良かった、間に合って…」
どうやら、斎藤を探し回っていたらしい。
名前はほっとしたように息を吐いている。
斎藤「…ああ。何か用か」
名前「あ…あのね、今少しだけいい?すぐ終わるから」
斎藤「ああ、構わぬ」
斎藤が頷くと、名前はどこか緊張したような面持ちになった。
そして、何かを斎藤に向かって差し出す。
名前「あの…これ、受け取ってほしいの」
斎藤「…これは…」
斎藤の目の前に差し出された物。
それは、桜草の押し花の栞だった。
白い桜草と萩色の鮮やかな桜草が、二つ。
斎藤「…これは、あんたが育てた花か」
名前「うん、庭に咲いてる桜草だよ。押し花にして、栞にしたの」
斎藤「…これを、俺に?」
名前「うん。…迷惑じゃなければ、貰ってほしいな」
栞の中で花開く桜草は、清く美しかった。
まるで、名前のように。
わざわざ自分の為に作ってくれたのかと思うと、斎藤の心の中には温かいものが流れる。
斎藤「…感謝する。これは、大切に使わせてもらう」
口元に小さく微笑みを浮かべて斎藤が礼を言うと、名前は安心したような表情になった。
そして ────。
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