銀桜録 試衛館篇 | ナノ


3

名前「…一番古い記憶は、五歳の時。両手を縄で縛られて、獣道をひたすら歩いてた。それよりも前の事は何も覚えてない」

斎藤「……」

名前「私の前と後ろを、知らない男の人が二人歩いてた。私は、罪人みたいに縄で引っ張られながら歩いてた。…何が何だかわからなかった。気付いた時には、そんな状況になってたの」


そう言って、名前は自分の手に目を落とす。
十年以上前の事なのに、名前はあの縄の感覚を今でも思い出せるのだ。


名前「…あの人達、私を "売る" って言ってたの。代物だから金になるとか言いながら、あの人達は笑ってた」


斎藤は一瞬、彼女の言葉に目を見開いた。


斎藤「…女衒か」

名前「うん。私はきっと、何処かの色街に売られる予定だったんだと思う。…両親に売られたか、誘拐されたかはわからないけど」


名前は自分の手から視線を外すと、再び空を見上げた。


名前「…何日も歩かされたけど、縄を外されたことは無かった。体に傷を付けたら売り物にならないからか殴られることはなかったけど、反抗すれば怒鳴りつけられた。あの人達が眠る時は、全身を縛られて布を噛まされた。食事の時も手は縛られたままで、足には枷を付けられて、犬みたいに地面に這い蹲って食べないと食べれられなかった…」


それはまるで生き地獄のような、壮絶な過去。
名前はふと視線を下ろし、斎藤の顔を見る。
蒼と焦茶が、交わった。


名前「 ─── 死にたかったよ」


その言葉はどんなものよりも重く、ずしりと斎藤にのしかかる。
あの太陽のように明るく温かく、いつも前向きな彼女が、「死にたい」と口にしたのだ。
過去形ではあったが、その暗鬱な言葉と瞳は斎藤の胸を締め付けた。


名前「……どうやったのかはあんまり思い出せないんだけど、なんとか逃げ出せたの。走って、ひたすら走って…父様と兄様に出会った。兄様達は優しく手を差し伸べてくれて。記憶を失ってた私に、父様は名前をくれた。"近藤名前" という、私なんかには勿体無いくらい素敵な名前を…」


近藤に助けられた時の事を思い出す名前は、いつものような穏やかな表情であった。
己の出自や名前すらも忘れてしまう程の精神的負荷を負った名前。
彼女が経験したのは、心を失ってしまってもおかしくはない程の地獄。

それなのに今、こうして彼女は笑っている。
いかに近藤達から愛情を注がれて育ったのかがわかる。
彼女がこうして笑顔を取り戻せたのは、恐らく奇跡に近いのだ。


名前「…花街が嫌いとか、花街に行く人が嫌だとか、そういう訳じゃじゃないの。ああいう場所が存在していることや彼処で生きている人、彼処に行きたがる人を否定するわけじゃない。ただ…"花街" って言葉を聞くと、昔の事を思い出しちゃって。縄や足枷や、布を噛まされた時の感覚が蘇る。あの男の人達の恐ろしい笑い声も、頭の中で響くの…」


─── だから、"花街" が怖い。

名前は、消え入りそうな声で話を締めくくった。
何と声を掛ければよいかわからず斎藤が沈黙していると、名前はへらっと笑う。


名前「…ごめんね?急に暗い話しちゃって。こんな話、気分が沈んじゃうよねぇ。せっかく一君とお茶できたんだから、何か楽しい話はないかな…」


そう言って何やら考え込む名前。
そして彼女は、お松の団子屋で新作の団子ができたとか、庭の桜草が綺麗に咲いたとか、いつもの様に他愛もない話を楽しげに繰り広げる。
しかし斎藤は、先程の彼女の言葉が頭から離れない。


" 名前「 ─── 死にたかったよ」"


彼女のその言葉は、それほど斎藤にとって衝撃的だったのである。

時折垣間見える彼女の影は、彼女の過去から来るものだった。
地獄のような過去を思い出しては一人で抱え込み、記憶を胸の中に留めていたのだ。

もしや時々彼女の瞳が曇るのは、名前は今でも "死にたい" と思っているからではないのか。
そんな事は絶対にあってほしくない。
今自分の目の前にいるこの少女は、太陽の下で笑っているのが何よりも似合うのだ。


斎藤「 ─── 名前」

名前「……っ、!?は、はじめくん……?」


斎藤は、名前の手首をそっと掴む。
十年以上前はきつく縛られていたであろう、その手首を。
そして斎藤は、彼女の華奢な手首を優しく撫でた。


斎藤「…あんたの過去やその記憶は、変えることも消すことも出来ない。だが…上書きならば、幾らでもできる。俺に何か出来る事があるのならば、尽力しよう」


ゆっくりと、丁寧に。
一言一言を選びながら、斎藤は言葉を紡いでいく。


斎藤「…完全に忘れさせる事はできぬ。だが、なるべく思い出させぬよう…あんたの顔が曇らぬよう、手を尽くす」

名前「一君…」

斎藤「…それでも、あんたは…"死にたい" と、今でも考えるか?」


驚いたように、名前は大きく目を見張った。

そして ───。
名前の手首を撫でる斎藤の手に、彼女のもう一方の手が重なる。
温かく、柔らかい手だった。


名前「死にたいとは、もう思わないよ。兄様達に助けてもらってからは一度も無い。寧ろ、あの時死ななくて良かったって思ってる。生きていたから、兄様達に…一君に、出会えた」


そう言って、名前は笑顔を浮べる。
辺りまでふんわりと明るくなるような、優しい笑顔だった。


斎藤「…そうか」


彼女の言葉を聞いて、斎藤は心の底から安堵する。
名前が生きる希望を感じているからこそ、彼女はいつものあの花のように綺麗な笑顔を見せていた。
あの笑顔に、偽りは無かったのだ。


名前「…一君は、凄く優しいんだね」

斎藤「…いや、俺など…」

名前「謙遜なんていいのに。本当に心が綺麗な人じゃなきゃ、あんなに優しい言葉は言えないよ」

斎藤「……」

名前「本当にありがとう、一君」


─── 名前は、春のような少女だ。
彼女の笑顔は桜のように美しく、春の日差しのように温かい。

蒼と焦茶は、どちらも優しげに細められていた。
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