銀桜録 試衛館篇 | ナノ


2


名前「 ─── ふぅ、美味しい……」


もう三月とはいえ桜はまだ蕾。
陽の光は柔らかく、時々吹いてくる風も若干ではあるが冬の名残を感じる。

そんな中、温かいお茶は身に染みて美味しい。
名前は、縁側で正座して茶を飲む斎藤の隣に腰掛けて、彼と同じように茶を飲んでいた。


名前「そういえば、一君は皆と行かなくて良かったの?一君もお酒好きじゃなかったっけ」

斎藤「…気乗りしなかった故」

名前「そうなんだ。飲みたい日と飲みたくない日があるんだね」

斎藤「…新八達は違うようだが」

名前「あはは、確かに」


斎藤の言葉にケラケラと笑った名前は、もう一口お茶を飲む。
その挙動はゆったりとしたもので、お茶の味をじっくりと味わっているようだった。
斎藤はちらりと隣に目を向けたが、彼女は至って普段通りであった。

斎藤が思い起こすのは先程、永倉が名前を花街に誘った時のこと。
あの時、明らかに名前の表情が強ばった。
ただ花街や酒が苦手というだけの表情には見えなかった。
あの時の彼女の瞳に浮かんでいたのは、明確な恐怖。
見たことも無い程暗い瞳だったのだ。

一年の間をほぼ毎日共に過ごしてわかったことがある。
それは、彼女がごく稀に暗い表情を見せる時があるということ。
斎藤は、己の事を自ら語ることは殆どない。
だからこそ、相手の事を探ることもしない。
しかし何故か、彼女に関しては例外的に気になってしまう。

春のように麗らかな笑顔を、時折遮る影。
一体何が、彼女をそうさせているのか。


斎藤「…名前」

名前「ん?」

斎藤「…もしあんたが言いたくないのなら、答える必要はない」

名前「…うん?」


名前は目をぱちくりさせて首を傾げる。
斎藤は彼女の表情を窺いながら慎重に口を開いた。


斎藤「…先程、浮かない顔をしていたように見えたのだが…」

名前「…え?そうだったかな…いつ?」

斎藤「…新八が、あんたを誘った時だ」


硝子玉のような焦茶が、揺れた。
温かな笑顔を遮ったその影を、斎藤は明確に捉える。
しかし沈黙する名前を見ていると、やはり聞かない方が良かったかと後悔すらしてしまう。


斎藤「…すまぬ。要らぬ世話だったな」

名前「…あっ、ううん!違うの、そうじゃなくて」


名前はハッとしたように顔を上げると、慌てて首を横に振った。


名前「ただ、ちょっと…びっくりしちゃっただけ。今まで誰にも言われたことなかったから…」


一君はよく周りを見てるんだね、と言ってふわりと笑う名前。
しかしその笑顔はどこか儚さを感じる。

すると、名前はコトンと静かに湯呑みを置いた。
それが、彼女が口火を切る合図となった。


名前「…前にさ、私と兄様があんまり似てないって平助が言ってたことがあったじゃない?」

斎藤「…ああ。焼き芋をした時だったか」

名前「そうそう。あの時は似てない兄妹もいるって土方さんが言ってくれたけど…私と兄様は、似てなくて当然なんだよね」

斎藤「…当然、とは」

名前「…私ね、兄様と血が繋がってないの。父様とも…本当は、此処に私の血縁はいない」


斎藤の切れ長の瞳が名前を捉える。

斎藤が驚かなかったと言ったら嘘になる。
しかし名前の兄である近藤も、周斎の養子に入った身だ。
この時代で養子になる事は、特段珍しい事でも無いのである。


名前「…だけど、私は…本当の両親が誰なのかわからない。覚えていないの」

斎藤「…覚えていない…?」

名前「…両親だけじゃない。辛うじて年齢は覚えていたけど、それ以外は覚えていない。家族も、生まれた場所も……自分の本当の名前も」


そう言って名前は、静かに空を見上げた。
空は、彼女の話し声のように穏やかだった。
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