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──── 安政六年(1859年)、二月。
しんしんと粉雪が音もなく降り続いている。
そんな中、一人の少女が冷えきった体で足早に町の中を歩いていた。
少女の名は近藤名前。
近藤勇の妹であり、試衛館という道場で暮らしている。
十四歳となった名前は、毎日雑用と剣術の稽古をこなす日々を送っていた。
しかし名前は、それに対して不満を持ったことはない。
自分が庭の畑を耕し作物を作れば、皆喜んで食べてくれる。
道場の掃除をすれば、兄弟子達が嬉しそうに感謝を述べてくれる。
お使いに行けば周斎や、歳の離れた兄である勇が褒めてくれる。
名前は、皆の笑顔が大好きだった。
皆の笑顔を見るために、名前は毎日一生懸命に雑用をこなす。
しかし、普段は不満ひとつ零さず名前であったが、今日ばかりは溜息という名の白い息を吐いていた。
今日は、とにかく運が悪い日であった。
雪が降る中、強風に見舞われて、元々古かった傘は骨が折れて使えなくなってしまった。
しかもそのせいで体勢を崩し、思い切り尻餅をついて転んでしまったのである。
おかげで着物は下半身がびしょ濡れ。
おまけに雪が休むことなく降っており、新しい傘を買う金など持っていないため、結局全身ずぶ濡れとなってしまったのである。
これにはさすがの名前も溜息を零すのであった。
名前「寒い……」
風呂敷に覆われた包をぎゅっと抱え直し、体を震わせながら名前は足早に帰途につく。
髪はしっとりと水分を含み、そこから伝う幾筋もの雫が名前の顔を濡らしていた。
……そのせいで、無意識に俯いてしまっていたのだろう。
──── ドンッ……
名前「わっ……!」
「ってぇ……!!」
名前は前からやってきた男に気付かず、思い切りぶつかってしまった。
小柄な名前はまたもや体勢を崩してしまい、雪の上に尻餅をつく。
ああ、今日はやはり運の悪い日だ。
名前が顔を上げれば、腰に刀を差した中年の男がギロッと此方を睨みつけていた。
明らかに怒っている様子である。
名前「あっ……す、すみませんでした」
慌てて立ち上がり、名前は頭を下げた。
だが男は殺気立った目を名前に向けたまま、容赦なく怒鳴りつけた。
「どこ見て歩いてやがる!!俺の足を踏みやがったな!?見ろ、てめぇのせいで鼻緒が切れちまったじゃねえか!!」
名前「わっ……!?」
どうやら男は酒を飲んだ後らしく、かなり酔っ払っているようだった。
あろうことか、男は名前の胸倉を掴み上げる。
名前としては、男にぶつかってしまった自覚はあったが、足を踏んだ覚えはない。
男の鼻緒が切れてしまったのは鼻緒の寿命がきていたのであり、ただの偶然だろう。
「どうしてくれんだよ!弁償しろ!!」
名前「わ、私っ…踏んでな、」
「あぁ!!?」
名前「ひっ……」
誤解を解こうと弁解するも、名前は言葉を切った。
自分に向かって怒鳴り散らす男に恐怖を覚えてしまったのである。
鼻緒が切れたなら布で結び直せばいい。
そもそも名前は男の足を踏んではいないのだから、弁償する必要はない。
しかし、そんな簡単なことにも気付けなくなるほど、名前は怯えてしまっていた。
──── 酔っ払った男の狂気じみた目が、名前の中に眠る嫌な記憶を呼び覚ましてしまったから。
縄で手を縛られ、罵声を浴びながらひたすら獣道を歩いていた、あの日々の記憶を。
名前「や、だっ……ご、ごめんなさいっ……!!」
カタカタと小刻みに震える体。
名前の瞳に恐怖の色が浮かんだのを見て、男はそれを面白がるように口角を上げた。
「……その身なりじゃ、そんなに金持ってねえんだろ?よく見たらいい顔してるじゃねえか、体で払えよ」
名前「い、嫌っ……お願いします、許してください!」
ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべる男を見て、名前は血の気が引いていくのを感じた。
胸倉を掴まれたまま、左右に必死に首を振る名前。
その拍子に、名前の首に掛かっていた物が男の目に入ったらしい。
「ん?なんだ、金になりそうなもん持ってんじゃねえか」
──── ブチッ……
名前「痛っ……!!」
名前が身につけていた、水晶の首飾り。
男はそれを何の躊躇いもなく引きちぎった。
その拍子に肌が少し切れてしまったらしく、名前の首からは赤い血が微かに滲み出る。
しかし名前は、それどころではなかった。
名前「嫌っ……返して!!それは駄目なの!!」
男から必死に首飾りを取り返そうとする名前。
彼女にとってその首飾りは、お金よりも大切な物なのである。
しかし自分よりも背の高い男に、胸倉を掴まれた状態では適うはずがなかった。
名前は助けを求めようと咄嗟に辺りを見回すが、関わるまいとしているのか、此方を見ている者は誰一人としていない。
絶望的な状況だった。
名前「お願いしますっ、返してください!!」
「あぁ?それなら体で払うか?」
名前「っ、」
名前にとって、それは急遽の二択であった。
……ああ、もう駄目かもしれない。
そんな最悪の未来が、脳裏を過ぎった時であった。
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