銀桜録 試衛館篇 | ナノ


1

──── 文久三年 一月。

年が明け、名前は十八歳になった。
それと共に、斎藤が行方を晦ましてからひと月程が経っていた。

"今日も斎藤は来なかったな" 、"何処に行っちまったんだろうな" 。
道場の中では、そんな会話が年が明けてからも時折交わされていた。

しかし斎藤が道場に来なくなってから、名前は彼の名を口にしなくなった。
それどころか、斎藤の話をする事も一切無くなった。
沖田や原田など名前の恋心を知る者も、何かを察しているのか、彼女の前では決して斎藤の話をしなかった。


名前はこのひと月、いつも通りに働き、稽古をし、変わらぬ笑顔を浮かべている。

名前は、表情豊かな少女だ。
嬉しい時は目を輝かせて喜び、腹が立った時には憤りを隠さず口に出す。
そんな名前だが、悲しみだけは人前で顕にしない。
人前では絶対に、涙を見せない少女であった。
現に、試衛館の者で名前の涙を見たことがある者は一人も居ない。

斎藤を誰よりも慕っていた彼女が、傷付いていないはずがないのに。
それでも悲しみを隠していつも通りに笑う彼女の笑顔は、沖田や原田の心を何度も締め付けた。
同時に沖田と原田は名前を気遣い、斎藤の話は絶対にせずにいつも通りに彼女に接することを努めるようになっていた。

…それでも、名前が時折寝る前に枕を濡らしている事に気づく者は、誰も居なかったのである。


******


それは、一月も下旬の事であった。


名前「総ちゃーん、起きてー」

沖田「……」

名前「駄目だ、完全に寝てる…」


自分の膝の上で眠る沖田を見て、名前は小さく溜め息を吐いた。

少し前、取り込んだ洗濯物を縁側で畳んでいると、ふらりと沖田が現れた。
そして隣に座ったかと思えば名前の膝の上に滑り込んできて、そのまますやすやと眠り始めたのである。

どうやら初めから名前の膝の上で眠ることが目的だったようで、ご丁寧に自分の褞袍まで持参してきた沖田。
それに気づき、名前は思わず苦笑いを零す。

そして洗濯物を畳み終えてから、沖田を起こそうとその体を揺さぶったところなのだが、彼は全く起きる気配を見せなかった。


名前「総ちゃん、土方さんがそろそろ帰ってくるから怒られちゃうよ。ちゃんと稽古しろーって」

沖田「……」

名前「ねえ、起きてよー」

沖田「やだ」

名前「えー……って、起きてるじゃん!!寝た振り!?」

沖田「今起きたの」


狸寝入りかと問い詰めれば、今起きたのだと不機嫌そうに返される。

おまけに彼はもぞもぞと寝返りをうつだけで全く起きようとはしない。
そして膝の上で寝返りをうたれては、名前としても擽ったい。


名前「っ、あはは!ねえ、擽ったいよー」

沖田「……(モゾモゾ)」

名前「ねえ動かないでってば、あはははっ!やだ、擽ったい!」


沖田が寝返りをうつ度に身を捩って笑う名前。
沖田も沖田で完全にわざとやっているようだ。
おまけに名前の脇腹をつんつんと突っついている。


井上「相変わらず、二人は仲が良いねぇ」

名前「っ、源さん!あははっ、助けて!総ちゃんが意地悪してきますっ、ふ、あはははっ!!」


止まぬ擽り攻撃に耐えきれず、通りかかった井上に助けを求める名前。
しかし井上は、ほっこりした表情で二人を見守りながら笑っていた。

…すると、ふと背後に感じる人の気配。


土方「…なにサボってやがる、名前、総司」

名前・沖田「「げっ」」

土方「げってなんだ!」


名前の背後に立ってこちらを見下ろしているのは、目をつりあげた土方であった。
それはもう般若のような形相で、今なら角も見える。


名前「待ってください土方さん、私は被害者です!洗濯物を畳んでたら総ちゃんが悪戯してきたんです!」

沖田「あ、ずるい。僕を売るの?」

名前「お返しだもんねー」


べ、と名前が舌を出せば沖田はムッとして口を尖らせる。
未だ呑気に言い合いをしている二人に、土方はわなわなと震え始めた。


名前「…げっ、土方さんすっごい怒ってる!ねえ、総ちゃん起きてってば!(コソッ)」

沖田「えー。土方さん、そんなに怒りっぽいと白髪が増えますよ。眉間の皺も取れなそうだし」

名前「ちょっ、火に油!!」

土方「うるせえ!!いいからさっさと準備しやがれ!!」


途端に土方からの雷が落ち、名前と沖田はパッと耳を塞いだ。
この距離で怒鳴られてはたまったもんじゃない。

耳を塞いでも貫通してきた土方の怒鳴り声であったが、その内容を理解するや否や二人は顔を見合わせた。
近くにいた井上も不思議に思ったようで、首を傾げて尋ねる。


井上「準備?おや、これから誰か来るのかい?」

土方「ああ」

沖田「またあの似非薬を買いに来る人がいるんですか?」

土方「似非ってなんだ!あれは飲んでも飲まなくても変わらねえだけだ」

名前「いやそれを似非って言ってるんですよ」

土方「…って、ンなこたァ今はいいんだよ!さっさと起きろ!!」

沖田「はーい」


気の抜けた返事をして、ふわぁ、と大きな欠伸をしながらようやく沖田は体を起こした。
何度も寝返りをうったせいか沖田の髷は若干崩れてしまっており、それに気付いた名前が彼の髪を整える。

すると聞き慣れた足音が聞こえてきて、近藤が現れた。


近藤「お、皆やってるな!揃ってるか?」

沖田「近藤さん!」

名前「わっ、もう動かないでよ総ちゃん!兄様、こんにちは」

近藤「ああ」


普段から笑みを浮かべていることが多い近藤だが、道場に入ってきた彼はいつもよりも明るい表情であった。

名前はパッと沖田の髷を結い上げ、沖田と共にその場に立った。
それを見た近藤は、明るい声で話を続ける。


近藤「実は、皆に紹介したいお方がいるんだ」


名前は目をぱちくりさせて沖田と顔を見合わせる。
それとほぼ同時に、近藤の後ろから体躯のいい男が現れた。


?「……やはり古汚いな」


上質な着物と羽織に身を包み、腰には二本の刀。
ギロリと道場を見渡す視線は鋭く、その顔付きや風格には威厳がある。
ただの町娘である名前でさえも、一目でその男が只者ではない事がわかるような容姿であった。

その男の後ろには、どうやら付き人らしい男がおり、こちらはなんだかひょろひょろと痩せていて目つきが悪い。
言ってしまえば、全く対照的な二人であった。
唯一の共通点といえば、どちらも近藤のような柔らかで人の良さそうな雰囲気を纏っていない事だろう。


近藤「この方は、水戸藩士である芹沢鴨殿。そして此方が新見錦殿だ。お二方には今後お世話になるだろうから、宜しく頼むぞ」


にこにこと恵比寿顔で語った後、近藤は「さ、芹沢殿、此方へ」と腰を低くしながら芹沢という男を客間に案内しようとする。
しかし芹沢の鋭い視線は近藤ではなく、名前へと注がれた。


芹沢「……」

名前「…?」


ギロッと鋭い目を向け、名前の姿を視界に入れる芹沢。
目が合った事に気付いた名前は、不思議に思いながらも頭を下げる。

すると芹沢は口角を上げ、小馬鹿にしたような目を向けて鼻で笑った。
名前は、あの目をよく知っている。
芹沢以外からも何度か向けられたことのある目だったからだ。

天然理心流は木刀で稽古を行う、実践を想定した剣術である。
これはそもそも泰平の世における剣術の在り方に反しており、泥臭い田舎剣法であった。
精神面を鍛える為に女子が剣術を学ぶのは珍しいことではないのだが、天然理心流のような実践剣法を学んでいるとなると周りからの目は変わってくる。

「道場主の近藤勇の妹」という肩書きと名前の人懐っこく誰にでも好かれる性格は、町の人々に名前が天然理心流を学んでいる事を理解してもらうための助けとなっていた。

しかし、それでもやはり奇妙な目を向けてくる者は少なからずいるのである。
最早慣れた事なので、名前自身は侮蔑の目を向けられることは今や全く気にしなくなったのだが…。
その代わり、当の本人である彼女よりも気にする人物がいるようで。


沖田「……」

名前「…総ちゃん…?」


サッと名前の視界が見慣れた着物で遮られる。
名前を背中に隠すように立つ沖田は、キッと芹沢を睨みつけていた。
見た事もないほど怖い顔をしている沖田を見て、名前は小さく息を飲む。

しかし芹沢は沖田には目もくれず、近藤の案内に応じて新見と共にその場から出て行ったのである。


沖田「…土方さん、なんですかあの人」


名前に侮蔑の目を向けた芹沢を、早速沖田は嫌いな人物と位置付けたようである。
あからさまに不機嫌な沖田には土方も気付いていたようで、小さく溜め息を吐いた。


土方「…今晩話す。夕餉の後、全員此処にもう一度集まってくれ」


そう言い残し、土方も近藤達の後を追って道場を出て行った。


沖田「…名前、大丈夫?」

名前「あはは、大丈夫だよ。ありがとう」


慣れてるし、と笑う名前であったが、沖田は益々複雑そうな表情を浮かべた。


沖田「何なんだろうね、あの人たち」

名前「さぁ…。水戸藩士って言ってたよね」


ただの道場主である近藤が、なぜ芹沢のような武家と関わりがあるのだろう。
だが少し考えてみるとふと思い当たることがあり、「あっ」と名前は声を上げた。


名前「もしかしてあれじゃない?少し前に新八さんが言ってた話」


それは、今から十日程前のこと。
永倉が、とある話を持ってきた。


永倉「なあ近藤さん、土方さん。さっき町に出た時に耳にしたんだが、幕府のお偉いさん方が攘夷の為に腕の立つ連中を募集してるらしいぜ。何でも、身分は問わねえって話だ。どうだ、いっちょ参加してみねえか?」


夕餉時に永倉が持ち出したその話で、皆は沸き立った。
近藤に至っては「それは真か!?」とまるで少年のように目を輝かせていた。
しかしそれは本当の話なのかわからず、そして詳細も不明であったため、一旦保留という事になっていたのである。

名前がその話をすると、沖田も「ああ、あれか」と思い出したように頷いた。


名前「もしかしたら何か詳しい事がわかったのかも」

沖田「確かに有り得るね」

名前「もしそうだったら凄いね!だって、もしかしたら刀を二本差しするかもしれないんでしょう?総ちゃんがお侍さんみたいになるんだね、かっこいい!」


目をキラキラと輝かせて興奮したように捲し立てる名前。
「気が早いよ」と沖田は彼女を受け流す。

しかしそんな会話をしながらも、二人の頭を過ぎったのは全く同じことであった。
それは、"もし本当に沖田達がその募集に参加したら、名前はどうなるのだろう" ということ。
そして二人は、その答えも分かっている。
名前と共に過ごせる時間が少なくなるのだろう、と…。

しかしそれは決して口にせず、二人は他愛も無い話に花を咲かせてから、いつも通りに稽古を始めたのであった。
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