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─── 冬は、日が沈むのが早い。
夕方、いつの間にか斎藤が道場から居なくなっていることに気づいた名前は、彼を探して外へと出る。
ちらちらと雪を降らす灰色の雲が空を覆い、辺りはすでに薄暗くなっていた。
薄く降り積もった雪を踏みながら歩けば、道場の門から出て行く見知った背中を見つけた。
名前「一君っ…!!」
今度はしっかりと足が動いた。
地面を蹴り、パッと彼の着物の袖を掴んで引き止める。
斎藤「……名前。どうかしたのか」
斎藤が、ゆっくりと振り返って名前を見下ろす。
しかし名前は、彼の問いに言葉に詰まってしまった。
斎藤が居ないことに気付いて、反射的に追いかけて来てしまっただけなのだ。
何かあったのかと聞くにしても、斎藤が簡単に口を割るとは思えない。
私事であれば、彼は尚更貝のように口を閉ざしてしまう気がしたのである。
名前は悩んだ挙句、言葉を選びながら恐る恐る声を出した。
名前「…あの…明日も、来てくれる…よね?」
彼の心の中に土足で踏み入るような真似はしたくない。
何かあったのかと無理やり聞き出して、彼を傷付けてしまうのは嫌だった。
だが、此処に顔さえ出してくれれば。
いつも通りに騒いでいる名前達を見て、いつも通りにひたすら木刀を交わせて、少しでも心を和らげてくれたら、と。
そんな思いから放った言葉。
これが、名前が考えた精一杯の問いかけであった。
お願いだから、「何を言っているのだ」と笑ってほしい。
願わくば、「来る」と…そう言ってほしい。
言いようのない不安に駆られて、胸が苦しくて。
きゅ、と斎藤の着物を掴む己の手に力を込めた。
─── しかし。
斎藤「…名前」
名前「……え、?」
斎藤のひんやりとした手が、着物を掴む名前の手に重なった。
彼の手は一瞬、きゅっと名前の小さな手を握ってから ───
そっと、彼女の手から自身の着物を離させたのである。
斎藤は今まで、名前を突き放したことなどなかった。
斎藤らしからぬ行動に困惑し、名前は彼の顔を見上げる。
名前「……はじめ、くん?」
声が、震えた。
名前を見つめるその蒼は、何かを深く憂いていた。
それは夢の中で見た、今にも雪に溶けてしまいそうなあの瞳と同じであった。
ちらちらと降る雪が彼の長い睫毛に落ち、溶けて小さな雫となる。
それが蒼を微かに潤ませているように見え、こんな時でも美しいと感じてしまう。
斎藤「…名前…すまない」
斎藤の手が、離れた。
どちらからともなく吐き出された白い息が、まるで壁のように二人の間を隔てる。
蒼い瞳が静かに伏せられ、名前を視界から外した。
斎藤の背中が、静かに遠ざかっていく。
…名前が、その背中を追いかけることはなかった。
" 斎藤「…俺はあんたに嘘など付かぬ」"
それはいつだったか、斎藤が言っていた言葉。
何も言わずに立ち去ることも、嘘を付くこともできたはずなのに。
斎藤はその言葉通り、名前には嘘を付かなかった。
それが、斎藤なりの名前への誠意だったのである。
名前「……一君」
先程の彼の言葉は、今生の別れの言葉。
恐らくこの先、もう二度と。
彼に会えることはないのだろう。
彼の背中が次第に小さくなり、雪の中に消えた時。
頬を伝った一粒の雫が、地面の雪を濡らした 。
─── それ以降、斎藤が試衛館を訪れることは、二度と無かった。
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