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─── 何も無い、何処までも続く白い空間。
名前は一人、そんな不思議な場所に立っていた。
以前も似たような景色を見たことがある。
確か、見合い話のせいで体調を崩して寝込んだ時だった。
あの時は、ただひたすらに真っ白な空間を走っていた。
自分が何処にいるのかわからなくて、必死になって走っていた。
そんな時、手を握ってくれたのは ─── 。
名前「…一君?」
少し先に、見覚えのある背中が現れる。
毎日目にしている、いつもと変わらぬ背中のはずなのに。
その後ろ姿に不安を覚えてしまうのはなぜだろう。
名前「一君!!」
大きな声で彼の名を呼ぶ。
彼は、ゆっくりと此方を振り返った。
斎藤「……名前、─── 」
名前「……え、?」
斎藤の口元が動く。
自分の名前までは聞き取れたが、その後はぷつんと音が途切れた。
一瞬だけ、彼と目が合う。
静かに溶けてしまいそうなほど儚く、悲痛な瞳だった。
その切れ長の蒼は静かに伏せられて、斎藤はその場を去って行く…。
名前「待って、一君!!」
追いかけても追いかけても、その距離は縮まらない。
それどころか、どんどん離れていく。
そして終いには、彼の姿は跡形もなく消えてしまった ───。
名前「 ─── っ!!」
ドンッと何処かから突き落とされるような感覚に陥り、名前はハッと目を開いた。
目に映るのは、いつもと何一つ変わらぬ部屋の天井。
名前「…夢…?」
嫌な夢だった。
何を意味するのかはわからないが、とにかく胸騒ぎを覚える夢だった。
あれは、一体何だったのだろう。
名前「…一君…」
もしや、彼の身に何かあったのだろうか。
自分はそんな特異な力など持っていないはずだが…。
もう一度枕に頭を乗せるものの、その後は眠れることはなかったのである。
******
─── 翌日。
朝餉を終えて、名前が皿を洗っていると。
沖田「……寝不足なの?」
名前「わっ、!?」
ひょい、と沖田が顔を覗き込んできた。
突然目の前に現れた沖田の顔に驚き、名前はビクリと体を跳ねさせる。
名前「…びっ、くりした!総ちゃん!」
沖田「ごめんって。それよりどうしたの?隈できてるけど」
名前「ん、?」
沖田の指がツツ、と名前の涙袋を軽くなぞる。
なんだかくすぐったくて、名前は小さく身を捩った。
名前「あー…実はちょっと、昨日はあんまり眠れなかったの」
沖田「へえ。怖い夢でも見た?」
名前「……まあ、そんな感じ」
あながち間違いでもなかったので、名前は素直に頷く。
てっきり馬鹿にされるかと思ったが、予想に反して沖田は笑わなかった。
それどころか、不満そうに口を尖らせている。
沖田「…それなら、僕の所に来れば良かったのに」
名前「いやいや、怖い夢見たからって総ちゃんの所に行くとか…小さい子供じゃあるまいし」
沖田「眠れないよりはマシでしょ。それに君なら別に構わないけど」
名前「……どうしたの、今日はなんか優しいね」
沖田「失礼だなぁ。僕が君を心配しちゃ悪い?」
名前「そうじゃないけど…。でも、ありがとう」
名前は皿を洗う手を止めて、沖田を見上げながら礼を言った。
すると、皿を浸けた桶の前に屈む名前を、ずいっと押し退けるように沖田が割り込んでくる。
名前「わっ、何?」
沖田「後は僕がやっておくから。君は少し休んでなよ」
名前「えっ、私は大丈夫だよ!?」
沖田「僕の親切を無下にする気?」
名前「えええ……」
自分で "親切" と言ってしまうあたりが沖田らしいのだが、これが彼なりの気遣いだということは名前も十分にわかっている。
そしてここで断れば、無理やり部屋に連れて行かれて横にならされるであろうことも。
伊達に十年の年月を共に過ごしていない。
名前「……ごめん。じゃあお願いしてもいい?」
沖田「うん。ちゃんと休んでなよ」
名前「ありがとう。でも風邪じゃないし平気だよ」
へらりと笑えば沖田がジトリとした目で睨んできたので、名前は慌てて謝った。
名前が一度倒れてからというもの、沖田は異様に名前の体調に厳しくなった。
まあ、一度生死の境を彷徨っているので当然なのかもしれないが。
これ以上怒られぬよう、名前はそそくさとその場から去る。
名前「 ─── わっ、!?」
しかし、突然曲がり角から出てきた人物にぶつかりそうになり、名前は思い切り体勢を崩してよろめいた。
斎藤「っ、すまぬ。大丈夫か」
名前「…は、一君!ありがとう」
パシッと腕を掴まれたおかげで、床に尻餅をつかずに済んだ。
しかも、曲がり角から現れて名前の腕を掴んでいたのは斎藤であった。
昨日見たあの夢は、まるで斎藤が何処か遠くへ行ってしまうかのような夢だった。
もしそれが正夢となったらどうしようかとずっと不安だったのだが、どうやらそれは杞憂だったらしい。
名前「おはよう」
いつも通りの斎藤の顔を見ると安心感が湧いてきて、ほっと息を吐きながら挨拶をする。
斎藤「…ああ、おはよう」
微かに笑みを浮かべて挨拶を返してくれた斎藤。
彼はそのまま名前の横を通り過ぎ、道場へと向かって行く。
いつもと何も変わらない、やり取りのはずなのに。
名前「……?」
…チクリ、と胸が微かに痛んだ。
パッと振り返れば、目に入るのは遠くなっていく斎藤の背中。
─── その背中が、あの夢と重なって。
名前「……っ、」
ドクンッ、と心臓が大きく飛び跳ねる。
今すぐにでも彼を引き止めたい衝動に駆られたが、完全に体が固まってしまっていて動かなかった。
名前「…気のせい、だよね」
一瞬乱れた呼吸を整えながら、そんな言葉を口にする。
まるで、自分に言い聞かせるかのように。
そう、絶対に気の所為だ。
あんなのは、ただの夢に決まっている。
ふぅ、と大きく深呼吸をしてから、名前は自分の部屋へと戻ったのであった。
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