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名前「 ─── すみません、着物お借りしちゃって……」
そう言って名前は申し訳なさそうに眉を下げた。
そんな彼女の目の前に立っているのは…。
松「あら、いいのよ!大丈夫?体冷えたでしょう?」
名前を心配そうな顔で見ているのは、団子屋のお松である。
先程、土砂降りの中をさ迷っていた名前に声を掛けたのはお松であった。
どうやら買い物帰りだったようで、その途中で名前を見かけたらしい。
ずぶ濡れの名前を見たお松は急いで店に連れ帰り、自分の余っていた着物に着替えさせたのである。
名前「もうだいぶ髪も乾きました。本当にありがとうございます」
松「そう?でも雨もまだ止まなそうだし、ゆっくりしていって」
名前「すみません、お茶まで…いただきます」
親切にもお松は温かいお茶まで入れてくれた。
それを飲むと、雨に濡れて冷え切っていた体がじんわりと芯から温かくなる。
すると、お松は何かを思い出したように「そうそう、」と声を上げた。
松「そういえば名前ちゃん、聞いた?ここ数日、辻斬りが起こってるんですって」
名前「えっ、辻斬り!?この辺でですか?」
松「ええ、それも女子供ばかりを狙っているみたいでねぇ。さっきも何処だかで女性の遺体が見つかったってお客さんが言ってたわ。だから帰る時は気を付けてね」
名前「そうなんですか…。ありがとうございます、お松さんもお気を付けてくださいね」
松「ええ。それにしても怖いわねぇ、辻斬りなんて…」
名前「そうですね…」
何の罪もない女子供を狙うとは、なんて卑劣な人間なのだろう。
そして、念の為近藤や土方に伝えるべきかと名前が考えていた時である。
「 ─── いやー、参った参った!」
松「あら、いらっしゃい!」
バタバタと慌てたように暖簾をくぐって入ってきた男。
それは此処よりも少し先の方にある鋳掛の店の主人であった。
また、この店の常連客でもある。
傘を持ってはいるが、何故か全身ずぶ濡れであった。
鋳掛屋「悪いがお松さん、少しばかり雨宿りをさせてもらえねえか?強風で傘が壊れちまってよ」
松「あら、それは災難だったわねぇ。さ、どうぞ座って。今手拭いをお持ちしますから」
鋳掛屋「すまねえなぁ。ついでにお茶と団子をくれるかい」
松「はいただいま」
雨の中を慌てて走ってきたのだろう。
鋳掛屋の主人は息を切らし、疲れたように腰掛けた。
そして、同じく座っている名前に気付いたらしい。
鋳掛屋「…ん!?名前ちゃんじゃねえか!」
鋳掛屋の主人は名前を見て、驚いたように声を上げた。
しかし名前は、彼とはよくこの店で居合わせることが多かった。
いつもはそれほど驚かれないため、なんだか不自然な反応であった。
名前「こんにちは」
松「ほら、手拭いだよ。どうしたんだい、そんなに大きな声を上げて。名前ちゃんならいつも此処で会ってるじゃないの」
鋳掛屋「ん?ああ…いや、すまねえな」
鋳掛屋の主人は手拭いを受け取ると、体を拭きながら何故驚いたのかその理由を話し出した。
鋳掛屋「…いや、実はな。さっきすぐそこで名前ちゃんを探してる男に声を掛けられたんだよ」
名前「えっ、私を…?」
鋳掛屋「ああ。"近藤名前を見ていないか" ってそりゃもう切羽詰まった様子でな。今日は見てねえって言っちまったんだが…。参ったな、此処に居たのか。あの兄ちゃんにゃ悪いことしちまったな…」
松「ふうん…なんだか怪しいねえ。ここ最近出てる辻斬りの類じゃないのかい?」
鋳掛屋「辻斬り?いや、そんな風には見えなかったがなぁ…」
鋳掛屋の主人はその男のことを思い出しながら、「うーん」と唸りながら考え込んでしまった。
しかしお松の言う通り、なんだか怪しいというか怖いというか。
辻斬りの事を耳にしたばかりのせいであろうが…。
自分の名前を知っているなんて、一体誰なのだろう…と、名前が不安に思い始めた時であった。
パシャパシャと水を弾く音が近付いてきたかと思うと、一人の男が焦った様子で暖簾をくぐって入ってきた。
斎藤「っ、失礼する。此処に近藤名前は来ておらぬか」
松「えっ?あら、あんたは確か試衛館の…」
名前「…えっ、一君!?」
斎藤「っ!名前…」
店に入ってきたのは斎藤であった。
余程急いで来たのか、珍しく息を切らしている。
突然のことに驚いて名前が声を上げると、斎藤の切れ長の蒼い瞳が名前に向けられる。
そしてその蒼は、驚いたように見開かれていった。
すると、斎藤の姿を見た鋳掛屋の主人が「あっ」と声を上げた。
鋳掛屋「ああ、名前ちゃん!この兄ちゃんだよ」
名前「えっ!」
斎藤「っ、あんたは、先程の…」
鋳掛屋「いや、すまねえな兄ちゃん。まさか此処に居るとは俺も思わなかったんだ」
申し訳なさそうに謝る鋳掛屋の主人に、斎藤はゆっくりと首を振った。
それにしてもまさか、名前を探していたのが斎藤だったとは。
不審者でなくてよかった、と名前はお松と顔を見合わせながら、ほっとして息を吐いた。
鋳掛屋の主人の方を向いていた斎藤の視線が再び名前に移る。
普段通り表情はほとんど変わっていないが、どこか安堵しているように見えた。
…そういえば、斎藤は何故名前を探していたのだろうか。
名前「一君、私を探してたって…一体どうしたの?もしかして何か急ぎの用事?」
斎藤「…いや、それは…」
名前の問いに、斎藤は何かを迷うように口篭り、目を伏せた。
そして言い辛そうにゆっくりと口を開く。
斎藤「…先程平助から、町で女子供を狙う辻斬りが頻発していると聞き及び…今日はあんたの戻りが遅かった故、もしや何かあったのではないかと…」
斎藤の言葉を聞いた名前は、目をぱちくりと瞬かせた。
それは、つまり…。
名前「…心配して、来てくれたの…?」
斎藤「…っ、す、すまぬ。俺の早とちりだったようだ」
名前の言葉に、斎藤は気まずそうな表情を浮かべて目を伏せた。
名前の身を心配して、斎藤はこの雨の中を必死に探してくれていた。
普段の冷静さを失ってしまう程、焦って名前を探してくれたのだ。
彼には悪いが名前はなんだか嬉しくなり、小さく笑みを零してしまう。
名前「えへへ、そうだったんだ。ごめんね、心配かけちゃって。酷い雨だったからさ、お松さんのお言葉に甘えさせてもらって此処で雨宿りしてたの」
斎藤「…そう、か…それならば、良かった…」
余程心配していたのだろう。
緊張が解けたのか、斎藤は安心したように吐息を零した。
すると、そんな二人の様子を見ていたお松がクスクスと笑い、名前にこっそりと耳打ちをする。
松「名前ちゃん、もしかしてこの人が例の人?(コソッ)」
名前「っ!!?」
"例の人" の意味を理解した途端、ボンッと何かが爆発したかのように名前の顔が赤くなった。
名前は、斎藤の事をよくお松に話しているのである。
想い人であるとはっきり言った覚えはないのだが、何故かお松は全て察しており、幸せそうに斎藤の話をする名前を見守っていたのであった。
察しの良いお松は、名前の反応で彼が名前の想い人だとすぐにわかったらしい。
松「ああ、やっぱりそうなのね!良い男じゃない(コソッ)」
名前「いっ、いやっ、あの!全然、そういうのじゃないんですって!」
斎藤「…どうしたのだ?」
名前「ひえっ!な、なんでもないよっ!」
突然大きな声を発した名前を不審に思ったのか尋ねてくる斎藤に、名前はあたふたしながら否定をする。
慌てふためく名前を見てお松がさらに笑うので、名前の顔は真っ赤に染まったままだ。
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