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金糸銀糸の縫い付けられた帯をきつく締めると、否応なしに新年を迎えるのだという気持ちが高まってくる。すっと背筋を正したくなるような厳かな気分だ。
身だしなみを整えた私は、居間へと向かうべく自室を出た。
隣の部屋の扉がうっすらと開いていて、笑い声が漏れ聞こえてくる。隣はモエの部屋のはずなのに、笑い声にはセツのものも混じっていた。
そっと扉の隙間から中を窺うと、黒いドレスの背中が見えた。そしてその前にいるのは白いカッターシャツ姿のセツ。
普段は決して笑わないのに、セツの口の端は微笑を湛えている。モエといる時にだけ――いいえ、正しく言うのならモエの爪を磨いている時にだけ、セツは微笑を浮かべる。
けれどその微笑は冷たく、見ているこちらに背中を氷が伝い落ちていくかのような感覚を起こさせる。
「セツ、もっと鋭く。そっと撫ぜただけでも白い肌に紅い筋を浮かべるくらいで無くてはダメよ」
クスクスと笑いながら、モエは甘えるようにセツの肩にもたれかかった。セツの方が三つほど年長なのだけれど、モエは決してセツを「兄」とは呼ばない。私のことは、モエもセツも「姉さま」と呼ぶ。それは同時期にこの屋敷に来た二人から、そしてこの屋敷の主であるおじさまから明確な線引きをされたようで、私の心を苦しくさせた。
二人が屋敷に来た日から次第に、おじさまは私よりも二人といる時間の方が長くなっていった。いいえ。二人ではなく、モエといる時間の方が――。
おじさまにも、セツにも上手に甘えられるモエ。
けれど私は、この夢のような空間が、砂糖菓子のような世界がいつか溶けて消えてしまうのではないかと思うと怖くて、素直に手を伸ばすことが出来ないでいる。
この屋敷に来てから、もう十年の歳月が経とうとしているというのに。
モエのように、魅惑的な眼差しを誰かに向けることも出来ず、おじさまの望みにも応えられないでいる。
それは、私が頑なだからなのだろうか。
扉を握る手に力がこもってしまったのか、ギギッと軋むような音を立てた。
それに気づいたセツが、こちらに視線を投げた。モエは気づいていないのか、セツの肩にもたれかかったままでいる。
セツはそっとモエの艶のある長い黒髪を撫で付けると、こちらに向かって微笑んだ。
セツがこんな風に私に微笑みかけるなんて滅多にないことで私は心臓が跳ね上がるような気持ちがした。
「姉さま。姉さまの爪も磨こうか?」
銀色に光るヤスリをこちらに向けて、セツが問う。その声にモエも振り返った。
「ああ、姉さま」
彼女がまだ十二歳の少女であると分かっていても、この魅惑的な瞳を向けられるとドキリとする。同性である私でさえこうなのだから、男であるセツやおじさまはどんな気分になるのだろうか。
「セツは爪を磨くのがとっても上手よ。姉さまも、鋭く尖るような爪にしていただくと良いわ」
言われてモエの指先を見つめると、人を刺し殺せそうに鋭く尖った爪が光沢を放っていた。先ほどのモエの言葉が耳の奥に蘇った。
――紅い筋を浮かべるくらいで無くては――
「そんなに尖らせて、どうするの?」
思わず聞いてしまった私に、モエはクスクスと声を出して笑った。セツはゆっくりと目を細くさせる。
「嫌だわ姉さま、怯えた顔をなさってる。どうもしないわ。綺麗になった爪を眺めて満足するだけよ?」
「ボクは、モエの爪が綺麗になっていくのを見るのが好きなだけだよ。そして、姉さまの爪もね」
いつの間にか近づいていたセツに手を取られ、私は部屋の中へと招き入れられた。
「前から一度、姉さまの爪も磨きたいと思っていたんだよ。けれど、おじさまがダメだとおっしゃるから」
「姉さまの美しい肌に、私も触れてみたいわって、何度もおじさまにお願いしていたのよ。けれど、おじさまは決して首を縦には振ってくれなかった」
私の左手を取るセツ。ヤスリが、私の爪にあてがわれる。モエは私の右手を取り、そっと撫ぜた。
セツの口元には微笑。
モエは、クスクスと声を出して笑う。
「おじさまがね」
「まだ時期ではないとおっしゃるの」
「だけどボクらはもう」
「我慢が出来ないのよ、姉さま」
両の耳から囁かれる言葉。それはまるで呪文のように私を縛った。距離を縮めたいと願っていたのは、私だけでは無かった――?
嬉しさに顔を上げると、モエとセツの微笑が視界の中に入った。けれどその微笑に、私は何か冷たいものが背中をせり上がってくるのを感じた。
私の中の本能が、危険信号を点す。と同時に、耳は錠をかけられる扉の音を聞いた。
その音に扉の方を振り返る。
――そこにいたのは、おじさま。
両手両足を縛られて、目を布で覆い隠されたおじさまが、いた。
「な……に……?」
息を呑んだ私の頬を、モエの手が優しく撫ぜた。「大丈夫よ姉さま」
「怖いことは無いよ姉さま」
「私もセツもしてきたことですもの」
「これが終われば、姉さまだって熟れた果実を実らせることが出来るんだよ」
両の耳から囁かれる言葉。それはまるで、悪魔の呪文のように私を縛った。
目を逸らすことが出来ない。動くことが出来ない。声を発することが出来ない。
どうしてあの時、この部屋の前を通り過ぎてしまわなかったのだろうか。
後悔しても、もう遅い。
セツは微笑う。優雅に。けれど冷たく。
モエが笑う。声を上げて。魅惑的に。
その微笑から感じ取れるのは恐怖以外の何物でもなかった。
――さあ、狂った宴の幕を開けよう。