ガチャガチャと隣の部屋のドアが開く音を聞き、私はすかさず鍋を抱えて突撃する。 ドアをコンコンと軽くノックして返事も待たずにズカズカ上がり込むと、家主はいつものジャージの上着を脱いで手を洗っている所だった。
「おかえりなさい。今日はちょっと遅かったですね、先生」 「職員会議が長引いた」
鍋を勝手にガス台の上へ置いて温め始める。 完全には冷めていないから、これは少し火にかけるだけで良さそうだ。
ガス台下の収納から別の鍋を取り出して水を入れ、冷蔵庫から出した豆腐を切って投入する。
「良い匂いがする。今日はもしや…」
お米を研いで炊飯器の早炊きスイッチを押した所で、キッチンに立つ私の横へジャージからスウェットに着替えた先生が歩いて来た。
「ふっふっふ、今日はなんと鮭大根です!」 「…そうか」
言葉に出さないし表情もほとんど変わらないけれど、何となく空気で分かる。 今、先生は間違いなく周りにお花が飛んでいそうなくらい喜んでいる。
「何かすることはあるか?」 「大丈夫です。ごはん炊けたら終わりですから、座ってテレビでも見ていてください」 「すまない」
我が物顔で冨岡先生宅のキッチンを使っているけれど、私たちはアパートの部屋が隣同士なだけで残念ながら恋愛関係ではない。
実家から通うには不便な位置に学校がある為、私は高校に入ってから一人暮らしをしている。 一人暮らしを始めて暫く経ったある日、近くのスーパーからの帰り道で大量のぶどうパンが入った大きな袋を両手にぶら下げた先生をたまたま目撃して声を掛けたのがきっかけで隣人であることが判明した。 大層なものは作れないけれど毎日ぶどうパンよりはマシだろうし、ごはんは一人で食べるより誰かと食べる方が美味しく感じる筈だと思い、何やかんやでほぼ毎日夕飯をご一緒して3年目。
先生は厳しいところもあるけれど優しいし、格好良いし、時々可愛いし、私は密かに恋い焦がれていた。 だから胃袋を掴んでどうにか出来ないかなんて邪な気持ちが全く無い訳ではないけれど、それはまだ秘密にしておく。
「お待たせしました」
テーブルに鮭大根が出された瞬間、先生の目が輝いた。 それから ごはん、味噌汁、ついでに冷蔵庫を漁って急遽拵えたホウレン草のお浸しを並べてソファーに腰掛けている先生の隣に腰掛けた。
「「いただきます」」
自然と揃う「いただきます」の声に嬉しくなる。
「…旨い」 「それは良かったです」
鮭大根を噛み締め頷く姿を見て、作って良かったと心から思った。 メニューは私の気分で決めているけれど職員会議がある日は先生がいつもより疲れた顔をしているので、少しでも元気を出してもらおうと鮭大根を出すことが多い。
「…そういえば、お前は進路をどうするつもりなんだ?」 「え、ごはん中に進路の話します?」 「決まってないのクラスでお前だけだぞ」 「うっ…」
真面目に考えなければと思ってはいるのだけれど、やりたいことも思い付かなくて焦ってばかり。 取り敢えず行っとこう、なんて半端な気持ちで大学に行くのも違う気がして。
「小さい頃の夢とかはないのか?」 「夢…は、昔はありましたけど…」 「けど?」 「全く現実的じゃなくて無理ですもん」
頭に浮かんだ2つの夢。 うん、絶対無理。
ヘラリと苦笑いして流すしかない。
「何だ?言ってみろ、無理かどうか分からないだろ」
誤魔化すつもりでいたのに、そんな真剣な顔で見詰められては私には答えるという選択肢しかなくなってしまう。
「……お嫁さん…と…お母さん…」
小さい声でポツリと零す。 先生は何でもない風を装っているけれど、一瞬 目を見開いたのを私は見逃さなかった。
「ぁぁぁああほら!もう!恥ずかしい!こんな夢 現実的じゃないでしょう!?」
おそらく真っ赤になっているであろう顔を思わず両手で覆った。
「…こっち見ないでください忘れてくだ…っ!?」
ガシッと手を掴まれて強い力で先生の方に身体の向きを直される。
「…先生?」 「簡単だ」
私の頭の上にはハテナマークがいっぱい。
何が簡単だと言うのこの人は。 めちゃくちゃ難しいでしょうが。 あれ? もしかしてソロウェディングでもやってろってこと?
「先生、言っときますが私の夢はソロウェディングでは実現出来ないんですよ。相手がいないと不可能なことなんです」 「そんなことは分かっている。卒業したら嫁に来い」
はい?
「あ…の…先生、ちょっと、いま幻聴が聞こえました…」 「幻聴ではない」
掴まれたままの手にギュッと力が込められた。 確かに先生の顔は真剣そのもの。
「毎日お前の飯が食いたい。嫌でなければ嫁に来い」
知らぬ間に私は先生の胃袋をガッチリ掴んでいたらしい。 色々すっ飛ばした このプロポーズでただのお隣さんからいきなり婚約者になってしまった。
嫌なわけ、あるもんか!
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