レンタル及川-05


「及川さん、ね……。」
「え?」
「ごめん、名前ちゃん。俺あんなことして。ほんと、プロ失格だ……。」

手を離した及川さんは握っていた手をぎゅっと握りしめて下を向いた。彼が何をそんなに思い詰めているのかは分からなかったが、私には何だか後悔しているように見えた。もしそれが私にさっきしたキスだとしたら、まるで私にするのが嫌だったみたいに思えて自然と悲しみと苛立ちが込み上げてくる。どうしてかは分からないけど。

「……はぁ。別に誤魔化すためだったら仕方ないでしょう?」
「怒って……ないの?」
「あの場ではああいう印象的な出来事が起きた方が人はその前のことなんて忘れると思うし……。」
「嫌じゃなかった?」
「え……。」

目線の合わなかった彼といきなり目が合い、どきりとした、そう思えば彼の瞳は戸惑いで濡れている。全く自分の笑顔を壊したことなかった彼が見せたその表情に体のどこかが痛みを訴えてくる。どうして、本当にどうしてそんな顔をするの、全然本心を見せようとしない貴方が、今ここで、どうして。そんな思いの丈を彼に叫ぶより前に私は思わず、嫌じゃない、と先程の彼の答えを口に出していた。

「嫌じゃなかった、及川さんにその、キスされて。」
「本当?嘘じゃない?」
「嘘って、嘘で言うようなことじゃ、」
「良かった…………俺嫌われたら生きていけない。」

言葉に詰まる。それは及川さんが私を抱き締め、耳元でそんな言葉を言っていたからで、決して心臓が激しく動いているからじゃない。

「……俺ね、本当は知ってたよ。名前ちゃんが俺なんて必要ないってこと。」
「必要ない?」
「レンタル彼氏なんて最初から借りるつもりじゃなくてただの好奇心だってこと。」

ガン、と頭を殴られたような衝撃が襲う。私の態度が彼を邪険に扱ってでもいたのだろうか。彼は聡いような人であるかも、と思っていたけど行動から分かってしまったのだろうか。そうなら私は一体なんてことを仕出かしていたのだろう。及川さんは腕の中で私の童謡を受け取ったのか、抱き締める力を強くして笑った。

「俺達みたいな自分を偽る仕事してると自然と分かるんだよ、この人が嘘をついてるかどうか。それに、名前ちゃんの電話取った俺の相棒はそういうの滅法強くて。実際に名前ちゃんと会って契約を結ぶかどうか、直前まで問いただされた。いいのかって。」
「じゃあ、なんで……」
「それでも思っちゃったんだよね。話の内容には嘘があってもこの子は嘘つきじゃないんだろうなって。それで会うだけあって見極めようと思ってあんな強引に会ってみた。そうしたらさ、予想以上に素直で可愛くて……、もうこの子は手放せないかなとまで思った。名前ちゃんみたいなの、初めてなんだ。この短期間で人を好きになったのは……。」

及川さんは腕を解くと少し距離をとってまだ悲しそうに笑っていた。自嘲気味なその顔が私には悪い顔には見えなくて、泣いているように見えた。確か会った初めての日に彼は自分の意味や価値観が分からなくなって、それからこの仕事を始めたのだと話していた。分からなくなる前の彼の人生がどうだったのか、私は全く知らない。この過ごした短い時間でこの人がどう生きていたか見極めることも出来ない。私に分かるのは、この及川徹と言う人が案外真面目な、良い人であると言うくらいだ。笑顔が若干胡散臭い時もあったり、口が悪いことが多々あるけれど、根本的な所は優しい人であると言うくらいしか私は知らない。
だからそんな彼に悪いねと自分を責めて欲しくないと思う。彼の行動というか思いは正直驚くしかないし、唐突過ぎてまだ追いつかないけれど私の気持ちを真っ直ぐ伝えるならばもうどんな方法であれ許されると思う。

「あの、私、恋とか本当にしたことなくて分からないですけど……、多分愛おしいなって思いますよ。及川さんじゃなくて、徹さんのこと。」
「……え、名前ちゃん、それは、」
「女々しい徹さんはうざったらしくて嫌いですけど、あんな風に人前で堂々キス出来るかっこいい徹さんは好きです。」

笑ってそう言えば、彼は雨雲が晴れて太陽が戻ってくるが如く変わりようで表情を明るくした。本当かどうか散々聞いてきてやっぱり嫌いですかね、と冗談で言えばそれを真に受けてがっかりとした様子だ。それを見るのも楽しいが彼には彼の顔というものがあるので好きですと恥ずかしい言葉で気分を上げておいた。単純過ぎる所もまた良いとしよう。

「あのーそれで、俺と名前ちゃんは恋人ですよね?」
「付き合いたての中学生みたいですね、その質問。」
「えっ絶対俺より恋愛してない名前ちゃんに嫌な指摘されてるんだけど俺。」
「それに今及川さん彼女いないんですか?」
「二股疑惑!?疑うの早くない?」

ガビーンという効果音がつきそうなくらい大きいリアクションに思わず呆れそうになったが仕方がないのだ。付き合いというのがどういうものか、本当に分からないから以前より冷たいような態度を取ってしまっているかもしれない。彼に上手く乗せられてしまうのも癪だし、きっとこうして誤魔化していられるのも時間の問題だ。彼のことだからいずれはこんな会話ですら私の許容範囲を超えていることに気付くだろう。

「まぁでもね、俺はこういう仕事をしてるから悲しませたりするのも多いかもしれない。だけど、俺が俺で居られるのは名前ちゃんの前だけだと思う。こんなに自分を出せてるのは久し振りだ……。」
「それは、良かったです。私も恋人が出来るのは久し振りですから。」
「…………。名前ちゃんって今まで恋人何人居たことあるの?」
「え?高校時代に1人だけですけど。」

そう言うと及川さんの表情が一気に変わった。どちらかと言うと私にとっては嫌な方向に。

「へぇーーー、じゃあ色々初めてなんだね。もしかしてキスしたことない?」
「そ、それくらいなら有りますけど……。」
「ふーん、別にね良いよ。俺はその先まできっちり貰うから。いいよね、名前。」

ニヤリと口角を上げたあと、彼は頬に手を添えて若干強引にキスをした。呼吸が奪われていく感じにクラクラする。初めてではないけれど、唇が重なる感覚が経験したことがない初めてのもので、これが恋なのかと思った。彼はさっぱり自分の中に人を入れてくれる人じゃなさそうだし、秘密も抱えそうだから大変だろうけれど。それに大切な何かを全部彼に持っていかれそうな気がする。それでも、レンタルじゃない、本物の彼に翻弄される日々が続く、甘い感情が胸の中を一杯にしていた。世に言う幸福はレンタル出来ないのだと、喜びが叫んでいた。


レンタル及川→恋人及川


20161220


prev|back|next