月読の 光りに来ませ あしひきの
山きへなりて 遠からなくに

湯原王の読んだこの歌は宴会の最中戯れで読んだものと思われている。女性の立場に立ち、男を待つ心が描かれていて、その繊細さは戯れとは思えないほどの深さがあるように思う。月明かりに照らされた夜道を歩いて来る男を待つ女の楽しみ、寂しさ、嬉しさ、悲しみ、そのどれもが思い浮かぶようで私は好きだった。

この世界に来てからというもの、街の明かりというものがどれほど人工的であるかを知った。かぶき町などの江戸の中心部は宵闇でも明るいが一歩外側へと行ってしまえばどこも真っ暗で足元すらきちんと見えない。私がこの世界に来た時、夜で江戸から外れたところでなくて良かったと思う。もしそんなところに放り出されていては私は何の希望もなく死んでいただろうから。

万事屋のあの人が来て、焦った私が花を吐いたことは土方さんに伝わらないわけがなかった。翌朝早くに土方さんが様子を見にやって来た。来たのかと問われ、はいと素直に答えれば微妙そうな何とも言えない顔をしていた。攘夷志士が大人しくとも忙しい彼はただひとつ、好きなようにやれ、と言い仕事に出かけて行った。総悟くんは土方さんが慌てていたのを見ていたかはたまた何か感じ取ったのか1週間訪れていた時間になっても来なかった。
そうしてちょうど昨日あの人が来た同じくらいの時間になる。この時間はどうも客足が少なく私と親父さんは暇で楽しく喋っていた。この団子屋は店前に椅子と傘を出していて店の中に入らなくても食べれるようになっている。しかしいつも外から見えるところに私達がいるとは限らない。そのため、お客さんが店の中に足を踏み入れると微かに地面と靴が擦れる音がするのだ。私達はそれを聞いてお客さんが来たか判断している。二丁目の牧野さん家の犬が今度出産するなんて他愛もない話をしていたら、しゃりと軽い微かな音がした。親父さんと視線を合わせ私は店前にいらっしゃいませ、と言いながら出る。
するとそこには昨日と同じようにあの人がいた。

「お、何だ。今日もいるんじゃねーか。」
「あ…………。」

真っ白になった頭で恐れるように後ろに下がる。逃げの本能が働くばかりで体は言うことを聞くはずがない。すり足で下がった体が不意にぐら、と揺れて視界は流れるように上を向く。倒れる。瞬間的に浮かんだその考えにぎゅっと目を瞑った。
だがそれはただの杞憂に過ぎず、衝撃に声を上げることもなくむしろその痛みが全くなかった。代わりにあった、むせ返りそうでも優しく甘い香りと背中に回された体温に目を開ける。

「なっ……。」
「あっぶねー。なに、俺に見惚れてコケちゃった?」

軽口叩いて曖昧に笑う彼の顔は距離にして数十センチ。跳ね上がった心臓が言うことを聞かずただ血を巡らせ体温を上げる。ああどうしてそんな風に笑うの、どうして、なんでそんなにあなたが悲しそうに。

「おーい、なんか反応してくれないとさすがの銀さんも困るんだけど。」
「……もう平気ですから腕、離してくださいますか。ひとりで立てますから。」
「えっ、お、うん。」

少しきつめに言ってしまったためか不思議そうにでも確かに優しく支えを解いてくれる。この人のこういう自然な優しさを初めて感じた。“見る”だけだったのにこの身で感じ取るとその温かさがよく分かる。なんだかんだと邪険にされることが多い彼だがきっと皆がこれを知っている。彼の深層を少し知れた、そう思う。この世界の一員に含まれているように感じた。

「こちらに座ってください。ご注文は?」
「素っ気ねーなぁ。親父!看板娘が俺に冷たいんですけどォ。」
「すまねぇなぁ万事屋。俺の娘は生憎知らねぇ奴に心開くような軽い女じゃねぇんだよ。」

親父さんがひょっこり顔を出し笑って言う。娘、その単語に反応したのは私だけではなかった。はあ?と声を出し凄く驚いたように立ち上がる。

「親父、娘いないとか言ってなかったっけ!?なに、隠し子でもいたの?若気の至りの責任今頃とってんの?」
「な訳あるか!俺は奥さん一筋だ!花梨はいろいろあって俺の娘にしたんだ。子供には恵まれなかったが今こうして良い娘貰ったからな。深い訳ありだが気が効くし愛想も良い。最高の娘だよ。」
「親父さん、あのそんな風に言わないでください……。」
「えぇ本当なの?俺にはつめてーねぇちゃんだけどなぁ。」

椅子に座り机に頬杖をつくと疑うようにジロリと見られる。ばっちり合ってしまった視線にたじろぎそうになるが、疑いの目の奥に冷たい軽蔑にも似た何かがあって身体が凍る。こちらの中を適当に見るようで首元にナイフを突きつけようと隙を探るような。……それも一瞬のことで、すぐに彼は笑ってチョコレートパフェねと言う。
勘違いかと思えてしまうほどに刹那的なことだったから誤魔化しがいくらでも効くのだろうけど彼は本気で自然の中に何かを混ぜてきた。白夜叉と怖れられた彼の本性が現れたあれにはもう二度と見せられたくないと思う。それこそ、心臓に悪い。
団子屋でパフェを頼むのも如何なものか、しかしまあこの団子屋にはそれがあるのだ。時代に合わせて変化してきた親父さんの柔軟さには驚かされるが、団子屋まで来てパフェを頼む彼の頭にも驚かざるを得ない。彼の好みは重々承知していたがパフェを運ぶとあっという間になくなってしまった光景にほんの少しだけ引いてしまった。

「……お好きなんですね、パフェ。」
「まぁな。糖分とらねーとイライラしちまうし。」
「糖尿病になりますよ。」
「まだ予備軍だからいーんだよ。」

悪戯を怒られたような子供口調の彼にほとほと呆れてもそのイメージ通りというか、本編通りさには微笑ましいものがある。本の中にいた人が目の前にいる。本当のところは私がこの世界に迷い込んでしまっただけなのだが。2個目のパフェを注文し、既に親父さんによって用意されていたものを運ぶと目を輝かせてパフェスプーンですくって口に入れる。親父さんはやはり気が効く。怖いくらいに。そのまま2個目も秒速で無くなってしまい、彼は満足そうに笑った。

「おい、看板娘。」
「何でしょう。お勘定ですか?」
「いや、名前。何ていうのかなーって。」
「……人に尋ねる時には自分から言うものです。」
「お前……本当に愛想ねぇなぁ。ほら、名刺やっから。」

渡された名刺には漫画の初回で新八くんに渡していたものと同じく万事屋の文字が入っていた。飾りも何もないそれは初めて出来たこの人との確実な繋がりで、不思議と名刺に触れる指先の力が入る。ここで私は彼にとって他人ではなくなった。依頼してくるかもしれない人であり、今から私の名前を教えることで団子屋の看板娘を超えて知り合いになろうとしている。恐らく道ですれ違えば挨拶くらいはするだろう。嬉しいはずなのに、どこからか湧き出る不安で胸は一杯だ。

「で、お前の名前は?」
「……御崎花梨です。」
「んじゃあ、花梨ね。俺のことは何とでも呼べばいい。」
「なら……坂田さんで。」

ニヤリと笑っていた彼の表情が坂田さんと言った瞬間にがっくり崩れた。あれ、何か間違えたかな。
大きく溜息をついて親父さんにどういう教育をしてるのかと問う彼の顔は呆れているようにも見えた。呼び方を敢えて全く呼ばれない呼び方にしたのは、私なりの特別だった。道を歩くモブと同じように扱われたくない。1度の依頼でフェードアウトするような登場人物になりたくない。彼とは友好的な関係を築きたいのだ。
……私は何を思っているのだろう。そもそも私はこの世界に登場すらしない人物であるのに。土方さんにも心配をかけてばかりで、他人のために彼が何か背負う必要性はないというのに。いっそのこと、初めに彼に会いたいなんて言わなければよかった。そうすれば花を吐いても相手ば誰だと責められるだけで、知り合いだと土方さんが背負い込む必要性もなかったのに。迷惑をかけている、それなら早く消えてしまいたい、そう思って日々を生きていると知ったら誰が何と言うのだろうか。

忙しく繰り広げられていた親父さんと彼の口論に終止符が打たれたのは、もう陽も暮れた頃だった。彼が来たのは昼も随分過ぎた頃だったがそれでも長居している。こんなことしていたら神楽ちゃんや新八くんに怒られるだろうが、それも普段通りという感じだろう。朝帰りも少なくないと語られていた。この団子屋は日没とほぼ同時刻に店を閉めるからもう店仕舞いだと親父さんに怒鳴られるようにして彼は帰って行った。じゃあな、と低く呟かれた声がリアルに耳に届いて、ああこの人は生きている、改めてそう思った。
生きている彼の背中は逞しい。生に背けて歩こうとしている私とは真逆で、夕陽の残り火に照らされて眩しく、思わず目を逸らした。


月見草は夜を焦がれる

打ち明けられない恋
evening primrose



20161109