午前二時をまわった時点で少し覚悟はしていた。しかしなんともまあ私は意地の悪い人間で、諦めることは負けることと同じだと思っている。そのためにおこなって来た阿呆の数々はとうの昔に三十を超えただろう。いつ、百に達してもおかしくないくらいだ。
また、溜息をつかれるだろうなあ。
近侍の菖蒲色が瞼の裏に見えて、私は溜息をついた。かと思えば誰かの気配がしてきょろきょろさせると、そこには寝間着の彼がいた。

「大将、もう寝な。肌のゴールデンタイムも過ぎてんだ。いい加減にしないと明日寝不足で倒れるぞ。」
「どうしてゴールデンタイムとか知ってるの。誰だそんなこと教えたの。もしや光忠か!」

あんの伊達男。忌々しく、優秀で優しくておかんな彼に文句を零すとぷはっと笑う声。結果として発言したのは彼だがその出所はあっていたのだろう。流石だ大将なんて褒めてもらっても嬉しくなかった。

「それより薬研は何でここに来たのかな?もう皆寝てるでしょう。」
「五虎退や乱と寝る挨拶した時におやすみなさいと言われて曖昧に返していただろ。夕餉の時に長谷部と報告書の提出について話していたしな。どうせ徹夜するだろうと俺っちにはよく分かったぜ。」

全くその通りである。短刀の子達におやすみと言われて寝れない私は正直に返してあげることが出来なかった。罪悪感があるわけでもなかったがあの子達の純粋な目に嘘をつきづらいのは毎度のこと。
長谷部とは訂正があったが間に合うかという話をしていた。とても主命にこだわる彼に自分が訂正すると言われたが命令嫌いの私は自分ですると言った。
八月もあと数日で終わるこの頃は一ヶ月の報告やら何やらで忙しい。毎日課せられる職務がある上、重ねてやらないといけない書類提出は負担が大きかった。本当のことを言えば長谷部に手伝ってもらった方が良かっただろうし、他の手も借りたら今頃寝れていた。私の書類捌きのスピードの遅さは石切丸の機動レベルでそれを心配してくれた者もいたが大抵手伝いはお断りしている。
戦場でその身を賭して戦ってくれている彼等に比べたら離れに籠ってパソコンと紙と数時間向き合うことなんて楽なものだ。これは審神者の私に割り当てられた仕事だから自分の手で終わらせたかった。私の精一杯の彼等に対する恩返しで我儘だと本丸の誰もが気付いていて敢えて知らぬフリをしている。

それを私はよく分かっているから、今こうして薬研から問い詰められていることに驚いていた。鶴丸風に言えば、こいつは驚いた、だ。初めて鍛刀し顕現させた刀剣の薬研藤四郎は短刀とは思えぬ性格で一番知らないフリをしていたはずなのに。

「珍しいね。薬研は絶対私を責めないって思ってた。」
「まあ……俺っちもわざわざ、大将の我儘を無下にするようなことを言うつもりなかったんだがな。」

少し事情が変わっちまったと語る彼の瞳は本丸の中で唯一明るいこの執務室の明かりで透き通っているように見えた。そんなぼうっとしたことを考えていると、執務室の扉の柱に体重を預けていた薬研がズカズカこちらに近寄って腕を取られた。あっという間に強制的に立たされ歩かされ、庭の見える廊下まで連れてこられる。私と変わらない身長の彼は刀であり男士だ。力の違いを改めて思い知らされた。
今は夏の終わりだというのに、庭の桜は咲き誇っている。霊力で咲き続ける桜は不気味だがこれが枯れていないのは本丸の中に満ちる霊力が澄んでいること、桜を咲かせる霊力があることつまりは私がいることの象徴だ。
薬研が座った横に同じようにしゃがみ込むとお尻をつける。執務室の座布団より固い廊下はひんやりとしていて、冷房のない外なのに涼しい。

「もうここに連れ出して説教ですか。早くしないと終わらなくて政府から減給されるかもしれないけど。」
「分かってるさ。少しくらい休憩してもらおうと思ってな。大将は丁寧にし過ぎて処理能力が低いから。」
「一言余計!そんな風にって、え?」

視界が傾けば真横に倒れた私の頭は薬研の膝の上だった。これは、膝枕というやつではないか……。

「なっ、何してるの薬研!あの、こういうのは、女の人が、男の人にするもので」
「細かいことは気にすんな。男の膝で硬いだろうが床よりマシだろう?我慢してくれや。」
「…………優しい、薬研。」

ここの本丸の皆そうだ。デレデレに私を甘やかしてくれる。確かに何百年も生きてきた刀剣からすれば二十年ギリギリ生きてる私は赤子同然だろう。でも私も彼等も今同じ時を生きている。
神と人で立場は違えど同じ釜の飯を食らい、同じように動いて、同じように笑って、同じように眠る。物で神である前に今、彼等は人だ。同じだからこそ平等にして欲しかった。これも私の我儘だ。主だ大将だ言われることが嫌なわけではなく価値観が同じであることを認識したいだけだ。
薬研は特に私に甘くない人で、居心地の良い存在だ。それが恋に変わるのも決して遅くはなくてひた隠しにする前に本人に気付かれてしまった。進展無し呼び名無し思い合いも無しのこの主従で繋がれた関係は、壊したいようで壊されたくなかった。
審神者になってから私は我儘が増えたはずだ。こんなにも幸せなのにそれ以上を望んでしまうのだから。

「……大将、ひとつ聞いてもいいか。」
「なに?」
「その、俺っちを慕ってくれていることは今も変わらないか。」

胸の奥が痛みを訴えかけてくるのを無視して目を閉じた。

「……うん。変わらない。薬研のこと、好きだよ。」
「そうか……。」

思いがバレて言われたことは『嬉しい』の一言だけだった。そもそも神と人は相容れない存在だし、縛られ縛る存在だ。結ばれないだろうなあと理性的に理解していた。気持ちは収まる所を知らないので時々おかんこと光忠に話を聞いてもらっている。
膝の上に寝転ぶ私の髪を薬研はするする撫でる。それが気持ち良くて書類でハイになっていた頭は徐々に睡魔に侵されつつあった。これ以上は駄目だ。起き上がろうとした瞬間、こつんと額を側頭部につけられる。身体柔らか。

「えー…っと、薬研?」
「なあ大将。もし今、俺も大将が好きだって言ったらどうする?」

質問が頭をすり抜けて戻ってそこで初めて理解した。え、どういうこと。真意が知りたくて顔を見るために身体を動かす。すると屈み込んでいた薬研との顔の距離が互いの鼻先が掠めるほど近くて体温が上がるのが分かる。夏の夜はまだまだ暑い。首筋を汗が伝う感覚がやけに気になる。
私は、う、や、ええ、わ、と単語にならない声を漏らす。その間も見つめた紫の瞳をそらせず、出来ることは慌てることだけだった。
そんな人の気を知ってか知らずか、薬研は私の頬に手を当てる。視界いっぱいに染まる彼の色にどうにかなってしまいそうだった。

「これからすること、嫌だったら言霊で縛ってくれて構わない。でも嫌じゃないなら、」

受け入れてくれ。
その一言と同時に唇には温かいものがあった。口づけ、接吻、キス、された。あの薬研に。荒々しくて熱いキスは数秒か数分か、息が途切れてしまうまで続いた。
嫌なら拒むようにと言霊まで引き合いに出して言われたが、そんなもの必要なかった。断れるわけがない。嫌じゃない。むしろ望んでいたことだ。
唇が離れたことに寂しいと感じてしまうくらい、薬研の熱に溶かされている。薬研は満足したように笑った。その顔が頭に酷く焼き付いて警告音を鳴らした。これはきっともうこれ以上好きになるなという、合図。溺れてしまいそうなくらい想いは大きい。

「はっ、俺も大概だな。大将が断らない自信があってそれで好き勝手出来る。」
「私だって、思いがバレても薬研が気を使うことが分かってて普通に過ごせてる。」
「……俺達、似た者同士だ。」
「……そうだね。」

先に笑ったのはどっちだったか。膝から起こされた私は薬研と一緒にくすくす笑っていた。誰も起きていない本丸では、神隠しにあったように思えた。
囲われて閉じ込められるのは趣味じゃないけど、薬研が一緒にいてくれればどうだっていい気すらする。駄目だなあ、好き過ぎておかしい。
指先を絡めて繋いだ手の温度は同じで高かった。

次の日、結局薬研に手伝ってもらって二人で時間まで終わらせると事切れるように眠った。起きたのは昼過ぎの事で、隣に寝ている薬研を見て叫びそうになった。思わず身体中を触って何もない何もない……と確認してしまった。
タイミング悪くそれをしている時に起きた薬研に布団にまた伏せるようなキスをされた。怒ったように駄目と言えば、短刀らしからぬ色気を含んだ笑みを返される。この粟田口、私をどうしたいつもりだろう……!
昼餉だと知らせに来たおかんに、いろいろ勘違いされてしまうまであと数分。

この緩やかで穏やかな日々にもいつか桜と一緒に散ってしまう時が来て、別れが来てしまうことは確かだ。その時私は彼を置いていく。有限だなんて考えず、今この時を幸せに過ごせる彼との時間に身を任せるだけだ。懐刀の彼とはきっと最期までいれるだろう。その最期、どうか、笑顔で二人でいられますように。じわり滲む手のひらの熱と暑さに目を閉じた。


光は安らかに眠る