※50000記念
現在午前11時。いつもならそろそろ起きるというような時間だが、今朝は暑くて8時には目が覚めた。 起きたときに最初に目に入ったのは、直射日光に当たって汗だくのなまえだった。それを見て、カーテンの必要性を初めて感じて、買いに出ることにして今に至る。だいたいこんな感じだ。カーテンを無事に買った帰り道なわけだが、この時間に外に出たのは間違いだったかもしれない。
右腕にはカーテンを抱いて、左手はなまえに握られて、煙草を吸うこともままならない。 日はなおじりじりと照りつけていて、黙って座っていても汗がにじみ出てきそうな気温だ。朝から汗だくだったなまえは、着替えたのにも関わらず、すでに背中のあたりがびっしょりと濡れていた。
「あついね…」
「手、放したら?」
この会話を5分に1回は繰り返していたが、なまえが俺の手を離す気配は一向になかった。むしろ、そのたびに手を握る力を強めてみたり、両手で俺の腕を掴んでみたり、放さないとでも言いたげな様子だ。
「アカギさん歩くのはやいんだもん」
たしかに、手でもつないでいないと、いつの間にかなまえがずいぶん後ろを泣きそうな顔で歩いている、なんてことがよくある。別になまえのことを忘れているとか置いていこうとかいうことではなく、歩く速さが違うというだけのことだ。
「角の駄菓子屋でラムネでも飲む?」
「のむ」
「じゃあそっち、曲がるよ」
「まっすぐじゃない?」
「近道」
そういやなまえと歩くときに、ここを曲がったことはなかったかもしれない。ちょっとした裏路地のようなもので、人気はあまりない。だから、一勝負して明け方に帰るときなんかはよく通る道だ。 方向を変えて進もうとすると、なまえが足を止めた。
「どうしたの」
「そっちあぶないよ」
「何が」
「ブツギリ出るって」
「ぶつ切り?」
ブツギリ、となまえが繰り返した。何か冗談を言っているのかと思ったけど、表情を見る限りは本気らしい。
「何、ぶつ切りって」
「わかんない…けどあぶないって」
「誰が?」
「となりのお姉ちゃん」
あのマセガキはまたなまえに何を吹き込んだんだ。変なことを教わるたびに対処する俺の身にもなってほしい。 かき氷を食べると腹がそのシロップの色に染まるとか、その程度ならまだいい。 実際に食べて、色が変わらないことを見せればいいのだから。 しかし、鼻をかみすぎると脳みそまで溶けてバカになるとか、目に見えてわかるようなことじゃないのは厄介だ。そんなもの信じるほうがバカなんだ、と言いたくなるような話でもなまえは簡単に信じる。 今回のぶつ切りだかは、道を通って存在しないということを見せればおさまるだろうか。
「で、ぶつ切りがなんだって」
「あぶないからね、5人以下なら目あわしちゃダメだって」
「…辻切り?」
「そうかも…」
そういうことか。ぶつ切りには心当たりはないが、そういうことなら話は見えた。 なまえはその「辻切り」の特徴までは聞かなかったのだろうか。きっとその「辻切り」ってやつはガタイがよくて目付きが悪くて、そして髪が白いはずだ。 子供の間で噂になるなんて、ずいぶん有名になったもんじゃないか辻切りってやつは。
「アカギさん、なんでわらうの」
「辻切りもきっと今頃は、カーテン買った帰りにアイスキャンディでも舐めてるさ」
「ツジキリ、いない?」
「これだけは絶対安全だって保証する」
「ほんとに?」
「あいつの言うことと俺の言うこと、どっちを信じるの」
なまえがきょとんとした顔で俺を見上げる。数回まばたきをして手を握り直すと、路地へと歩きだした。俺の言うことの方を信じたようだ。 どちらともつかない汗の湿っぽさが気持ち悪いが、それでなまえの気が済むならまぁ、いいか。そんな風にふと思った自分がいて少し意外だった。
あとから聞いた話だが、その日は、この夏で一番暑い日だったらしい。そんなに暑かったなら、暑さで思考が少しおかしくなったのも無理はないだろう。 半袖が少し肌寒くなってきた頃、なまえと手を繋ぎながら「辻切りの道」を通ったときに思い出した、そんな夏の出来事だった。
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