※下積み時代 ※60000記念
最寄り駅の改札を出て時計を見ると、21時を少し過ぎたところだった。降りたときの正確な時刻は知らないが、だいたい時刻表通りだろう。公共交通機関の時間に対する姿勢だけは、日本で唯一評価できるところだ。
階段を降り、外へ出ると、夜だというのにむわりとした空気がまとわりつく。今夜も寝苦しそうだ。連日の早番続きで身体の方は悲鳴を上げる一歩手前、と言ったところだが、そんなことにいちいち耳を傾けている暇はない。 世の中のバカどもに復讐を誓ったあの日から、俺はまだ何も果たしちゃいない。休憩だなんてのは、これから先のぞっとするぐらい長い人生で、いくらでもできるのだ。ただの雑用ごときで疲れたなんて抜かしてられるか。
それでも歩けば暑いし、汗もかく。駅から歩いて数十分。目の前にあるコンビニが、砂漠の真ん中にあるオアシスに見えた。少し迷ってから中に入ると、店内はひんやりとした空気に満ちていた。
ハンカチで首筋をぬぐいながらうろうろしていると、アイスの詰まったケースが目に付いた。何か、買って帰るか。なまえはもう寝ているだろうが、明日のおやつにでもすればいい。 時期が時期だけに、目移りするほどたくさんのアイスが揃っていた。バニラ系は気分じゃない。なんだかこってりしていて、余計に暑苦しい気がする。だからと言って氷系は安っぽくて嫌いだ。 結局、なまえの好きそうなアイスをふたつ買って店を出た。
なまえを起こさないようにそっと鍵を開けて、家に上がる。どうせ誰も聞いてないと思い、ただいまも言わずに居間のドアをあけると、背後からおかえりという声が聞こえて驚いた。 振り返ると、そこにいたのはなまえだ。たしかに、トイレの水が流れる音がしたかもしれない。あれは隣の部屋の音じゃなかったのか。これだから、壁の薄いボロアパートは嫌だ。
「なまえ、まだ起きてたのか」
「夏やすみだから…」
「ほらよ、好きな方食え」
手に持っていたビニール袋を渡すと、なまえは興味深げに中を覗いた。 真剣な表情で吟味している。早く決めないと溶けるぞ。そう言おうと思った瞬間、ようやくひとつのアイスを取り出した。
「なまえね、スイカの方」
「じゃあ残りは冷凍庫しまっとけ」
「あとでたべるの?」
「ああ、明日のなまえのおやつな」
「おにいちゃんは?」
「俺はいい、なんか食う気失せた」
だから好きにしな。そう念を押すと、しぶしぶと言った様子でなまえは冷凍庫を開いた。 食べたくないと言えば嘘になるが、そうとでも言わないとこいつはなんだかんだうるさい。いや、実際に音としてうるさいわけではない、むしろその点に関しては静かすぎるぐらいなのだが。ぎゃあぎゃあわめくのも、なにか言いたげにこっちを見られるのも、同じくらい面倒だ。
部屋着に着替えて居間に戻ると、なまえがさっそくアイスを食べていた。しかし、先ほど選んでいたスイカのアイスではない。いまなまえが手に持っているのは、1袋に2つ容器が入っていて、お得感あふれるチョコレート味のアレだ。一方を自分で食べながら、もう片方を俺に差し出している。
「俺にこれをちゅうちゅう吸えって言うのか」
「おいしいよ」
「そりゃあ知ってるが…」
「いらない?」
「食うよ、食えばいいんだろ」
本気で悲しそうな顔をしながら首をかしげるもんだから、思わず受け取ってしまった。容器の上部をねじり取って、先ッぽを口にくわえる。ほんのりと落ち着いたカフェオレ味がなんだか懐かしい。
「なまえ、それ食ったら寝ろよ」
「はみがきする」
「あと、明日は待ってないで寝てろよ」
「うん……」
「なんだ、不服そうだな」
「おにいちゃんひさしぶりだから…」
俺と会うのが久しぶりだ、という意味らしい。確かに、朝はなまえが起きる前に出ていくし、夜はなまえが寝てから帰ってくることが多い。遅番の週の朝は、俺は寝ているしなまえは学校だ。基本的に、俺たちはすれ違った時間帯で生活している。
「あ、」
「何だ、便所ならひとりで行けよ」
「ちがう」
「じゃあ何だよ」
「あのね、おかあさんにはナイショね」
「……主語を言え主語を」
「シュゴ?」
「なにが、内緒なのか」
「なまえが起きてたの」
「あぁ……」
「おかあさんおしごと行くときね、9時に寝るってやくそくしたから」
わかった、と言う代わりに頭を撫でてやると、なまえは嬉しそうに目を細めた。
「ほら、アイス食い終わったならさっさと寝ろ」
「はみがき」
「さっさとしてこい、寝るまで一緒にいてやるから」
「ほんと?」
「約束は守るぜ、兄ちゃんは」
ぱたぱたと急いで洗面所に向かうなまえを見届けて、一足先に布団へと向かう。枕元には薄汚れたぬいぐるみが転がっていた。 ぬいぐるみの鼻を押しながら、俺は先ほどのなまえの言葉を思い出していた。母親が出かけて、家に夜ひとりでいる、というのはなまえぐらいの年頃の子供にとってはどれだけ寂しいことなのだろうか。また、もう若くない母親が夜働きに出るというのは、どれだけ大変なのだろうか。早く上へ登って、ふたりに楽をさせてやりたい。そのために今を犠牲にするというのは、俺の独りよがりだろうか。
「くまちゃん、いじめないで」
「あ? あぁ……」
いつの間にか部屋の入口のところに立っていたなまえが、鼻を押しつぶされたぬいぐるみを見ながら言った。ぬいぐるみを返してやると、それを抱いてなまえはもぞもぞと布団にもぐりこんだ。俺は、その枕元に座った。
「あのさ、なまえ」
「ん?」
「次の休み……来週の火曜には、1日中一緒にいてやるよ」
「ほんと?」
「さっきも言っただろ」
「おにいちゃんやくそく守る」
「そう、いい子だ」
にへりと微笑みながら、なまえは布団から片手を差し出した。そして、握りこぶしを作ると、小指だけ立てる。
「幼稚園児じゃねえんだから……」
「やらない?」
「いいよ、わかった、ほら貸せよ」
おまけに「ゆーびきーりげーんまん……」とこちらから歌ってやると、くすぐったそうに笑われてしまった。この俺にそんな辱めを受けさせるとは、大したやつである。 少し乱暴に「ゆびきった」までしてやって、なまえの横に寝転んだ。なんてサービスがいいんだ、今日の俺は。 まぁしかし、普段の接待なんかと比べたら楽なもんだ。嘘とおべっかが使えない分、ある意味では難しいかもしれないが。 とりあえず、今は目の前の他愛ない会話を純粋に楽しもう。それぐらいの寄り道は、ゆるされてもいいはずだ。
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