「口の中と言うものは、案外思った以上に神経が密集且つ凝縮に張りつめられていて、おおよそガーゼの肌理以上の密度を持ってるの」
「そうか」
「顎にも神経が繋がっていて、とてもとても面白いことに、歯茎や歯の痛みとかが、顎や隣の歯とか伝わって、とても面白いことになるんだよ?」
「そうか」
「それを人が一生懸命説明しているって言うのに、その人の前で飲んでるのって、どういう神経をしているの?」
「分からんなぁ。『その人』って言うのはどういう人なのか、全く、説明を受けていないからなぁ」
「そのニヤニヤ笑いも、やめて」
(今はそれどころじゃないから)
 と頬を押さえるふぁすとへ、アクタベはニヤニヤとした笑みを向ける。
 普段は仏頂面にグリモア――悪魔を召喚する書物――以外には全く見向きもせず、自身の優秀な道具としてでしか人やモノを見ないと言う癖に、ふぁすとの痛みや嫌がることに対しては、目敏く反応を見せるこの男は――これみよがしに、スープ以外のものを口に含めないふぁすとの前で、色々なものを食べていた。
「もう、太るよ?」
「さぁなぁ。あとで運動をさせてもらうから、問題はないはずなんだけどなぁ?」
「はいはい。口はどーせできないからね、どーせ」
「……チッ」
「どうしてそこで不機嫌そうになるの」
 口内にメスを入れられ、邪魔な歯を除かれた痛みの残る頬を押さえるふぁすとは、不機嫌そうに舌打ちをしたアクタベの前で、別の涙を見せる。
 自身の要望通りに動かないことを聞いたアクタベは、ふぁすとの前でこれみよがしに、シュワシュワと弾けるソーダを一気に煽りながら、眉を顰めた。
 弾ける炭酸水の辛さを伝えるソーダ水が、アクタベの食道を通る。
 それと同時に、アクタベの喉仏が、ゴクリと上下に動いた。
「……あ、そうだ。アクタベさん。今日は、どうする? なにが食べたい?」
「スープ以外のもの」
 空になった缶を投げ捨て、プシュとプルタブを開けるアクタベに目を釘付けにされながら、ふぁすとはレシピを探る。
 缶の中身を煽るアクタベの喉仏がゴクリと上下に動くたびに、ふぁすとの喉が生唾を飲んだ。
「スープ以外のものって。それって、非常に無理な話」
「つまみ食いができないからか」
「まぁ、それもあるけどさぁ」
 自身の食い意地を認めながら、ふぁすとは話を続ける。
「私が余計にお腹が空くじゃない」
「……お前はいっつも、自分のことばっかだな」
「自分よがりなアクタベさんに、言われたくない」
 辛辣に口を開いたふぁすとに、笑みを消したアクタベが一瞥を投げる。
 冷たい視線を向けるアクタベに構わず、ふぁすとは腰に手を当てて話し始めた。
「だって。いっつもグリモアのことしか考えないし、他人のことなんて。どーせ、自分の駒になれるかどうかのことしか考えていない」
「失礼なやつだ。オレは、ソイツが使えるかどうかしか考えてないし、『道具』としてか見てない」
「嘘ばっかり。やっぱりそうじゃん。それをね、『駒』だって言うんだよ?」
「お前の言う『駒』はチェスで言うところのものだろう。オレの言う『道具』は、そんなもんじゃない」
「……使い捨てにして、ボロボロの雑巾になるまで、こき使ってやるってこと?」
 ニヤリと笑うアクタベに、ふぁすとは辟易とした態度を見せる。
「悪いひと」
「その『悪いひと』に惚れたのは、どこのどいつだ?」
「いつもそればっかり。アクタベさん、言葉のレパトリーはそれしかないの?」
「じゃぁ、言ってやろう。こうして、自ら距離を縮めているのは、どこのどいつだ?」
「……嘘ばっかり。やっぱり、言ってることは同じじゃない」
「表面が違うだけだ」
 鼻先を近づけてくるふぁすとに両頬を包まれたまま、アクタベは目を細める。
 その細められた目にオオカミの眼差しを見たふぁすとは、肩を落としたようなしぐさをする。
 目には呆れた色を、肩は落胆を示すような動作を。
 しかし、ふぁすとの体はアクタベと距離を縮めることを止めなかった。
「本能に、生きているくせに」
「それはどいつの台詞だ? すぐに込み上げてくる『衝動』を、抑えているくせに」
「それは言わないお約束。はぁ、アクタベさんがそんなことを言っちゃうから……すぐ……」
「『すぐ』、なんだ? あの『水溜り』でも見たのか?」
「アクタベさん、比喩が上手い。その、赤い水溜りだなんて、見た人じゃないと分からないよ」
「興奮したくせに」
「その声、ぞわぞわとくるなぁ」
 思ったことをすぐに吐きだしたふぁすとの口を閉じるように、アクタベはふぁすとに顔を近づけた。
 目を閉じたふぁすとはアクタベの唇についたソーダ水を舐め取ったあと、ゆっくりと顔を離した。
「甘い」
「そりゃ、甘いものばっかり、飲んでいたからな」
「きたる日のために?」
「そりゃ、そうだろ。じゃなきゃ、誰が飲むか。こんなもん」
「それは酷い」
 アクタベの飲んだソーダ水がどんなに美味いことかと伝えるかのように、ふぁすとは眉を顰める。
 口をへの字に曲げたふぁすとに構わず、アクタベは吐き捨てる。
 首にふぁすとの両腕をかけさせたまま、アクタベはふぁすとの腰を両腕で抱えて、口を開いた。
「さて。口は使えないとしたら、なにを使える? オレはもうそろそろ、我慢の限界だがな」
「もう痛いのはゴリゴリだよ、アクタベさん」
「あぁ、そうだろうなぁ。歯医者で『歯が抜くのは痛いから嫌だ嫌だ』とごねて、喘いだのはどこのどいつだっただろうなぁ」
「アクタベさん。喘いでないよ、私」
 キッと眉尻を上げたふぁすとに、アクタベはケッと吐き捨てる。
 痛みに堪えるふぁすとは気付かなかったものの、アクタベはあの院内の空気を知っていた。
「……それだけのことをしたんだ。ちゃんと、ケリはつけないとなぁ」
「アクタベさん。私、ケリとつけるようなこともつけられるようなこともした覚えがないよ。なにがあったと言われて強く言うとしたら」
「『したら』?」
 アクタベのおうむ返しに、ふぁすとは胸を張って、頬を膨らませて言う。
「あの、にくったらしい親不知の歯、だけだよ! 奥歯に生えやがって! お蔭で、一週間は痛みに苦しむハメになっちゃったんだから! 私とアイツのケリは、まだついてないと同じだよ!」
「…………」
「概して言うなら、概して言うなら……! まだ、アイツと私の決着は、ついてないから! この痛みが引いたときこそ、私の勝利!」
「……そうか」
「うん、そうだよ」
「……冷めた。在庫処理、しろ」
「え」
「在庫処理だ。こんなに大量にあっても、詰まらん」
「……いや、私、飲めないんだけど」
「そうか」
「いやいやいやいやいや。『そうか』と言ってプシュッと開けないでよ、本当に頼むから……え? それ、私が飲むの?」
「そうか」
「いやいやいやいやいや。『そうか』じゃなくて。『そうか』じゃなくて。それ、答えになってな、」
「そうか」
 ズイッと蓋の開けた缶を突き出すアクタベに、ふぁすとは後退りをする。
 プルタブを開けた缶の穴から、シュワシュワと弾ける炭酸水の音がふぁすとの耳に聞こえ、甘い甘いソーダ水の味が舌に伝わることを、ふぁすとの鼻に伝えている。
 ふぁすとは込み上げてくる食欲と痛みの恐怖に唾を飲み込みながら、壁に背をついた。
「いやいや、本当、頼むから……お願いします、お願いしますって。今生のお願いですから……」
「そうか。それ、一体何千何万回と聞いたんだろうな。もう、聞き飽きた」
「いや、本当に! お願いだから! なんでも言うことを聞きますから!」
「『なんでも』? じゃぁ、トイレ掃除や風呂掃除も、やると言うことだな?」
「当番制でやってんじゃん! それ!」
「言葉遣いがなってないな。口を開けろ」
「ごめんなさい!」
 ギュッと閉じた目尻から涙を垂らし、口を引き締めるふぁすとに、アクタベは腰を震わせた。
 アクタベの瞳孔が開き、口角が不気味に上がる。
 いつまで経ってもこないアクタベの反応に不安を感じたふぁすとが、恐る恐る、片目だけを開けた。
「あ、あの……アクタベ、さん?」
「撤回だ。前言撤回してやる。オレの気を引けたら、さっきのことをナシにしてやるよ」
「え」
 散々飲み尽くしたソーダ水を床へ投げ捨てたアクタベは、ふぁすとの頭を掴んで引き寄せた。
 探偵業を営む者にとって絶好の仕事日和でもある土曜日を、恋人と過ごす日に当てられたアクタベは、仕事を出来ない穴埋めを恋人に当てるように、乱暴にふぁすとへ口づけた。


土曜日は深いソーダ水のなか


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -