折原さんへ電話でこれから伺ってもいいかと聞くと、面倒そうではあったが了承を得られた。ふたことめを紡ごうとしたのだけれど、ふっつりと音が途切れてしまった。機嫌が悪いのかもしれない。下駄をからころと鳴らしながら私はラムネを二瓶購入し、電車に乗った。
 瓶の周りの露がぽたぽたと落ちる。手の中からつるつると滑っていってしまうラムネに苦戦しながら、ようやくビルの前に着いた。折原さんはエントランスで壁に寄りかかりながら、携帯電話に夢中になっていた。
「折原さん」
 声をかけるとすい、と前髪が揺れたのを見た。歪んだ笑みをしている。機嫌が悪いというよりか、私の手のひらの惨状を嘆いたのだと思う。折原さんは綺麗好きだ。
「なにそれ、ラムネ?」
「えっと、お土産です。でも、温くなってしまったかもしれません」
 折原さんが歩き出したのに倣い、エレベーターへ向かう。出迎えてくれたところに、お礼を言うタイミングを逃してしまった。私は、そのときの折原さんのお顔が好きなのに。
「そりゃそうだろうね。そっちのは?」
 指差したのは、私の左手首にぶらさがっているものだった。中では泳いでいるのか、浮いているのか、よくわからないぶくぶくと肥えた小さい魚が一匹。
「金魚すくいです」
「なんで黒?」
 黒い金魚、ではなく出目金だろうとおもった。屋台のおじさんはただプールの奥に座って勘定をして、不正が無いか目をギラつかせている人だったから、何の説明も、おめでとうの一言もなかった。私が私におめでとう、と言っておいた。
「赤い金魚たちの中で、一匹黒かったので、どうしても欲しかったんです」
「期間限定商品とか好きだもんねえ、君は」
 あとですね、と続けようとしたけれど。きっと折原さんは自分が魚に例えられるのは嫌だろうな、と思ったので噤んでおいた。
 赤い金魚の中で、一匹だけ黒かったの。黒は、どうしても折原さんを思い出させる。しかも、群衆の中でひとり異端だなんて、すくいあげたくなってしまったのに、こうして一匹だけだと、とても寂しい。
 寂しいのかしら、とちらと折原さんを見上げた。

 室内に入ると、クーラーがよく利いていている。温度も湿度も高くその上人ごみの中でいたから、寒く感じるくらいでくしゃみが出た。
「シャワーでも浴びれば?」
「あ、お借りします。そのまえに、この子、なにか入れるものありますか?」
「なに、ここで飼う気?」
「駄目ですか?」
 呆れたように言うけれど、自宅で過ごすより、日中は折原さんの手伝いをしているところが多いのだから、仕方ない。それに、私の家は魚をディスプレイしておけるようなお洒落なところではない。
 折原さんはコップやお皿を使っていいと言ってくれたので、大きめの透明なボウルを見つけ出してそこに流し込んだ。魚はすいよすいよと尾びれを揺らしていたから、ちゃんと生きているようだった。
「俺は世話しないから」
「ほとんど毎日来るので大丈夫です」
 ひとまずシャワーをお借りすることにした。ラムネは、瓶の周りを拭いて、冷蔵庫にしまう。冷蔵庫には、お酒が数本と、ミネラルウォーター、あといくつかの食材。たこ焼きを買ってくればよかったかもしれないけれど、さすがに電車にたこ焼きを持って乗る勇気はなかった。折原さんの分は私の胃の中でぐるぐると回っている。
「ねえ、ふぁすとちゃん」
「はい?」
「浴衣、汗そんな吸ってなかったらそれ着て出ておいで」
 脱衣所で振り返ると、そんな声がかかった。私はパンツを脱ぎながら、どうしようかな、と一応悩んだ。シャワーを浴びながら、やっぱりどうしようかな、と悩んで、上がって、そういえば着替えを用意していないのだから浴衣を身に着けるしかなかった。着付けに悪戦苦闘していたら汗をかいたので、すこし脱ぎたくなる。

 クーラーのかかっている部屋に戻ると、折原さんが私の買ってきたラムネを、こともあろうにボウルに、もちろんあの魚の入っているボウルに、注いでいた。私がびっくりしていると、折原さんはにこやかに浴衣かわいいね、なんて言ってきたのでもっとびっくりした。
「折原さん、何してるんですか?」
 ん? と首を傾げるけれど、ラムネは空になって、ころころとビー玉が転がっているだけだった。飴みたいに、べたついた鈍い輝きで、カラカラと鳴っている。
「フルーツポンチ?」
「フルーツじゃないです。あと、それ食べられませんよ」
「いいよ、あとで捨てるから」
 近付くと、魚はぷっかりと浮いていた。炭酸水が悪かったのか、そのまえになにか折原さんに悪戯をされていたか、わからないけれど。かわいそうに。
「でも、ラムネは後味が甘いですよね。そんな中で息を引き取って、きっと天国に行けると思います」
「じゃあ俺はラムネの中で溺れ死ねばいいのかな?」
 折原さんの手から瓶を回収して、口の部分を開いてビー玉をボウルへ転がした。残念だけど、黒と、透明と、青いビー玉は鮮やかさに欠けた。
「ラムネ、飲みますか?」
「分けてくれるの?」
「間接ちゅうになっちゃいますよ」
 折原さんは、困ったように指をラムネに浸して、私の口元にそれを近付けた。
「はい」
「……手拭きを、持ってきましょうか?」
 せっかく今日のために購入した浴衣に撫でつけられた。

 冷えたラムネを分け合いながら、遠くで上がる花火の音を聞いた。心臓の音のように、どん、どん、どん、とお腹に響く。
「明日、暇?」
「折原さんと同じくらいに」
「言うねえ」
 折原さんの頭を肩で預かりながら、最後のしずくを舌に乗せた。もうぴりぴりとせず、ただ甘いだけだった。一番さいごには甘くなるだけ。どろりとした粘膜が喉に張り付くのを感じた。
「嘘です。明日もお祭りに行きたいくらいです」
「今日みたいに夕方からでしょ?」
「日が高いうちは、暑いですから……」
 折原さんと過ごしていると、身体の温度調節がうまくいかなくなる。暑いときはすずしく、寒い時はあたたかい。そうでないときもあるけれど。体温の摘みがぐるぐると、右往左往している。大量の汗が、浴衣に滲んでいる。室内は冷えている。でも、とても、あつくてかなわない。
「ふぁすとちゃん」
「なんですか」
 折原さん。ラムネの中で溺れ死ぬ折原さんを想像した。でも、折原さんの瞳は赤くて、私の手はラムネを注ぐ勇気がない。では逆は?
「浴衣脱いだら?」
「折原さんが着ろって言ったんですよ」
「言ったけど、汗吸ってなかったら、とも、言ったよ」
「あ、汗くさいですか、やっぱり……」
 不意に肩の重みがなくなり、折原さんはベッドルームへ行ってしまった。本当は金魚を渡して帰ろうと思っていた。でも、なんとなく、別れ言葉も無く去ってしまうのはよくない気がして、花火の音が止んでから、同じ所へ向かった。
 痛いのは、嫌いじゃない。ラムネの、後になって、薄れて、甘さだけが残ってしまうのは、残念だ。折原さんは、優しい。きっと、さいごにはぐだぐだに甘くなってしまうのかもしれない。私はだから、蓋をしておく。なにも漏れ出ないように。なににも、変化しないように。どこにも行ってしまわぬように。
 勝手に開きそうになるとき、私は魔法の呪文を唱える。
「折原さん」
「なに?」
「好きです。好きですよ」
 ぎゅう、と蓋は半回転する。
 そうかい、俺もだよ、と鼻白んだ風に軽々しく言うその隣に滑り込んで、私は眼を瞑った。ひりひりと痛む。それで、いいの。




「ふぁすと」
 起きる気配が無い。まったく、末恐ろしい。
 いつまで手元に置いておくだけで済むだろうか。俺が本当に彼女に飽いてしまっても、彼女はそこに居続けるだろうが、俺はいつまで飽くフリをすればいいのだろうか。ラムネを傾ける瞬間まで、彼女は水面に上がってこない気がしてならない。息苦しくないのだろうか。もう一度呼びかけ、そっと酸素を吹き込んだ。


土曜日

深い
ソーダ水

の な か  
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