一度だけ生きるか死ぬかの病気を患って、入院したことがある。体が弱くて熱を出すのはいつものことだったから、そして病弱だとこれ以上レッテルを貼られるのは嫌だったから、やせ我慢した結果風邪をこじらせてしまったのだ。病名はなんだっただろうか、特に難しいものではなかったと思うけれど、なにぶん小さい頃の話だからすっかり忘れてしまった。もうすっかり健康になった今、なんでこんなことを思い出しているのかというと、再び同じ病院に叩き込まれてしまったからだ。無機質に白い天井はいくつになっても慣れないしきっと一生慣れてはいけないものだと思う。慣れてしまったら人間として死んでしまったようなものだ。パチリと目を開けて、息の詰まる白を眺めてからなぜここにいるのかと自問した。インターハイが終わって数日、僅差で優勝を逃してしまった俺はショックのあまり久しぶりに風邪をひいて倒れてしまったのだ。入院するほどのものではなかったけれど、昔のこともあり心配した両親が無理を言って入院させたのだと思い出すまで、そう時間はかからなかった。

(大丈夫だって、言ったのに)

自分を思ってくれてのことだとはわかっている。けれども俺にはそれが重たかった。母の愛が、雁字搦めにして、風にのって空を飛んでいるような感覚を台無しにする。ただでさえ重力に縛り付けられて重たい身体なのに、常識とか社会のルールとか、それですら重たいのにこれ以上縛り付けないで欲しいと思う俺はなんと傲慢だろうか。
時計を見るともう夜中であった。昼間たっぷり睡眠をとったせいで、寝ようと思っても寝られなくてこっそり病室を抜け出した。少しだけ感傷に浸りたかったのもあるのかもしれない。インハイでの敗北は、自分の心に確実に影響を及ぼしていた。見回りの人に咎められたら、トイレだと言えばいいだろう。あの小さな箱はなんとなく息苦しかった。外に出られたらどこでもよかった。けれども俺は根っからのクライマーらしく、高い方を好んだ。馬鹿と煙はなんとやら、というから単に馬鹿なだけかもしれないけれど。屋上へ続く階段を上り、どうせ開いてはいないと思いながらも扉に手をかける。

「わあ、珍しい。男の子だ」

予想に反してドアは空いていて、そして想定外のことに先客がいたのだ。驚きすぎて対応ができなかった。「や、こんばんは」と先輩たちから気の抜けたと形容される笑顔で返事を返す。同い年の女の子。きっとこの子も何かの病気だろう。

「あなたも星を見に来たの?」
「え? まあそんなところかな」
「ずっと病室いたら息が詰まっちゃうもんね」
「うん」
「あなたは、最近入ってきた人? かな?」
「うん。昨日」
「すぐに退院できるの?」
「たぶん」

質問の多い女の子だ、と思った。感傷に浸りたくて来たのにこれでは意味がない。かと言って病室に帰る気にもなれないから、女の子との会話をなんとはなしに続けていった。どれくらい経っただろうか。生返事しかしない俺に愛想をつかさず、彼女は質問を問いかける。たまにポツリと自分のことを話す。踏み入ったことは聞かず当たり障りのない話しかしないから居心地は良かった。知らない人、ということもあるのだろう。今は踏み入ってこられるのは嫌だし、優しい眼差しで距離を取られるのも嫌だ。気持ちはぐちゃぐちゃで、自分でもどこから手をつけたらいいのかわからない。来年の夏のために早く整理しなくては、と思うんだけど、頭ではわかっているんだけど、汚すぎて自分じゃどうしようもないんだ。ぬるま湯のような気持ちよさに浸りながら空を眺める。女の子の声はクラッシック。意味はわからないけど聞いててなんとなく落ち着く。不快感はない。

「っくしゅん」
「大丈夫」
「うん……ちょっとくしゃみがでただけ」
「もう夜も遅いし帰ろうか」
「私はいいや」
「なんで?」
「だって、次にここに来れるのいつかわからないから」
「そんなにひどいの」
「まあね」

途端に冷めた顔をしたから、あ、これ、聞いちゃいけないことだな、と思った。同時になんで彼女の会話がなんとなくわかった。彼女もきっと僕と同じ。触れられたくないものを抱えて、それを持て余しているんだ。踏み入って欲しくはないけれど隣に人は居て欲しい。そんな気持ちなんだ。まだ俺も病室に戻りたくないし、気まぐれにもう少しだけ彼女に付き合うことにした。

「……そう言えば、君は好きなことある? やってみたいこととか」
「そうねえ。空を飛びたいかな」
「なんで?」
「重力から解放されたら、生きてるって感じしない?」

それって、死んでいるんじゃ、と思った。自力で飛んでいたら重力に引っ張られるはずで、抗う痛みが生きてるって感じがするのに。なんの苦痛もなく空を飛んでしまったら、それは死んでいるっていうことで。ただの逃避で。

「かもね」
「私は早く飛びたいの。自由になりたいの」

きっと重たい病気なんだろう。治る見込みもなくて、辛いだけで、はやく楽になりたいのだろう。つまり、「死にたい」って言葉をぼかして言っているくせに、力強くいう彼女に瞳は驚くほど透き通っていて、ブラックホールみたいだ、と思った。宇宙の穴。自分自身を飲み込んで膨張する穴。吸い込まれそう。一瞬、彼女の宇宙に吸い込まれてもいいかなって思った。とにかくどこかへ逃げ出したい気分だったんだ。ロードに乗っているときの綺麗な気持ちが初めて汚されて、初めて挫折っていうのかな。そんな目にあったものだから、やけっぱちになっていて。死んでいるのが嫌で、生きていたくて、がむしゃらにやってきたのに、責任とか、そういうもの持たされた瞬間どうしていいかわからなくなったから。

「俺も、自由に、飛びたいかな」

俺の声を聞いて振り返った彼女の瞳が、俺を吸い込んでくれればいいのに。

君の宇宙で迷子になりたい


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