「すいませーん巻島くんいますか」

何で私が知らない奴の為にわざわざ自転車競技部まで来なければいけないのか、いや、巻島くんとやらが自転車競技部なんだからなのだけどね。いくらなんでも先生だって私に頼むことないんじゃないのか、代わりならどこにだっているのに。このプリント一枚の為に私は自転車競技部の部室まで来たのだが、如何せん誰もいやしない。プリントには単位の前倒し取得についてと海外の大学へ進学するにあたって、という内容が書かれていた。うん、よくわからないけれど、多分そういうことなのだろう。本当は見てはいけなかったのかもしれない、ごめんまだ見知らぬ巻島くん。ガランと静まり返った部室は意外にも綺麗に片付けられていて男子の部室とは思えない程だ、ロッカーにでも入れて帰ろうかなとも思ったけどそれでは意味がない気がして。取り敢えずそこら辺にあるベンチに座ろうとした時扉の開く音がした、別に悪いことをしているわけではないのだけど身体が強張ってしまう。聞こえた声は弱々しい男の子の声だ、扉の方へ視線を向けると眼鏡をかけた小さな男の子が一人。「どなたですか?えっと、誰かに用事でしょうか」きっと私よりも年下で下級生だろう彼は少しずつ近付いてくる、ちょびちょびと。巻島くんに用事があって、とつられて小さな声で言えば表情をころっと変えて、巻島さんですか!なんて目を輝かせて先程の謙虚さは何処へやら勢い良く近付いて来たのだ。この子にこのプリントを渡して帰ろうとも思った、だけれど何故だかそれだけは出来なかった。この内容を彼に見られてしまったら?三年生の勘だがきっとこの子は巻島くんのことを尊敬しているのだろう、絶対に知られてはいけないし見せるわけにはいかない。手渡すものがあって、と誤魔化せばやっぱり人がいいのか僕が渡しておきますよなんて可愛い声で言う。苦笑いでその返事に答えれば、彼も申し訳なさそうに頭を掻いて苦笑いを浮かべていた。さて、どうしたものか。取り敢えず手に持っていたプリントを見えないように裏返しに持ち替えた、男の子は私とプリントを交互に見ながら何やら考え事をしているらしい。私、プリント、私、プリント、何度も繰り返されるその動作に意味もなく緊張してしまう。バッ、風を切る音と共に男の子は勢い良く顔を上げた。瞳をキラキラに輝かせ頬をほのかなピンク色に染めながら、少し照れ臭そうに口を開く。

「分かりました、巻島さんに、こ、告白しに来たんですね!」
「え」
「いやあ、最初から怪しいと思っていたんです。だって、美人な方が巻島さんに一枚の手紙を持ってきているんですから告白しかないですよね!」
「あのね眼鏡くん、違う、違うよ」
「お似合いです!巻島さんに!」
「小野田、何やってんだ」
「あっ!巻島さん!この方が巻島さんに用事があるって」

パチリ、目が合う。じーっと細い目を私に向ける彼、やっぱり巻島くんって誰よ同じクラスなのに分からない。多分今目が合っている人なんだろうけれど、私は知らない。身長が高くて髪の毛がたま虫色で手足が細くて長い、目付きが少し怖いんだけど。眼鏡くんが仕切りにお知り合いですか!なんて勢い良く聞くんだけどお互いに知りません状態、私の手にあるプリントに目線を移した巻島くんは何と無く状況を察した様子。騒ぐ眼鏡くんに部室の外へ行くよう指示を出すと、ゆっくりと私の方へ歩いて来る。ジリジリと迫ってくる巻島くんになんだか逃げ腰になってしまう私、まあ座ればとベンチを指差すものだから自然と腰を下ろしてしまった。

「んで、それなに」
「それよりも、貴方が巻島くん?」

単刀直入に聞かれたのだけれど、一応の確認は必要だ。驚いたように目を見開く彼に私は視線を泳がす、小野田が巻島さんって言ってたっしょ、ぼそりと巻島くんが呟き沈黙が広がる。いや、一応確認しただけですから、だって私は巻島くんを知らないわけですし。俺もお前のこと知らないんだけど、そう言って私を見る巻島くんは歪な苦笑いを浮かべていた。ああ、やっぱりお互いに知らなかったのね。取り敢えず名前を名乗ることにしておいた、ふーんって感じで終わる自己紹介ほど呆気ないものはない。んで、それは?巻島くんはプリントから目線を外すことなく聞いてくる、そりゃあ気になるよねこれ。彼に字が見えるようにプリントを見せると目がチラチラと動き始めた、きっと読んでいるのだろう。「おい、これもしかして小野田に見せたのか」プリントを私の手から乱暴に取り上げた巻島くんは低めの声だ、目線はプリントに向けられたまま。見せてないし教えてないよ、巻島くんは安心したように息を吐いた。やっぱり眼鏡くんに見せなくて正解だったな、知られたら駄目なことみたいだったから。練習着のままの彼は身体の細さが妙に目立つ、私とは大違いだ。横目で巻島くんを見れば彼も私のことを見たようで目が合う、私がじっくりと横目で見ていたことに驚いたのか座っている場所から少し距離を離したようだった。

「まあ、なんかサンキュー」
「いえいえ、別に」
「あー、ファミリ。他に用事ってあるわけ」
「ないよ」
「俺、練習戻るから」
「ねえ!巻島くん、自転車楽しい?」

ハァ!?大きな声が部室内に響き渡る、私は体を揺らし驚いてしまった。実は私、教室の窓から自転車競技部の練習を何度か見たことがあったのだけど、すごいなって思っていた。学校の周りを走る姿は帰りに何度も見たことがある、きっと巻島くんは知らないだろうけど。楽しいに決まってるだろ、聞こえるか聞こえないくらいの小さな声を絞り出した巻島くんは私の方を見ようとはしない。登り、彼の口から発せられた言葉はその一言だけだ。でもどうしてだろう、とても嬉しそうに幸せそうに言ったものだから申し訳ないけど不思議と笑ってしまった。巻島くんは人と話すのがあまり得意ではないようだ、まず人の目を見て話さないし、第一にあの無理矢理感のある作り笑い。あれはない、いくらなんでもあんな笑い方をされるよりだったら無表情の方がマシだ。「今度練習、見に来ればいい」意外な言葉に驚きを隠せない、そんなこと言うようなタイプの人ではないと思っていたから。巻島くんは、よく分からない。でもせっかく誘ってもらえたのだから見てみたい気もする、巻島くんがどんな走り方をするのかどんな表情で走っているのかどんな自転車に乗っているのか。あ、自転車って言い方はダサイのか私よく分からないからあれなんだけど。こんなに目立つのになあ、意識しないと全く分からないものなんだ。今思えば、こんなに分かりやすい容姿をしているのに知らなかった自分が情けない。巻島くんのことを考えていたら、返事をするのを忘れていた。彼は反応しない私を見て、嫌なのかと勘違いをして明らかに暗い声で別に無理にとは言ってないからと手をひらひらさせて言った。その姿がなんだか可愛くて笑みが零れてしまう、そんな私を疑うような目で見る巻島くん。大丈夫、変なことなんて考えてないからさ。

「もっと早く巻島くんのこと知っておけば良かった、あと一年も巻島くんといれないなんて」
「ハァ!?ファミリ、俺の隣の席っしょ」
「そうなの?」
「しかも三年間同じクラスだってのに」
「あれ、巻島くん私のこと知らないんじゃ」
「あ、いや。別になんでもねぇよ」
「これから、毎日練習見に行くね」

毎日来なくてもいいから、巻島くんの長い髪がしゃらりと流れると同時に私に向けられた表情はちょっぴり沈んでいて、がっかりした様子だ。だから毎日見に行ってあげるって、いらないっしょ。なんで今さら巻島くんのこと知ってしまったのだろう、ずっとこのまま知らなかったら巻島くんが留学することも分からなかったし巻島くんという人物も分からなかった、こんな残念な気持ちになることはなかったのではないだろうか。ふよふよと浮かんでしまったこの気持ちは、どこに閉じ込めればいいのだろう。知らないままの方が、良かったのかもしれない。きっと、自転車に乗る巻島くんはかっこいい。きっとなんかじゃなくて、絶対かっこいい。部室の窓から差し込む夕日が床を照らしてオレンジ色に染める、巻島くんの影は小さくなり消えてしまいそうだった。いてもたってもいられなくなった私は巻島くんからプリントを奪い取りビリビリと細かく破った、手の中いっぱいになった紙屑を投げれば夕日に照らされヒラヒラと水の中を泳ぐ魚のヒレのように光って床に落ちる。「なにしてんだよ、それ印鑑押すとこあっただろ」そうなの、そうだったの。知らなかった、だって私きちんと読んでなんかいないから。ポロリ、そんな表現が正しいかのように私の瞳から涙が一粒流れ落ちた。意味わからない、何で泣いてんだよ自分。巻島くんに見られないようにしようと顔を逸らしたけれど一足遅かった、しっかりと見られていて巻島くんはギョっとした顔で私を見ていた。当たり前だ、私だって急に泣かれたら驚くし正直引くから。そんな怒ってないから、泣くなよ。巻島くんの手が優しく肩に置かれた、鼻をすすることを忘れてしまうくらい緊張した、ドキドキした。鼻水が垂れようが関係ないと思った、ただドキドキして巻島くんを見ることが出来なかった。

「あの、私は巻島くんが留学することとか知らなかったことにするから」
「どういう意味で」
「このプリントを破いちゃったから、私は知らない」
「ああ」
「眼鏡くん、私みたいに泣いちゃうぞ」
「小野田は、泣かないっしょ」
「毎日、巻島くんのこと見に来るから」

今度は来なくていいなんて言わなかった、巻島くんは黙って口元に手をあてがうだけ。ごにょごにょ独り言を言っている様子だけれど、何を言ってるのかは分からない。「俺、練習戻るから」私の顔も見ずに部室を出て行ってしまった巻島くんの背中を見ていた、あと何ヶ月その姿を見ることが出来るのだろう。毎日、巻島くんの背中を見て練習をしている眼鏡くんは幸せものだ。毎日巻島くんを見ることが出来る、自転車に乗っている巻島くんを間近で見ることが出来る、だから眼鏡くんは巻島くんのことを慕っている。そんな眼鏡くんに少し嫉妬した、ただ純粋に羨ましいなって思った。私は巻島くんを近くで見ることなんて早々出来ないわけだし、そして自転車についての知識もないので分からないことだらけ。そうだ、今度試合を見に行こう。練習も見て、試合も見て、巻島くんのかっこいい姿を見に行こう。

少しの時間しか残っていないとしても、この気持ちや思いを全力で伝えよう。部室を出ると出迎えていたのは、真っ赤な真っ赤な夕日だった。


まるで丘を泳ぐ魚


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