哺乳類の心臓は死ぬまでに15億回鼓動するという。ネズミは鼓動が早いから2、3年しか生きられないし、象は鼓動がゆっくりだから70年ほど生きる。しかし人間だけは15億回鼓動したところで死にはしない。人間にもこの法則が当てはめられたなら、私たちは30歳になる頃にはこの命が尽きてしまうだろう。何の授業であったか、先生のこの雑学染みた話の方が印象が強くて覚えていない。鼓動は死へのカウントダウンだ。15億回じゃなくたって、30億回かもしれないし、もしそんなの決まっていなくとも何だって、一つ心臓が脈打つ度に近づいているのは死に違いはない。

「逆に言うと、一つ心臓が脈打つ度に、生きた証になるんだよね?」

そんな理論で返してくる人は初めてだったから呆気にとられた。前、荒北にこの話をしたら「死ぬときゃ死ぬんだよ人間」と極端すぎる答えが返ってきたのに。

「真波ってやっぱ変だね」
「えーどこが?思った事言っただけなのになぁ俺」

言ってから、すぐ笑う。真波は照れたように頭をかいた。決して褒めてなどいないのに、そういうところも変だと思う。

「ねえ真波今日うち来る?」
「え!行きたい」
「おいでよ、今日母さんたち出かけてて帰ってくるの遅いから」
「じゃあ先に俺ん家寄っていい?」
「いいけど」
「ママチャリ取ってくる!」
「何で?」
「ファーストさん家歩いたら遠いんだもん」
「乗せてってくれるの?」
「うん」

お前の話は急に飛躍するからついていけない、というのも荒北に言われた言葉であるが、真波はそれに付き合ってくれるし、むしろ真波の方が話が飛躍する事が多いので困っているのは私の方であるかもしれない。まぁ今はそんな事はいい。真波と学校終わりに家で過ごすという楽しみができたが、それまでに授業はあと3つ、そして部活も待っている。真波に別れを告げて廊下に出たら、日差しが眩しくて思わず目を瞑った。暑い夏のある日のこと。


授業も部活も終えたころには、日が伸びたとはいえ辺りは薄暗くなっていた。私は真波がママチャリを家に取りに行っている間、学校近くのコンビニで時間をつぶしていた。しばらくして真波が駐輪場へママチャリを止め、コンビニへ入ってくる。飲み物とアイスを買って、自転車に2人で跨った。

「考えたんだけどさ」

真波は坂でもすいすい上ってしまうから、こちらの感覚も少しおかしくなってくる。まるで平地を走っているような気分で前へ進む。

「自転車漕いでる時、すごい鼓動早いんだ。これってすごい生きてるって証にならない?」
「それ真波理論の応用?」
「あは、何その理論。でもそれで言うなら、うん、そうかも」
「今どう?生きてる証感じてる?」
「すっげえ感じてる!」
「じゃあ、きっと真波理論は正しいね」

ペダルが軋む音と車輪のまわる音が騒がしい。でもきっと今真波の鼓膜を支配しているのはそれらよりも大きく響く心臓の音なのだろう。と、勝手に推測する。少しして坂がゆるやかになり、ほんの一瞬平坦な道が訪れ、すぐに下りになる。サドルに腰を下ろした真波の背中にぴたりと耳を当てた。緩やかな私の鼓動とは違い、ばっくばくと早いリズムを刻むその心音が、背中越しに耳の中に入ってくる。

「ファーストさん眠いの?」
「……うーん」

今、私の鼓膜は真波の心音に支配されている。


それから3分ほど自転車を走らせてようやく自宅へたどり着いた。真波はもう汗だくで、カッターシャツをパタパタさせながら息を整えている。家に入ってから出してあげたポカリは一気に飲み干された。

「真波、お風呂入る?」
「あ!ねえ、いいこと思いついたんだけど言っていい?」
「ダメって言っても言うじゃん」
「うん、あのさ、水風呂入りたい」

一回くらい否定すればいいのに。素直に頷いて、そう提案した真波は目を輝かせている。確かに日暮れと言ってもこの暑さ、水風呂するのには丁度いい気温かもしれない。

「んー水風呂する?」
「する!」
「私も入りたいなぁ」
「一緒に入ろうよ」
「えー」
「着衣水泳しよ!」

何故かガッツポーズを決められて、よく分からないまま私は頷いた。
お風呂に水を張って、それから服を着たまま2人でそこに身体を沈める。水を吸った衣類がひたひたと肌にはりついたり、柔く肌を撫でたり、ちょっと気持ちが悪い。

「服おもーい」

わがままな口調で言った真波は、自分が提案したくせに困り顔だ。

「でも楽しいね」

しかしすぐに笑顔になる。真波はカッターシャツに空気を含ませて遊んでいる。

「そういえば、この間ニュースで見たんだけど、心臓が再生する魚がいるらしいよ」
「えーどこのニュース?俺聞いたことないや」
「ネットのニュース」
「ふーん。いいな、俺も再生する心臓がほしい」
「別に真波の心臓正常に動いてるじゃん」
「そうじゃなくて、レースの時とかに疲れても心臓がすぐに再生すればなーって」
「よく分かんない」
「俺もよく分かんない」

何てことない顔をして真波は笑う。

「でも人間で良かったよね。人間は心房も心室も2つずつあるけど魚は1つしかないんだよ」
「1つだけだとどうなるの?」
「綺麗な血液と汚い血液が混ざって、酸素を効率よく運べないんだって」
「うわ、それ困る」

真波は冗談っぽく笑う時と、本気で驚く時のリアクションの差が激しくて、未だに見ていて飽きない部分の一つである。今は、本気で驚いた顔をしている。

「俺魚じゃなくて良かった」
「魚だったら今頃どんな生活してたかなぁ」
「俺ファーストさんとロードがない生活なんて考えたくないや」
「……ちょっとときめいた」
「えへへ」
「でも魚って私たちの祖先みたいなものなんだよね」
「なんかそれ生物でやったなぁ」
「へえ、真波が授業聞いてるなんて珍しいね」
「俺だってたまには聞くよ」
「たまには、ね」
「うん」

今回も否定せず、素直に頷く。真波は欲にも忠実だし嘘もあまりつかないし、素直でいい。たまに思考と言葉が直結しすぎて理解できない事を言い出したりもするけれど。そこはご愛嬌だろう。
水中で冷え切った身体をぶるりと震わせる。掌をパーの形に開いて、それを見つめる。人の形をしている。人の手足は魚のひれが進化してできたものだと言われているが、本当にそうなのだろうか。鳥の羽も魚のひれの進化だと言う。これが本当ならば、すごいなぁ。前に進むためのひれが、同じ目的を持った手足に、羽になるのだから。私が今真波の隣を歩けているのも、真波が自転車を漕げているのも、すべて進化のおかげ。

「ちょっと寒いね。温度上げる?」
「うーん、うん。じゃあ着衣水泳おわり!」

冗談ぽく笑って、真波はカッターシャツを脱いでお風呂場の隅に寄せた。なんとなく真波の頬に触れたら、少し熱を持ったそれが痛いほどに熱く感じた。「つめたーい」けらけらと笑っている真波に、触れられるこの手があってよかったと、進化のありがたみに心の中で手を合わせた。


我ながら最近すごく気持ちの悪い事を考えている。荒北に頭の中を覗かれたら、ばっかじゃねーのとか気味悪いとか散々罵られそうだ。でも真波なら全部目を輝かせてのってくれる。難しすぎる事はきっと分かんないって素直に言って笑うんだろうけど。

「今度の休み、サイクリング行こうよ」

今回もまた唐突な提案だった。少し温めたお風呂に浸かって、シャワーを浴びて、それから今はお風呂上りのアイスを食べている最中だ。真波がソーダ味のアイスをがりっと音を立ててかじる。

「どこまで?」
「んーどっかの山の頂上まで?」
「私坂上れるようなロード持ってないよ」
「俺が後ろに乗せてってあげる!」

それは果たしてサイクリングというのだろうか。首をかしげていたら、最初は私はママチャリに乗って真波はロードに乗ってサイクリングに出掛け、坂道になったらどこかにロードを止めてママチャリで私を後ろに乗せて真波が坂を漕ぐ、という提案をされる。

「それならいいけど……」
「じゃあ決まり!」

不意な約束事は、いつも不確かだから、実行されるものとされないものとまばらであった。このサイクリングに行こうという約束も、練習の忙しくなってきた真波の休みを待っているうちにずるずると延びていき、真波が落ち着いた頃には、今度は私が受験などで暇がなくなっていた。それでも帰り道はよく一緒にいた。真波の練習が終わるのを図書館で勉強しながら待ち、コンビニやファミレスに寄り道して帰る。週に2回ほど訪れるこの時間が私はひそかに好きだった。

受験が終わる頃には、箱根には雪が降るほどに冬の寒さは険しくなっていた。

「こたつアイスしたいね、ファーストさん」
「私の家こたつないよ」
「じゃあ新開さん家かな」
「今度アイス買って遊びに行く?」
「いいね!じゃあ東堂さんや福富さんや皆も呼ばなきゃ」

最近2人で帰る頻度は少しだけ増えている。雪のせいで帰る時間も少し早くなった。いつも途中の分かれ道であるバス停があるところまで歩いて、それからお互いバスに乗って家に帰っていた。もうすぐバス停が見える。

「もうすぐ皆卒業だね」

ふいに口から出た言葉に、真波は表情を固くした。

「なにその顔」
「え!俺どんな顔してる?」
「びっくりした顔してる」
「だってびっくりしたから」
「卒業のこと?」
「うん」
「でも私たちが卒業するのは分かってたでしょ?」
「うん、でも、もうそんな時期なんだなって……」

早いね、と、真波が吐いた言葉が白い息になる。

「ねえファーストさんの行く大学ここから遠いんだよね?」
「少しね」
「どれくらい?」
「んー電車で1時間」
「遠っ!ええ!そんなの聞いてなかった!」
「言ってなかったっけ」
「言ってない」
「でも家は変わらないし」
「あーあ、もう帰り道一緒に帰れないね」
「それはね」
「あ、自転車で迎え行っていい?大学まで」
「え、時間かかるでしょ」
「飛ばしていくから!」

そういう問題でもない気がするけど。冗談でもなく真面目な顔をして言うもんだから、私は笑ってしまった。真波なら本当にあっという間に自転車飛ばして大学までやって来そうだなと思ったら余計に可笑しくなる。真剣な真波に嬉しくもなり、それくらいしないとそうそう会えなくなるのだと知り寂しくもなり。
隣にいた真波が突然私の手を握った。

「ねえ、会いに行くから」
「……うん」
「絶対だからね」
「うん」
「卒業しても俺ずっとファーストさんの事ばっかり考えてそう」

真波が照れたように笑う。私もつられて同じように笑った。

「俺の心臓ドキドキしてるって分かる?」
「ドキドキしてるの?」
「してるよ、ファーストさんといる時はいつも」
「そ、そうなんだ」
「俺、自転車で坂上ってる時の次に、鼓動早いと思う」
「それって結構すごい?」
「すごいよ、2番目に生きてるって感じる瞬間」
「1番はロードで坂上ってる時?」
「うん。あ、でもファーストさん乗せて坂上ってる時が最強かも」
「あはは、最強?じゃあ3番目は?」
「えー思いつかないや」

繋いだ手に神経を集中させる。お互いの掌の熱が行き交って、微かに脈を打つ振動も伝わってくる。それは、とても早い。そして、それは疑いもなくここにある。
人間の心臓よりも簡単なつくりをした魚の心臓は、外から見た形は、人間の心臓と似ているらしい。小生意気にもハートの形をしているのだそうだ。しかし魚が進化したのであれば、私たち人間の方が魚の心臓の形を残して生きているのかもしれない。遠い昔ひれであったかもしれない手には、こんなにも強く鼓動が伝わってくる。私も真波も人間でよかった。

「俺もファーストさんと同じ大学に行きたいな」
「じゃあ遅刻せずに学校いかなきゃね」
「ええ」
「授業中寝るのもなし」
「うっわそれ無理」
「真波の私への愛はそんなものか」
「うそうそ!ちゃんと頑張っていくし授業も受ける、かな!なるべく!」

かな、なるべく、なんて不安要素が拭いきれない言葉をつけて、それでも真波は真剣な顔をして言うから私は嬉しくなってしまう。
人間に限られた鼓動数があったとして、それを私たちは毎日消費しているとするならば、私は彼の側で心臓を使い果たしたい。15億回だって何億回だって、全部真波にあげたい。彼の理論を借りるならば、それが生きた証になるのならば。

「そういえばさ、夏にしたサイクリングに行こーっていう約束覚えてる?」
「あー、あれね、覚えてるよ。結局行けなかったね」
「行こうよ」
「いつ?」
「この積もってる雪が解けたら」

雪が解けてあたたかい春を迎えたら、彼が漕ぐ自転車の後ろで彼の背中に耳を当て生きている音に耳をすませたい。
強く握り直された手に、更に強く響く鼓動。幸せ。寂しい。側にいたい。ずっと一緒にいたい。寂しい。息が苦しい。好き。大好き。真波が好き。
溢れてくる気持ちに今は強く手を握って、私と真波の鼓動が溶け合うような錯覚に、心臓が震えた。私が死ぬその最後の鼓動は、15億回目の鼓動は、真波に向けられたものであることを信じて。


まるで丘を泳ぐ魚


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