ちいさいころから、さかなに憧れていた。
 人魚じゃない。さかなだ。王子様のために泡となって消えてしまう人魚姫ではなくて、さかな。深海魚でも、熱帯魚でもいい。でも欲を言うならば、川のさかなより海のさかなになってみたい。それが私の夢だった。

 自由に泳ぎ回りたいとか、そういうのともまた違う。別にさかなになれたなら、狭い水槽のなかで飼われてもいいのだ。私はただ、さかなになって呼吸をして、そして死んでみたい。ただそれだけなのだ。

 もちろん幼いころは、そんな小難しいことを考えてはいなかった。単にさかなが好きで、憧れていただけ。だから幼い私は、その夢をはじめに自分の母に教えてみることにした。お母さんはとても私に優しかったから、きっと私のこの気持ちと夢に微笑んでくれるだろうと思った。
 けれどお母さんは、私の夢に少しばかりきょとんとした後、人魚ではなくて?という質問を私に返しただけだった。
 ちがうよ、おさかなだよ。そう負けじと答えたら、お母さんはもう一度深く考えるようなそぶりを見せてから、さっきよりほんのちょっぴり悲しそうな顔をして、にんげんはね、おさかなにはなれないの、と、私の頭をふわふわと撫でた。
 その時のお母さんの顔は、今までに見たことがない、なんとも表現しがたいもので、私はそっと、胸の中で「さかなになるゆめ」を抱きしめた。
 ああ、おさかなにはなれないんだ。そう思うとひどく悲しくなってしまって、私はその夜、ほろほろとひとり涙を流した。私の家では一匹もさかなを飼ってはいなかったけれど、仲間になれたはずの遠い海の仲間たちを想って泣いた。群れをなして海をくるくると旋回するイワシ達を想って泣いた。出来もしない鰓呼吸を夢見て、あの日の私は泣いていたのだ。

 でも、私がその夢を語ったのは母親だけではなかった。これは私だけが知っていることだけれど、実は母親にそれを話す前に、私はその夢を他人に語っていた。
 私は幼馴染のベルトルトにだけ、こっそりとその夢を打ち明けていた。

 
 ベルトルトは私の夢を、とっても素敵な夢だと言ってくれた。
 私と同い年なのに、泣き虫でほんのむしなベルトルト。彼は私の夢を聞いた次の日、おおきなおおきな図鑑を持ってやってきて、私にさかなのからだについて教えてくれた。

「さかなはね、ぼくたちみたいに、すー、はーって、いきできないんだ。ここの、エラっていうところをパカパカってしてね、いきするんだよ」
「からだがきらきらしてる。これはなに?」
「えっと、ウロコ、だよ。ぽろぽろはがれるんだ。きれいだね」
「きれい…。このおさかな、目がきょろきょろしてる。…いいなぁ」
「ファーストちゃんならなれるよ。このよでいちばんきれいな、おさかな」
「でもきっと、みんな人魚がいいって言うもの」
「ぼくは、おさかなのほうが、好き」

 そう言ってきゅっと私の手を握ったベルトルトの手のひらを、私は今でも時々思い出す。あたたかくて、柔らかくて、きっとヒトデと握手したら、あんな感じ。そんなこと言うときっとほかの皆は嫌がるけれど、ベルトルトはきっと、嬉しいと微笑んでくれるだろう。だってベルトルトだ。あの日だって約束した。おさかなになれたらきっと、ふたりで海で泳ごうって。馬鹿馬鹿しいと思われても、それが私たちの約束だった。
 さかなと、その故郷の海を想って泣いたあの夜を超えて、私とベルトルトは今でも、ぷかりぷかりと夢に身を浮かせ、生きている。



 ベルトルトと「幼馴染」でなくなったのは、おととしの夏のことだった。
 小さい頃となにも変わらないまま、身に着けている服のサイズだけ大きくなって、互いに部屋を行き来し続けていた夏の日。たしかあの日はベルトルトの部屋にいて、暑くて、空はペンキを塗りたくったような一面の青で、じっと仰ぎ続けていれば、海にいるように錯覚してしまいそうな、そんな日の午後だった気がする。気が付いたら私のくちびると彼のくちびるはふれていて、それからベルトルトが私の体をたくさんさわってくれた。
 音もなく、金魚が揺れるように唐突にやってきた転機ではあったけれど、少しも嫌な気分にはならなかった。何も変わっていないように見えていたベルトルトの手はずいぶんと大きくなっていて、ヒトデのような可愛らしさは、残念ながら失われてはいたけれど。はずかしいと感じたのは汗だくのポロシャツをめくられた時だけで、あとはずっと、ベルトルトの口からこぼれてくる、すき、という二文字を心地よく受け入れているだけだった。
 時々チカチカと瞼のうらを刺す刺激は、気持ちよさに溺れようとする私をじわじわと追い詰めていくようで、早すぎたとか、ベルトルトが好きだとか、そういったことをじっくり考える時間を私に与えてくれることは無かった。


 それから、時折こうしてベルトルトとふれあうようになった。特にきまりだとかしがらみがあるわけではなくて、ただただひたすらに心地いい感覚を追いかける。目の前はベルトルトでいっぱいになって、一気に視界の幅が狭まったような気分になる。たくさんキスをされると苦しくて、はくはくと酸素を求める私は、まるでほんものの魚みたいだ。

 

 すきだよ、ファースト、すき、

 そう繰り返すベルトルトの声変りを終えた声は、私をさかなに変身させる。あの約束は今、こうして彼とふれあってる瞬間に、現在進行形で果たされているのだ。



 ことを終えて、ベルトルトが私の髪を梳きながら瞼にキスを落とす瞬間が、いちばん好き。目を開けてみると、私がくったりと体を沈めているシーツは砂浜のように小さく波打っていて、さかなになっていた自分を思い出させてくれる。
 あの日お母さんに伝えきれなかった気持ちは、まだちゃんと伝えられそうにはないけれど。それでも私のこころはあの頃よりずっと、満たされていた。

「ファースト、」

 彼にすり寄ればそう名前を呼ばれて、なぁに、と答えれば、ふっと微笑んで彼は言う。

「僕たち、さかなみたいだ」
「…人魚じゃなくて?」

 本当はそんなこと知ってる。ひととさかなは違うことくらい。でも憧れた。だから私はベルトルトとこうして、さかなになる。
 意地悪を言えば、ベルトルトはゆっくり私に覆いかぶさってきた。

「ファーストちゃんは、僕だけがしってるさかなだよ」
「きれいなのかな、私」
「きれい。ファーストちゃんよりきれいなさかな、見たことない」
「そっかぁ。ふふ、ベルトルト、好きよ」
「僕も。…ファースト、」

 ベルトルトが鱗のない私の肌をゆるゆると撫でて、私はそれに応えるようにひくりとはねる。ああ、もうそんな一瞬さえも愛おしい。

 酸素を求めて薄く開いた自分のくちびるから、こぽりとあぶくが生まれた気がした。私はそれを追うように手を伸ばし、彼の背中に腕を回した。


まるで丘を泳ぐ魚


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