作り上げた書類を何枚か持って、車輪を転がす。ドアを開けた瞬間に漂ってきた酒の匂いに、私は眉をひそめた。真昼間から賑やかな酒盛りを横目に、ナイル師団長の部屋へと向かう。
 車椅子の兵士など私ぐらいなので、廊下を行く私へ時折飛ばされる視線は、珍しい物を見る冷ややかな目でしかない。――違う、違うのだ。かつてこの背に自由の翼を背負い、人類の僅かな前進と引き換えに足という機能を失った私と彼らは『同じ』ではないと、私は強く念じた。そうでもしていないと惨めで仕方ないのだと、私自身が良く知っている。

「っ!」

 余計なことを考えていたからだろうか、膝に乗せていた書類が数枚床に散らばってしまった。自分の部屋であれば火鋏やら何やらで適当に拾うのだが、当然のごとくこの近辺にそんな物はない。
 勿論、私を案じてすぐに駆けつけてくれるような同僚も、いない。

(……ペトラ)

 私は優しい同期の彼女を思った。あるいはペトラがここにいれば、彼女は私に駆け寄り、冷たい石床に跪いて書類を拾って私に持たせ、あまつさえ車椅子を押して目的地まで送り届けてしまうだろう。私の知るペトラ・ラルとはそういう人間だ。暖かくて強くて、美しい。床に散らばる書類を見つめて、私は息苦しいこの場所から逃避する。いつの間にか目を閉じていた。

(ペトラごめん、落としてしまった)

 ペトラは訓練兵になった当初からあの明るい性格で人気を集めていた上に、良好な成績を収めていたので、女子の仲間内にも彼女を慕う子は少なくなかった。鳥のように軽快な立体機動に私自身も憧れていた。私は、彼女は花道を突っ走るように憲兵団に行くのだろうと思っていた。解散式のあの夜、仲間たちとの最後のどんちゃん騒ぎの中で落とされたペトラの言葉を、私は今でも覚えている。

「調査兵団に入るの」
「えっ?」
「ほらファーストも、『人類最強』って、知ってるでしょ?」
「え、えぇと……リヴァイ兵士長、だよね」
「そう! 私は絶対に兵長の下で働きたい……あの方が人類を勝利へ導く様を見るんだ」

 瞳を輝かせて語る彼女に、私の胸は熱くなった。男子の真ん中ではオルオが偉そうに演説して舌を噛んでいた。私も彼女もとても若かった。私たちは希望に浮かされたまま調査兵団に入った。
 本物の恐怖を覚えたのは初陣だった。ペトラとオルオは失禁し、私は帰還途中の荷馬車の上で、先輩兵士が気付いた時には気絶していたそうだ。その夜はいくら湯に浸かっても布団にもぐりこんでも身体の芯が凍りついたようで、ペトラと二人泣きながら身を寄せ合って寝た。

(私じゃ拾えない)

 何回も何回も壁外に出るうちに、心が擦り切れてしまうような悲しみを何度も味わった。幸か不幸か私も、ペトラも生き残った。同期が、先輩が、後輩たちが食われていく中で足掻いて足掻いて、私たちは「生きている」という強烈な苦みを奥歯に噛み締めながら、息をしていた。

(拾って、ごめん、お願い)

 ペトラは今でも、その場所にいる。彼女は大丈夫だろうか。調査兵団は先日、壁外調査を終えて帰還した。私の部屋に来て、私の膝にボロボロと涙を落として泣いたペトラは、今回も無事に帰って来ているだろうか。不吉な心配が背筋を駆け上がった。

「――あったいへーん、落ちちゃってますよぉ」

 甘ったるい声を掛けられた時には、その声がペトラの物と似ても似つかぬことに驚いていた。どっぷりと思考の沼に落ち込んでいた私は、はっと意識を浮上させた。

「拾いますねぇ」
「あ、ありがとう……」

 声の主の新兵らしい女子兵士は案外手際よく書類たちを掻き集め、私の膝に乗せてくれた。去り際に彼女は一つウィンクを残して、

「ヒッチっていいますぅ。よろしくお願いしますね、先輩」

ご機嫌な様子で歩いて行った。
 私は溜息を吐く。先輩兵士である私に気に入られようとした行為であることには違いないだろうが、やらない善よりやる偽善の方がまだありがたい。あれほどまでに頭の中を占めていたペトラの存在が少し薄まった隙に車輪を回して、師団長の部屋へと急いだ。
 ノックをしてから名乗れば、数秒の沈黙の後に「入れ」というくぐもった声が聞こえた。優しくない位置にあるドアノブを捻って、私は部屋の中に進んだ。

「先日の強盗事件の調書です」
「ああ、ご苦労」

 ブレーキを引き上げてから両手で書類を差し出す。紙束を掻っ攫って行った手が葉巻の匂いを纏っていたので、顔を伏せて小さく咳を零した。部屋の空気全体が煙たい。私は早々に部屋を出ようとブレーキを解除した。その私の目の前に、新たな紙の束が差し出される。

「今回の壁外調査の死傷者だそうだ」
「……拝見します」

 現時点での傷病者、死亡者の数が書かれている一枚目の紙をめくって、まずは傷病者のリストから目を通す。知った名前も、数は少ないもののないわけではなかった。息を吐いてもう一枚紙をめくる。
 おびただしい数の名前を、腹を据えて辿ろうとした時。なぜか、胸騒ぎがした。心臓が痛いほどに脈を打つ。怪我自体はもう無いはずの脚に、広く、鋭い痛みが牙を剥いた。額に脂汗が浮かぶのがわかる。私は書類から目を離した。

「エルヴィンの野郎が詳しい報告を寄越すまでは何もわからんが、厄介な敵が現れたらしい」

 師団長はそう言って、いらいらしたように窓の外を睨んだ。壁内各地から様々な報告を師団長に持ってくる駐屯兵団の早馬は、次から次へとひっきりなしにやって来る。今も、門から駆けこんでくる駐屯兵が見えた。
 私は意を決して紙に目を戻す。そしてその瞬間を、永遠に後悔することになる。慣れ親しみすぎたその文字を、私の網膜は勝手に拾ってしまうのだ。

「女型の巨人、と言われているそうだ。今その件でハンジ・ゾエから――、おい、ファースト?」

 目を閉じる。眼の奥から溢れ出すものを押し込めて、書類に皺を付けないように膝の上に置いてから、きつく腿の両脇を握った。鈍い痛みに気を取られて涙が引いていく。それでも目を開けた拍子に、一滴だけ、落ちてしまった。
 師団長はさすがに察したらしく、一歩引いて私に背を向けた。顔を上げた私は師団長に向かって震える声を押し出した。

「ご用件を」
「……友人の死を悼む程度の間はあるが」

 ねえペトラ、痛くはなかった? 苦しくなかった? 嬲り殺しになんて、されていない? ぐるぐるぐると色々な疑問が巻き起こって、私はそれを、脳裏で微笑むペトラにぶつける。

「……あいにくと、友人という言葉で片付けられるほどの間柄ではありませんので」

 私はいつだってここにいる。この場所から動けやしないのにあなたの方が遠くに行ってしまったら、私は追いかけることもできない。叫んでみてもやっぱり、ペトラは微笑んでいた。私はもがいているというのに、彼女は美しくそこにいるだけだ。

「そうか」

 振り返った師団長が話す言葉を聞きながら、私は遠い壁に目を遣った。ペトラの身体はウォール・マリアの地で眠っている。王都からマリア領内へは幾つも壁を越えなければならない。飛べないこの身体をこれほど悔やんだことはない。

「――了解しました」

 捧げたはずの心臓に穴が空いているようだ。ここはこんなにも生きにくい世界だっただろうか。あの苦みもないというのに、息がし辛いなんて。もがれた翼で無様に飛ぶこともできないで、私は俯いた。


まるで丘を泳ぐ魚


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