ガツン、とまるで頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。「ほんとに……?」やっとのことで出した声は自分で思っていた以上に震えていた。「おめでとうございます」目の前にいる白衣を着たその人はとても優しい目をしていた。お医者さんと看護師さんたちの話が耳を通り抜ける。何一つ頭に入ってこないその話をわたしは未だ受け入れられなかった。
最初に違和感を覚えたのは、月一でくるはずのあれがやってこなかった時だった。今までも不順であったそれに今回もかと少しだけ気分が落ちただけで、待てど待てどこないそれにもしかしてと思い始めたのはつい最近のことだった。記憶を辿り、思い当たる節があったわたしは、まさかそんなはずはないと確信が欲しくて薬局に立ち寄った。
「できちゃった」
あのあと気が付けば昔馴染みの相田に電話をかけていた。グズグズと泣いているわたしに気付いた相田はすぐにわたしのいる場所へと飛んできてくれた。人が大勢いる広場でバカみたいに泣いているわたしの手をとった相田は何も言わずに車へと乗せてくれた。
「徹平との子?」「……うん」「……そう」車内には相田の好きなアーティストの曲が流れていた。グズグズと鼻を啜るわたしに相田は何も言わずに車を走らせた。
「で、あんたはどうしたいの」
「……わかんない」
「はぁ?」赤信号で止まった間に、相田はわたしを見た。信じられないとでも言いたげな相田にわたしは俯くしかなかった。
「徹平は知ってんの?」
相田の問いに首を横に振れば横で相田が溜め息を吐いたのがわかった。
「なんで言わないの」
「だ、だって」
「だってもでももないの!」
「あんたたち二人の問題でしょうが」信号が青へと変わり走り出した車にわたしは何も言えなかった。
彼と初めて出会ったのは高校一年の春。新設された高校と真新しい制服に身を包んだわたしたちは出会った。同じ教室で隣の席という偶然から始まったわたしたちは必然と話す機会が増えた。
彼と過ごす時間が増えるにつれ、わたしは彼に惹かれていった。彼は人を惹きつけるのが上手な人だった。彼の周りにはバスケ部を始め、いつも誰かがいた。木吉鉄平という人はそういう人だった。そんな彼だからこそ、わたしは好きになったのだけれど。
「好きだ」
高校三年の春。周りが涙と笑顔で溢れていた卒業式の日に彼から言われた告白は夢じゃないかと思ったほどで。「わたしでいいの?」「お前だから好きになったんだ」真っ直ぐにわたしを捉える彼にわたしは思わず涙が溢れた。ボロボロと泣き始めたわたしに彼は驚いたようで、大丈夫か?なんていつもの彼とは違う、弱々しい声にわたしは笑ったのだ。
「わたしも好きだよ」
わたしたちの恋愛はそこから始まった。高校を卒業したらお互い違う道を進み始めるけれど、何故だか乗り越えられるような気がした。
「ほら、もう泣かないの」
動いていた車が止まった。窓の外をみると見慣れたアパートが目に入った。年季の入ったアパートにはきっと彼が待っている。そう思うとなかなか車から降りれなくて、横にいる相田を見た。
「相田」
「なぁに」
「……こわいよ」
「うん」
「もし鉄平から、堕せって言われたらって思うと、」
「わたし、こわいよ」未だ外せないシートベルトをぎゅっと握れば相田は困ったように笑った。
「あんたたちなら大丈夫」
「……そう、かな」
「そうよ」
「鉄平はあんたを待ってるんだから」
「だから、そんな心配無用よ」相田は笑ってわたしの背中を押した。なぜだろう。相田の言葉に今まで感じていた不安がすぅっと軽くなった。
「……相田、」
「うん?」
「……ありがと」
「どういたしまして」あんなに外したくなかったはずのシートベルトを外して車から降りれば相田はクラクションを鳴らして車を動かした。相田の車が見えなくなるまでその姿を見ていた。相田はやっぱりすごいや。
「……ただいま」
重たい扉を開けるとそこには綺麗に並べられた靴があった。コトコトとキッチンからは何かを作る音が聞こえる。そっと靴を脱いで彼がいるであろう部屋の扉を開けると案の定、キッチンに立つ彼の姿があった。
「おかえり」
「遅かったな」わたしに気付いた彼は調理していた手を止め、わたしの方へと駆け寄ってきた。目の前にきた彼になんて言えばいいのか分からず、思わず俯いてしまった。
「何か、あったのか?」
彼の問いに何も言えずにいると、彼はわたしの手を引いて、二人で買ったソファに腰を下ろした。彼に手を引かれていたわたしも必然的に彼の隣に腰掛けたのだけれど、彼になんといって切り出せばいいのか分からないままだった。俯いた視界の中には彼の大きな手があった。わたしの手を包み込む彼の大きな手から伝わる彼の体温が心地好かった。
「……鉄平、あのね」
彼と繋がったままの右手に少しだけ力が入った。一度深呼吸をすると意外にもすっと出た言葉に自分でも驚いた。話し終わったあと、二人の間にしばらくの沈黙があった。その沈黙がわたしの中にある不安を大きくする。ドキドキと、変に脈打つ心臓が痛かった。何も言わない彼に言い知れぬ不安が胸を占めていく。
「……ほんとか?」
彼の言葉に小さく頷けば、彼は繋いだ手に力をいれた。
「俺たちの、子どもが?」
「…………うん」
俯いたままのわたしは彼が今どんな表情をしているのか分からなかった。だけど、顔を上げる勇気もわたしにはなかった。
「鉄平、」
「わたし、産みたい」
「ダメかな……?」やっとのことで絞り出した言葉は自分で思った以上に震えていた。その時、隣にいる彼が小さく笑った声が聞こえた。
「いいも何も、俺たちの子だろう?」
彼の言葉に思わず顔を上げてしまえば、そこには嬉しそうな顔を浮かべた彼がいた。
「なぁ、」
「結婚するか」
そう言って笑った彼にわたしは何度も何度も頷いた。
まるで丘を泳ぐ魚