もっとお行儀よくしなさいだとか、宿題はやったのかだとか、まるでわたしのお母さんみたいにわたしに口うるさい彼が二度目のエジプト旅行にいってしまってからどのくらいたっただろう。典明くんがいなくなって、わたしのまわりはうんと静かになってしまった。大丈夫だよ、すぐに帰ってくるよ。いいこにしてるんだよ。帰ってきたら、いちばんに君に会いにいくよ。そう言って彼は、わたしの前から姿をけした。日は沈んで、あたりはすっかり真っ暗だったものだから典明くんの表情は見えなかったけれど今度のは楽しいだけの家族旅行ではないのであろうことはなんとなく、わたしにもわかっていた。それは、どうしても行かなければならないことなの?
なんだかとてもいやな予感がした。
目には見えないなにかいやなものが、すぐそこで身をひそめて、じりじりとせまってくるような。いやだ。思わず彼の着ている学生服の袖をにぎりしめた。だけど彼は困ったようにわらって、やんわりとその手をほどいてしまう。大丈夫だよ、帰ってくるよ。やさしいやさしい声だった。

それからしばらく、典明くんとは手紙で連絡を取り合っていた。SPW財団の一員だと名乗るスーツを着た人がニ、三日おきに彼からの手紙を届けにやってきてくれた。エジプトの夜がさむいせいで風邪をひきそうになったことや、こわい夢をみたこと、旅先でであったフランス人の男の人がおもしろいこと。エジプトの姿を丁寧に鮮明に書いた彼からの手紙は読んでいるだけで白くつづく砂の道や活気にあふれた街をわたしに連想させてくれた。典明くん、きっといまとっても楽しいんだね。文面を読んでいるだけでもわかった。
返事は彼からきた手紙の数だけ書いた。封筒がぱんぱんにふくれあがったものを、いつも手紙を届けにやってきてくれるSPW財団の人にあずけるようにした。典明くんの手紙のように綺麗な文章も、たのしい旅行記も書けやしないけれど、楽しかったことや嬉しかったこと、悲しかったことをたくさん書いた。典明くんを心配させないように。

典明くんからの手紙がぱたりととまったのは、突然のことだった。直前の手紙にはそのことについてはなにも書かれてはおらず、ただ、もうすぐですべてが終わりそうだから、日本に帰れるよとあった。けれども彼はいまだに帰ってこないし、手紙もとどかない。
しばらく忘れていたあの嫌な感じが近づいてくる音が聞こえた気がした。どうしようもないくらいに大きなものに阻まれてしまって、それから二度と会えなくなる。はっとした。どうして今まで気づかなかったのだろう。その嫌な感じは、もうすぐそこまで来ていたというのに。女の子たちの黄色い声援の中心には、最近まで学校に来ていなかった空条くんがいた。そして、わたしの目の前に。ひどく深妙な顔をしてわたしを見るその光景は、愛の大告白の寸前に見えないこともない。実際、まわりにいる女子のほとんどはそうだと勘違いしてわたしのことを睨んでいたと思う。

「約束を守れなくてすまない、だとよ。たしかに伝えたぜ」

それが最後だった。いままでわたしの体にまとわりついていた嫌な感じが、感じですらなくなってゆく。ひとつの真実になってしまうのだと。彼がいなくなって、わたしのまわりはうんと静かになった。もっとお行儀よくしなさいだとか、宿題はやったのかだとか、わたしのお母さんみたいに口うるさい彼は、二度目のエジプト旅行に行った。それで、約束をしたのに、帰ってこない。もう十分だった。

「……泣いてんのか、あんた」
「おこってるの」

守れないなら、最初から約束はしちゃダメだよって、むかし、わたしに言ったくせに。

「なら、その怒りは直接本人にぶつけるんだな。まだ面会できる状態じゃあねえが」
「……え?」
「花京院が入院してる病院の住所だ」

空条くんがさしだしたメモには綺麗な文字で病院の名前とその住所が記されていた。典明くんだ。典明くんの、字だ。今まででてくるタイミングを逃していた涙が、どっとあふれだしてインクの文字をにじませていく。帰ってきた。彼は、帰ってきたのだ。

面会はできないが、電話ならいいと言われたので病院に電話をかけることにした。ふう。ダイヤルをまわすわたしの手は、ふるえていたと思う。

「もしもし」
「も、もしもしっ……」

典明くんの声がした。あたりまえだけど、典明くんの声がしたのだ。いつものあの、おちついた声。お行儀悪いだろって、宿題やってからだろって言う、あの声。典明くん。ぼろぼろとこぼれる涙をセーラー服の袖でぬぐい、鼻声になりながら彼の名前を呼ぶ。

「典明くん、あいたい」
「いまはまだ駄目かな」
「でも、怪我はほとんど治ってるんだって空条くんが言ってた。面会しないのは、典明くんの意思でやってることなんだって、」
「うん」
「なんで?わたし、また典明くんを困らせることしちゃった?それともなにか怒ってるの?」
「ううん、ちがうんだ。ただ、こわいだけだ」

受話器ごしの声はすこし、ふるえていたと思う。

「変わってしまった僕の姿でナマエと会うのが、こわいんだ。体のあちこちに残った傷の跡は君をこわがらせてしまうかもしれない。顔にだって傷はあるし、ひょっとしたら、君の目には僕が別人にうつってしまうかも」
「なにばかなこといってるの、そんなこと、」
「見えないんだ」


「エジプトで受けた傷のせいで視力が低下してしまって、会ったって、きみの顔はほとんど見えない」
「……」

典明くんの言っていることが素直にあたまに入ってこなかった。エジプトで受けた傷って、どうして、そんなにも大きな傷をただの旅行で負わなければいけなかったのだろう。わたしの顔が、見えない。そんなのってない。どうしてどうして。悪い冗談なのだと思いたかったけれど、きっとそうしてしまうと彼のことを傷つけてしまう。だっていちばんつらいのは典明くんなのに。典明くんのはずなのに。

「あいたい」

セーラー服の袖でふたつなんかでは足りそうになかった。

「わたし、あいたい」
「ほんとうに?僕にはきみが、見えないんだよ?」
「だってもう、手紙はいやだ。もう待ちたくなんかない。もっと話したい、顔をみたい、おかえりって、言いたい」

典明くんのいない日々は静かで楽ちんだったのに、いつもなにか物足りなかった。いつもそばにいてくれたのが懐かしいくらい、典明くんを遠くに感じて、もう会えないのかもしれないとまで考えさせられた。

「うん、わかった。でももうすこしだけ待っていてほしいな。もうすぐで、退院できそうだから」

やっぱり僕の方から会いに行きたいんだ。約束したからね。もう声はふるえていなかった。だいすきだよ、典明くん。会ったらいちばんに伝えようとおもう。
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