おとうさまゆずりの丁寧なつくりのその顔が、喜びにほころんだり悲しみにゆがんだところを見たことがなかった。はじめてわたしがこの屋敷へやってきたときも、わたしに対してなにも言ってこなかったし、なんの感情も見せなかった。おとうさまのひざの丈ほどの身長しかなかった幼いわたしを無表情に見下ろしす彼にはおとうさまとはまた別の、なにか冷たいものがいつも存在していた。冷たい。この屋敷で暮らしているひとはみんな、どこかが冷えきってしまっている。
「はるの」
「…………」
「トイレ、どこ」
「あっちです」
はるのの道案内はいつも間違っている。はるのが右といえば実際には左にあるし、あっちといえばこっちにある。わざとあべこべを言ったり、あえて遠回りな道のりを言ったり、幼いわたしが理解できないのをわかっていて東西南北を使って説明をしてきたときもあった。自分が歓迎されていないというのを子供ながらに悟っていたわたしは、なるべくまわりの大人に迷惑をかけずに生きねばならないと、わずか6歳で決心をさせられる。けれどちいさなわたしにはお城のように広い屋敷のつくりを覚えるなんてとてもできない。結局ひとを頼らねば生きてはいけなかったのだ。

わたしの8歳の誕生日の夜、はるのは屋敷に帰ってこなかった。はるのが夜中になっても帰ってこないというのははじめてのことだったので、テレンスさんは大層心配していた。綺麗に切り分けられたケーキにラップをして腐ってしまわないよう冷蔵庫に保管する。不安がるテレンスさんとは逆に、わたしははるのが屋敷にいないということにひどく安堵していた。あの目は苦手だ。なにを考えているのかわからない、冷たい目に見下ろされると逃げ出したくなる。おとうさまは頬杖をついて、女でもできたのだろうと言ってケーキを口にふくんだ。いちごはわたしにゆずってくださった。はるののことは、たいして気にしていないようだった。翌朝はるのは帰ってきたがそれ以来外泊することが増え、屋敷で顔を見ることはほとんどなくなった。それに加えて、こわそうな大人のひとと街で一緒にいるのをよく見るようにもなった。はるのと口を聞く回数はあいかわらず少なかったし、話しかけたとしても無視されることが多かったわたしにははるののことはなんにもわからない。
「おとうさま」
眠っているおとうさまの頬をぺちぺちとたたくと、目をすうーっと細めておとうさまはこちらをむいた。嫌なことがあるとおとうさまの寝室に逃げるのは当時のわたしの癖だったようで、なにかあるたびにおとうさまの寝室に逃げ込んでいたらしい。
「ナマエか……どうした」
おおきな体をまるめ、わたしの目線にあわせてゆっくりと話しかけてくださるおとうさまの髪に残っている寝癖をてぐしでなおしてやる。
「はるのはわたしのことが嫌いだよね」
そう言ったわたしの顔をおとうさまはまじまじと見つめたあと、顎に手をあて、うーむとちいさく唸った。
「どうしてそう思うのだ?」
心底理解に苦しむ顔をしてそう言われた。
「だって、はるのはわたしに意地悪をするから」
「そ、そうか……。ナマエはあいつが嫌いか?」
「嫌いじゃないよ、でも、ちょっとこわい……」
「私はどうだ」
「おとうさまのことは大好きだよ」
「そうか、ナマエは私よりハルノのほうがこわいか」
なにが可笑しかったのか、おとうさまは肩をふるわせて笑いをこらえていた。
「おまえを困らせた罰として、ハルノには私からきつく言っておいてやろう」


その日をさかいに、はるののわたしに対する態度がすこしずつではあるが改善のきざしが見えはじめた。友好的になったわけでは決してないが、無視をされたり、いじわるをされることはなくなった。無表情なのは相変わらずだけれど、それも以前のように恐くは感じない。
「あした、僕はこの屋敷をでていくもりです」
それはあまりに唐突な告白だった。くすむということを知らないぴかぴかの窓から、ぽかりと欠けたお月さまを眺めながら、はるのは言葉をこぼす。金色の月光をあびているはるのはなんだかこわいくらいに幻想的で、人間じゃないみたいだった。ひんやりとした、なにかとても恐ろしいものがわたしの背中をつたったのを感じて、息をのむ。はるのがいつも、どこか遠くに行きたがっていたのは知っていた。もう二度と会えなくなるんだろうなと、わたしの直感は案外冷静に仕事をしていた。もう手がとどかないほど、遠くに行ってしまう。このあいだ街で見かけた、はるののまわりにいたこわそうな大人たちの顔が脳裏をよぎる。はるのの服の裾をにぎると、彼はいつもの鉄仮面を脱ぐようにきょとんと目をまあるくしていた。まじまじとわたしの顔を覗き込む彼の、表情筋が仕事しているのをはじめて見た。
「一緒にきますか?」
この屋敷の誰よりもわたしを疎ましがっていた男の言うべき台詞なんかではなかった。はるのの考えることは何歳になってもわからない。さしだされた手をとったら、一体わたしはどうなってしまうのだろう。





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