バレンタイン



 変な空気だ。冬に入ってからというもの、街が妙に浮き足立っている。
 クリスマスは過ぎ、正月も終わった。絢爛豪華な装飾が片付けられた後は、何故か赤やピンクのハートが現れ、春節を祝うにしては安っぽくなったショッピングモールに眉を顰める。

「──バレンタイン?」
「本当に、日本人ってイベントが好きよね」

 潤はそう言いながらも嬉しそうに、不可解に首を傾げる蓮へ上品な箱を渡した。中身は有名なショコラティエが作った限定チョコレートらしい。
 日本流バレンタイン。それは一年に一度、大切な人に日頃の感謝や愛を込めてチョコレートを贈る特別な日らしい。人目に触れない山奥で、厳しく育てられてきた道家姉弟にとっては初めて知る文化であった。
 本当になんとなく、気が向いただけだが、蓮は誰かにチョコレートを贈りたくなって、気がつけば商業施設へ足を向けていた。



「遅い!!」

 高校での授業を終えてまっすぐ帰って来たが、何故か家主でも無い少年に玄関先で怒鳴られる。
 彼女が驚いたのはその怒声の音量では無い。全員が出掛けて留守のはずの家に、彼が上がり込んでいたからだ。
 肩に掛けたスクールバッグがずり落ち、一段上の上がり口から見下ろしてくる彼を見開いた目に映す。

「な、なんで蓮が……? 鍵、掛けてたよね?」
「好きな時に来ていいと、キサマの母に渡されている」

 眩い黄金ジャケットの内ポケットから、さも当然のように鍵を取り出す。呑気な母親を今だけは恨んだ。
 少し疲れていた彼女はリビングで一息つく予定があったが、達成されそうに無い。やれやれと息を吐きながら、靴を脱ごうとする彼女に一つの箱が差し出される。
 紫と黒のバイカラーに、黄金の筆記体でブランド名が記された、そこはかとなく高価そうな箱。不思議に思って、再び蓮の顔を見上げると、妙に勝ち誇った顔で笑う彼がいた。

「喜べ。憐れなキサマに、このオレがチョコを恵んでやる」
「チョ、チョコ……」
「今日はこれを貰うと嬉しい日なのだろう? おめでたい国らしい祭りだ」
「あー……、なる、ほど」

 少しズレているような、蓮らしいバレンタインの解釈。そのせいか彼女は素直に喜ばず、ぎこちない笑顔で軽くお礼を言った。定位置からずれた鞄を肘のあたりに下げながら、同じ側の手でそれを受け取る。
 なんだ、面白みのない。
 懇切丁寧な店員が「男性からプレゼントすると大変喜ばれる」と言うから買ったのに。想像していたよりも反応が悪く、蓮は口をへの字に曲げた。
 彼女は妙に余所余所しくローファーを脱いで上がり、蓮をそろりと通り過ぎてリビングへ入ろうとした所で気が付く。

「待て」

 反対側の手に、見慣れぬ大きな紙袋。

「中身は何だ」

 その鋭い質問には、混ざる唸り声がいつもより多く感じた。罰が悪そうな顔をして答えない彼女の代わりに、蓮はそれ引ったくって遠慮なく覗き込む。

 赤、ハート、ピンク、赤、リボン。

 様々な愛の結晶が、ぎっしりと、大量に詰まっていた。手作りもあれば、市販品の駄菓子から高級チョコまで。あれは限定品だ。蓮には分かる。先程まで三時間ばかり、これらの箱と睨み合っていたから。

「キサマ!! 一体どういう事だ!?」

 瞬間湯沸かし器も真っ青になる速さで、蓮の不快指数と怒りが跳ね上がって頂点に達した。耳を塞ぎたくなる怒りに彼女は一歩引き、もごもごと答える。

「どうって……その…………、貰っただけ」
「オレに断りもなく、おめおめ受け取っただと!?」
「とっ、友達からだって! 女の子だよ!」
「全部か?」
「………………まぁ、ほとんど」

 逃げるように目線を逸らした彼女のせいで、蓮の中で何かが切れた。

「誰に、何を言われた?」
「……ど、同級生に、『付き合ってくれ』、と」

 彼女が人気者である事は知っている。抜きん出た容姿を持つわけじゃ無いが、誰に対しても公平で、少しの事では動じない強さが、同世代にとっては頼もしい存在になっているのだろう。
 それは異性も例外ではない。この腑抜けたイベントに乗じて、誰かに好意を伝えられる可能性だってゼロではなかった。

「帰る」

 蓮は紙袋を適当に床へ置き、彼女に渡した箱を乱暴に奪うと、足早に玄関を降りた。慌てて引き留めようとした彼女の手を振り払い、雑に革靴へ足を突っ込む。

「ごめんって! 告白は断った! れ、蓮さんの本命チョコ、受け取りたいなあ……?」
「そんなにあれば充分だろう。邪魔をした」
「蓮のが良い! 蓮だけで良い!」
「持ち帰らなければ信じたがな」

 子供のように喚く彼女を、今は可愛いとは思えない。
 知っている。
 彼女が他人の気持ちを無碍にせず、誰に対しても正面から向き合う優しく強い心の持ち主なのだと。だからこそ、想いが籠ったプレゼントを棄てる事など出来ないのだ。
 ただそれが、蓮にとっては非常に面白くないだけである。
 その感情を抑え込む冷静さも、他の存在を気にしない余裕さも、彼女が関わると不思議と失ってしまう。器量が狭い男である事は自覚していた。

「はぁ…………、分かった」

 蓮の腕を必死に引いていた彼女が、緩やかに離れる。ハッとして振り向いた時にはもう、すっかり肩を落としてリビングへ入っていく後ろ姿だけであった。
 アイツが悪い。
 何度もそう唱えて、自分が傷つかない理由を作る。

「このオレが……、折角選んでやったというのに」

 自分の贈り物も、あの有象無象と同じようにされるのかと思うと許せない。今すぐ扉を壊して出て行ってやろうとするが、素直じゃない足は固まったように動かなかった。

「蓮」

 求めていた気配は、思っていたよりすぐに帰ってきた。
 彼女の温かな声に、怒りと悲しみで硬くなった体が少しだけ柔らかさを取り戻す。ゆっくりと振り返れば、眉を下げて弱々しく笑う彼女がいた。
 手に持った皿には、大きなチョコレートタルト。濃厚そうな色味が出ているが、所々波打っていたりと少々不恰好である。ということは、つまり──。

「あげるのは蓮だけだからさ、これで仲直りできない?」

 へにゃりと笑うマヌケ面は、卑怯だ。
 毒気を吹き飛ばされてしまった蓮は、渋々、嬉しそうに、革靴を脱いで彼女と並び、偉そうに「茶を用意しろ」と命令した。



240214


  

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