帰りたい。
そういう当たり前の感情――帰巣本能は――彼らにはないのだろうか。
たとえば回遊魚。
彼は幼い頃から戦奴として拘束されていて、親の顔も知らないらしい。両親共に戦奴で、彼の自我が育ち切らないうちに死んでしまった。家という家もない。奴隷にそんなものはないからだ。あるのは主人と、その主人から活動を許されたテリトリーだけ。彼で言うところの《*+α》――それだけがテリトリーだった。だから家などありはしない。帰る場所がない。《*+α》から逃げ出したというのだからそこは帰りたい場所じゃない。つまり魚は“帰りたい”という感情が欠落している。彼に帰巣本能はない。
たとえば緑川萵苣。
彼は、魚と比べれば、さほど過酷な身の上ではなかっただろう。生まれや環境で他人の幸・不幸を推し量るのは間違っているし、あたしの知らないところや知るべきでないところで、彼が身も切れるような悲しい思いをしてきただろうことはわかっている。人間生きていれば何かしらの恥辱や困難や陰欝には触れてしまうものだし、それを取って捨てることなどしちゃいけない。しかし、やはりというべきか、萵苣本人に問い尋ねても自分の過去を歎くようなことはないだろう。むしろ前向きなものとして捉えるに違いない。落ちこぼれだったと卑屈めいた言い回しをしているが、紫雲母茄子や翠原甘藍、碧伊屋韮という学友もいる。彼、彼女らと過ごした時間は、萵苣にとって掛け替えのないものに違いない。赤果実林檎という禁断の果肉を食べてしまった――その事実から、事実から生まれた状況から、彼は逃げ出したわけだけれど。その事件は薄暗い死を抱えながらもご都合主義よろしく結末を迎えた。結局は空回った劇しい恋の暴挙であることは一目瞭然で、そして萵苣は今も、紫雲母茄子の恋心から逃げている。彼にとって紫雲母茄子は――畑仲間は、友であり家族であり帰る場所であるはずなのに。彼はその家族といることよりも、あたし達といることを選んだ。あやふやにして逃げ続けてはいるけど、そのことだけは変わらない。彼は帰らない。家出でもしてるみたいに、帰らない。帰りたいという感情があるのかないのかは別として、未だ時期ではないというのだろうか。帰巣本能は薄い。


では、あたしは?


花瓶硝子は、どうなのだろう。未だ二人のように人生の決着をつけておらず、ずっとずっと逃げ続けているあたしはどうなのだろう。帰巣本能があるかどうかは、実はよくわからない。二人のように、帰らなくても寂しくない、と――そんな気丈なことを言えるかどうか、痩せ我慢になってしまうかどうか、曖昧であるとしか返せないのが本音だ。
ああ、でも――よくよく考えてみる――もしかしたらあたしは、逃げているわけではないのよね。
何故なら。
あたしは。
“あと三日でいい”んだもの。


「いっつもこうだよなあ」


ヘリコプターのコックピットの中は割と快適だった。それなりに羽音が響くものの、見慣れない機材があしらわれた無機質な壁面は未知の環境への好奇心を擽るには十分すぎる。ただ一人、見慣れたもののように軽くあしらう萵苣だけは、呆れたような吐息と共に言葉を吐く。


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