「リンゴくんさあ、確かめるって言ってるけど、どう確かめるつもりなんだよ。一局員がちょっとがんばるだけで見つけられるような真実を、帝国政府がポイポイ転がしてるとは、おねーさん到底思えないんだけどなあ。知恵と勇気と信念で乗り越えられるほど、世の中甘くないよ」 「だけど、僕は、少しでも疑いのあるものを自分の担当するひとに勧めることはできない。そのせいで誰かが不幸になるかもしれないのに、あやふやなままではいられない」 「正義感かい? だったらやめときな。痛い目見るだけだって」 「貴女みたいな適当な人間はそれでいいかもしれませんけど、僕は嫌なんです」 「そうだよー、あたしは適当な人間なんだよー」彼女は鷹揚に、言い聞かせるようにそう言った。「適当な人間の意見を真に受けちゃだめじゃんか。言ったっしょ。若者をからかってるだけなんだって。感化されたなら超メンゴ。正義のためにがんばっちゃおうとか、そんな気さらさらないわ、あたし」 なんだそれ。 そのとき、彼女のあまりの身勝手さに僕は軽蔑しようと思ったのだが、これ以上軽蔑のしようがなかったので、できなかった。 結局そこで話は打ち切られ、彼女はカステラと玉露をしこたまおかわりし、程よい時間になったところで「バイバイキン」と帰っていった。 ならば僕一人でやってやる、と息撒いたものの、これまでなんの疑いもなく局員をやってきた僕では、生命誓盟保険の裏側を看破する目力に欠ける。加えて人を動かせるだけの権力もない。もっと言うなら、仕事が忙しすぎてアクションを起こすことさえできない。わずかな隙間時間を見つけても、的確な調査を行えなければただの無駄足だ。警察でもなければ探偵でもない僕に、 やはりあの勘は正しかったのかもしれない。 ただの疑心暗鬼だったとしても、彼女のほうが答えに近い。 さしあたり、ノートパソコンで仕事の続きをしながら、僕はタクシーでの移動の道すがら、携帯端末から彼女に電話をかけていた。彼女の端末の電話番号はいつか亜豆花ちゃんが受け取った電話で逆探知できていた。あらゆる有事に備え、携帯端末情報まで探知を可能にする、局の特殊管理システムをなめてはいけない。というより、それを掌握している亜豆花ちゃんをなめてはいけない。コンプライアンス的にはグレーゾーンだったが、背に腹は代えられなかった。 意外にも僕からの電話に驚かなかった彼女に、爽やかな声音で問いかける。 「艶子さん、今日お暇ですか?」 『そりゃリンゴくんの要件によるねえ』 もしかしたら彼女も警戒しているのかもしれない。いくら適当な人間とはいえ、それぐらいの察知はできるだろう。普段ゆるっゆるな分、案外ガードは固いのかもしれない。 けれど、今日の僕はあの日とは違う―――イニシアティブを勝ち得るのは僕のほうだ。 「前に言ってくれたじゃないですか。プライベートでならお付き合いしていただけるって」 『なに? あたしと友達になりたいって?』 「いけませんか?」 『あざといやつめ。言っとくけど、もうあたしは君のことをからかってあげられないよ』 僕はノートパソコンを閉じ、鞄に入れて、電話を持ちなおす。 「あはは。そう斜に構えないでくださいよ。お土産も用意しましたから」 『……お土産?』 ふっ。食いついたな。 その卑しさを僕は信じていた。 「艶子さんの好みはわからなかったので、いろいろ揃えました。オールド・パー、ホッピー、赤玉の王道から、チョコレートリキュール、至宝三鞭酒、大麻ウォッカのゲテモノまで。お眼鏡に適うものがあればいいんですけど」 『あいやー!』 お気に召したのは明確である。 これだけのお酒を揃えるのに、決して高くはない金を払ったが、元々貯めていても使いどころがないのだ、あまり惜しくはなかった。普通のサラリーマンをやっていたら、趣味にでも注ぎこんだかもしれないが、現実、僕は、地獄の三丁目もとい、生命誓盟保険部に属する、多忙の公務員である。賄賂や接待やご機嫌取りに使うほうがよっぽど 足元に置いたキャスター付きのクーラーボックスを、数回蹴り小突いた。 「それでも、艶子さんが僕を嫌うのなら、しょうがないですね。残念です」引き際を弁えているような口調で、僕は続ける。「しつこい男にだけはなりたくないので、潔く諦めますよ。二度と電話もいたしません。これまでありがとうございました。さようなら」 『待ちなされ』彼女は神妙な声で言った。『リンゴくん……君は、あたしが友達の気持ちを無下にするような女に見えるか? 世界平和とは、人類愛とは、身近な人間に与えるほんの少しの優しさから始まるのだ! 君の誠意はしかと、しかと受け取った……ぜひ我が家に来なさい! その土産を友情の証とし、これから仲良くすることを誓おう!』 「うわあ、嬉しいです」 その卑しさが。 「そう言ってくれると思っていたので、もう来ちゃってるんですよ」 『は?』 僕は一方的に電話を切った。局からここまで送ってくれた運転手に料金を支払ったあと、僕は鞄とクーラーボックスを持ち、タクシーを出る。 目の前にはいつかの通夜小路邸。見るからに金持ちの住んでいそうな、ハイソでモダンな日本家屋だ。馬酔木の青い葉がさらさらと風に揺れている。たしか万葉集に馬酔木の出てくる切ない歌があったはずだ。いっそう趣深く感じられて、僕はわざとらしくしみじみとした。屋敷の中からは、相変わらず美しい鹿威しの音が、清らかな水音の合間に聞こえてくる。 そこへ、奥からどたばたと無作法な足音が鳴った。こちらに近づいてくる。数秒後、ガラガラガラッと引き戸が開き、裸足のままの艶子さんが出てきた。 「こんにちは」 僕がにっこりと微笑んでと言うと、彼女はぽかんとした表情で「まじでいるし」と呟いた。 寝起きさながらの蓬頭に、撫子柄のジャージ。さすがに家ではサングラスをつけないのだろう、今日は可憐な 「お出迎えご苦労さまです。立ち話もなんなので、あがらせてもらってもいいですよね?」 「控えめに言ってウケる」彼女は口角を引き攣らせるように笑った。「意外と強引なのね、リンゴくん。ふふふ。よい、よかろう、少年。あたし、そういうのも好きよ」 また少年って言うし。ずっと思っていたけど、このひと、僕が社会人であることを忘れているんじゃないだろうか。このひとの中で、僕っていったい何歳なんだ? 「門、開けてあげる。おあがりになって」 冗談めかして淑やかに振る舞う彼女に、僕は「失礼します」と言い、あがらせてもらう。 彼女は玄関口ではなく、庭のほうを通り、縁側へと僕を案内した。縁側なんて牧歌的なもの、とんと見覚えのない僕は、少しだけその空間にときめいてしまった。腰かけるように言った彼女は「お土産ってそれ?」とへらへらした笑顔で聞いてきた。指差されたクーラーボックスを素直に差しだすと、彼女は前に来たときと同じように、「お茶淹れてくる! もちろんタダだよ!」と走って行った。ずっと思っていたが、そのおかしな口ぶり、お茶を出されて料金の発生した経験でもあるのだろうか。 「お待たせ。ごめん。お茶っ葉切れてた。お湯だけでいい?」 厨から帰ってきた彼女は本当に湯呑にお湯だけを入れて持ってきた。もてなす気がなさすぎる。なのに、自分はちゃっかりクーラーボックスから赤玉パンチを取りだして、デカンタの容器の蓋を開けていた。本当に、なんて、卑しいんだ……。 「まあ……急に押しかけてきたのは僕のほうなので、わがままは言いませんよ」 「かたじけない」 「でも、さすがに熱湯のままはちょっと……氷もらってもいいですか?」 「ごめん。取りに行くのめんどくさいからフーフーして飲んでちょ」 こ、こいつ。 持ってきたグラスに赤玉パンチを注ぐ彼女を見ながら、僕は言われた通り、お湯の入った湯呑を吐息で冷ましながら飲んだ。くそう。これを彼女にぶちまける勇気があったなら。 「それで、えーと」僕の悪意に気づいたわけでもなさそうな彼女が、それでも少し眉を下げ、困ったように口を開いた。「お仕事は大丈夫なのかね」 「ひとまず全部終わらせてきましたよ。でも、まあ、あと数時間も経てば新しい仕事が降りてくるはずです。それまでが華ですよ」 「ブラックだもんな、君んとこ」彼女はグラスに口をつける。「戦後すぐの日ノ本大帝国民だって君ほど働いてはおらんだろ。普通、公務員って税金泥棒扱いされるもんだけど、君には全然言えないもん。むしろ君ら労働泥棒されてんだもん。もっと強欲に休めよ」 「艶子さんは休みすぎですよ。労働者の爪の垢でも煎じてその赤玉パンチと一緒に飲んだらどうですか?」 「手厳しいねえ。だがね、リンゴくんや。ご覧じろ、この通夜小路邸!」 縁側に座ったまま、彼女は空気の背凭れにふんぞり返り、腹立たしい笑みを浮かべた。バックには大きな屋敷、はしたないほど薫る金品調度品、そして、タイミングよく鳴る鹿威し。 「このブルジョアをつかまえて言うことかね!」 「働かざる者食うべからずって言葉知ってます?」 「新約聖書の見え透いたプロパガンダに屈するあたしではないわ!」 赤玉パンチの入ったグラスを掲げて彼女は高笑いした。 彼女はそのままグイッと飲み干して、空になったグラスを脇に置く。 MODORU | 2 / 5 | SUSUMU |