エピローグ にはまだ早い話 1/1



 にまにまと緩む口元を抑えられない。嬉しさに目を輝かせながら、アイオネは絵の具と筆を革の鞄に片していった。今にも踊りだしそうなその様子を見ていたハロルドが苦笑気味に声をかける。
「よかったね」
「当ったり前だろ」
 上機嫌を隠しもしないアイオネは、にっと笑って答えた。
 世間で言う大魔女騒動――アイオネからしてみればヒストリカ失踪事件――から数日。
 アイオネの描いた小さな絵が、大きな幸福をもたらした。
 ハロルドの営む施療院の壁のあちこちにアイオネの絵は飾られている。それは絵画というには随分とお粗末で、味気ない壁に遊び心を付け足す程度の意味しかなく、けれど、訪れた患者の心を確実に温めるような、そんなささやかな芸術だった。その絵のことは口から口へ慎ましく伝わり、ただ絵を見るだけに客が現れることもあった。知る人ぞ知る小さな絵画、という枠に収まったその絵は、ある日大きな種へと姿を変えたのだ。
 芽吹かせた花は一人の男。
 最近ギャラリーを作ったらしい、小さな画商のオーナーだ。
 ちょうど風邪っぴきの娘の付き添いに来ていた彼は、壁に飾られたアイオネの絵に一目惚れしたらしく、ぜひともうちで預かりたいと申し出た。一般大衆向けに絵を販売しており、もう若手画家の何人かと専属契約を結んでいるのだとか。アイオネの興味を強く引いた。まだそう発展もしておらず、小さな画商であるが、そのため特に制約もない。しばらくは自由行動を許してもらえるし、ヒストリカに唆された道端創作活動も推奨してくれた。ならばこれに乗らない手はないと、アイオネはその画商と仮契約を結ぶことにしたのだ。
「それで? 預ける絵は完成したの?」
「これで最後だ」さっきまで取り組んでいた、折り畳み式のイーゼルにかけられていた絵を顎で指す。「初めて画廊に置いてもらえるんだ。かなり熱を入れちまったな」
 描かれていたのは空に向かってしゃぼん玉を吹かす少年少女たち。
 ハロルドはそれを見て「いい絵だね」と微笑んだ。
 近々オークションカタログを発行するのでそれに間に合うようにと絵を数枚頼まれていた。ほとんど寝ることなくアイオネは取りかかり、ついさきほど最後の一枚を完成させた。やっと一息つけるだろうとハロルドが安心したのも束の間、アイオネは「さあ、次だ」と完成した絵を置いて、新たに組んでいたキャンバスを掴む。
「え? まだ描くの?」
「売りこみ用にな。美人の母親を持つ剛胆なリトルレディが知り合いにいるんだが、どうやら家がパン屋らしい。そこの壁にどうだと少し前に交渉したんだ」
「はーあ、働くねえ。そのうちぶっ倒れるんじゃないの?」
「だとしたら果報者だ。それに、もしそうなっても、手は動いている自信がある」
「そんな自信はごみ箱にでも捨てておくといい。医者からの忠告だよ」
 肩を竦めながらハロルドは言い、カウンターの奥のキッチンに引っこんだ。
 本格的に始動し始めたアイオネの道端創作活動だが、その進行は困難を極めた。いくら芸術が盛んになったとはいえ、許されることと許されないこともある。そして、それは場所によりけりだった――条例は、町によって違うのだ。
 花と芸術の都では地面に絵を描く横暴も許されたが、ここ騙し絵の町では軽い罪に相当する。町中に騙し絵が描かれているからと言って無作法なわけではない。むしろその景観を崩すような行為を全面的に禁止している。その他にも、勝手に物を売買するのを禁じている区域も存在する。あらかじめ調べてからでないと絵を持って回ることができなかった。
 アイオネはその逆境にもめげず、小さな店や孤児院、一般家庭に、格安で絵を売って回っていた。押し売りでは印象も悪いのであくでも低姿勢で。相手のご機嫌を伺いながら好印象を保たせることなど、裕福な家で大人の社交場を十分に経験していたアイオネには朝飯前だった。結果、それなりの人間が顔を綻ばせながらアイオネの絵を買ってくれた。時には無償で渡すこともあり、材料費などを考えれば赤字もいいところではあるが。
「まあいい方向に進んでいるとは思うよ? 施療院内でも話題に上がってたし」
 アイオネは笑顔でパレットに絵の具を落とす。ペインティングナイフを鞄から探していたときに、リビングの扉が開いた。入ってきた顔に、ハロルドは微笑みを投げる。
「やあ、ヒストリカ。陣の算出は順調?」
「少し行き詰まったところかな。珈琲コーヒーをもらってもいいかい?」
「砂糖は一つだよね。ちょっと待ってて」
 鮮やかな金髪ブロンドを適当に結び、きっちりとケープを纏ったヒストリカが、気だるげにソファーに座った。ケープの中の体のシルエットは大仰に歪んでいる。おそらく背中に結びつけている魔導書と杖のせいだろう。
 アイオネは広げていた道具もそのままに、ヒストリカの前に座った。
「ようお仲間さん。お互い寝不足か」
「君はうっすら隈もできているね。寝たほうがいいんじゃないかい?」
「あんたは相変わらず美しいままだな」
「体質的にね。維持の魔法は、睡眠不足にも作用するみたいだ」
 アイオネは「羨ましいかぎりだぜ」とあくびを漏らした。
 ヒストリカは薄く笑って「アイオネにもなにか温かいものを」とハロルドに言う。
「それで、ヒストリカ。あんたはなにに行き詰まってるんだ?」
「言っても無駄だと思うよ?」ヒストリカは肩を竦めた。「どうしても魔法陣内の均衡がとれないだけ。この魔算は魔法族にしかわからない感覚だと思う。違う方向で迷ってしまったら、そのときは、えーと、よろしく頼むよ」
 その言葉にアイオネは満足した。
 二人の前のテーブルに、珈琲と紅茶が置かれる。ハロルドだった。にこやかに「はーい。お待ちどうさま」と給仕を終わらせ、ヒストリカの隣に腰かけた。
「それで? 結局、裏切りの彼と背徳の彼はどうなったの?」
 ハロルドの問いに、ヒストリカは答える。
「おそらくどこかに潜伏していると思うよ。あのとき負った火傷もひどかったから、どこか静かなところに。この町にいる可能性は低いんじゃないかな。最悪、フランシアにいない可能性もあるだろうね」
「大暴れしたみたいだから噂にもなったしねえ……原因不明の晒し首焼け焦げ事件! 通りには特大の亀裂! 謎の花壇荒らし! おまけに数日後、首が消えた! 首だけでなく死体まで! あーあ、また新しく伝説作っちゃったんじゃない? 大変だなあ、ヒストリカ=オールザヴァリも」
「かまわないさ。あの『名画』のように形あるものが残ったわけじゃない。処刑のときの素描だって大したことないだろうし。私の人生に響かないなら、どうってことないよ。それよりも大事なのが、あの二人を見つけること」
 ヒストリカはまだ悲願を諦めてはいない。女の恨みは執念深いと聞くが、切望もまた強いとアイオネは思う。ただ静かに平和に暮らすことが、ヒストリカの唯一の望みだ。
「できることなら彼らが私を見つけるよりも先にね。奇襲をかけられても対応できる自信はあるけれど、安全ではないから」
「じゃあ、またどこか行くの?」
「そのつもり。ベルギア地方かオランディア地方を目指そうかなって」
「ふうん。元気でね」
「ハロー坊やも」
「だから坊やはやめてってば」
 和やかな会話だったが、聞き捨てならない言葉が聞こえた。アイオネはじっとりとした目をヒストリカに向けながら口を開く。
「出て行くのか」
「出て行くもなにも、ここは私の家ではないよ」
「交渉はどうなった」
「交渉とは?」
「俺があんたを描くという話だ。途中で勝手に反故にしただろ。俺は忘れてないからな」
ヒストリカは「まだ続けるつもりなんだね」と嘆息した。
「当たり前だ。俺が外に絵を出さないかぎり、絵を描くのを許す約束だ」
「そのあと、代わりに私の悲願を叶えると言った。けれど、それは果たされなかった。契約は不履行につき破棄だよ」
「だったら俺を連れて行け」アイオネは強く言った。「俺の夢も、あんたの悲願も、まとめて一緒に叶えてやろう。俺がいればなにかと便利なのは今回の件でわかっただろ? 悪い話じゃあない。どうだ」
「そうだね。悪くない」
 ヒストリカは微笑んだ。
 アイオネはその返答に呆気にとられる。
「とても魅力的な話だよ。ぜひとも君の手を取りたい」
 いままでにないような返答だった――が、喜ぶのはまだ早い。
 相手はあのヒストリカなのだ。
 ここで終わるはずなど、あるわけがなかった。
「だがね、その提案は降りさせてもらうよ。やっぱり一人のほうが動きやすいし。君についてこられると、いろいろ気を揉んでしまうからね」
 穏やかにそう言うヒストリカは、珈琲に一口つける。
 釈然としない。納得がいかない。むすっとしたまま、アイオネも紅茶のカップを手に取った。
 一服してから再び物申してやろうと口をつけるも、それをすぐに後悔する。顔を顰めた。アイオネの落ち度だ。もっと早くに気づいておくべきだった。いつまでも経っても昼食が出てこないわけを。ヒストリカが自分のために紅茶を頼んだわけを。
 飲みこんだ苦味に顔を顰めたアイオネを、ヒストリカとハロルドは楽しげな笑顔で見つめている。お行儀よく並んだ同じ表情に、本物の姉弟のようだとアイオネは思った。
「……また、盛ったな」
 こらえきれなかったハロルドが「ぷひょっ」と噴きだした。そこからさらに破顔を進めて、唇はにんまりと弧を描く。アイオネの苛立ちを煽る顔だ。
「おかしいくらい引っかかるねえ、君も! 絵の具はもう片づけておいたほうがいいよ。今回改良してけっこう早めに効くようになってるから」
「小賢しい真似をするな!」
 アイオネとハロルドが口論になる中、ヒストリカは立ち上がる。あらかじめ用意していたリックの覆面を被った。金髪碧眼の美少女から、醜いせむしの少年へと姿を変える。
 その姿には似合わない可憐な声が穏やかに鳴った。
「じゃあまたね、アイオネ」
 ヒストリカはそのまま去っていった。
 憎らしそうに頭を押さえてアイオネはその背中を見送る。結局はこうなってしまうのかとアイオネは唸った。もうどれだけ待ってもヒストリカはここには戻らないだろう。この部屋に入った時点で、彼女はここを出る準備を完了させていた。
 ヒストリカがいなくなった分のスペースを広々と使うハロルドは、呆れ気味に言った。
「懲りないよねえ。もうヒストリカがどういう人間かはわかっているはずだろうに。素直に君を連れて行くと、そう本気で思ってたのかい?」
「ヒストリカに手を貸したお前が言うな、ハロルド」
「ごめんごめん。でも、君なら解毒薬だって作れるんじゃないの?」
 ハロルドはなんでもないように言ったが、勘弁してほしいというのがアイオネの本心だ。
 アイオネとて万能ではない。あくまで自分はしがない画家で、魔法使いや錬金術師とは一線を画す。実家が錬金術に造詣が深いといっても、アイオネ自身のそれは予備知識程度でしかない。そうほいほいと簡単に解毒薬など作れやしないのだ。
「くそ。なんなんだ……最初に取引で騙くらかしたことへのあてつけか……?」
 そう呻くアイオネに、ハロルドはにんまりと怪しく笑った。
「君も青いね。名前と同じようにかわいらしいよ」
「……ばかにしてるのか?」
「そうかもね。まさか君は、僕が本当に口を滑らせただけだとでも思っていたのかい?」
 その言葉にアイオネは目を見開いた。呆気に取られて口までぽかんとさせている。
「な……は? お前、まさか、ありゃ演技か?」
「うーん、まあ。八割くらいはね」
「八割も?」アイオネの声は焦りを含む。「しかし、なんでまた、あんな騙されたふりを?」
 ハロルドがあの安っぽい挑発に、煽りに、どうして乗っかったのか。その意図が全く掴めない。ハロルドはヒストリカの一番の味方のはずなのに。
「大した理由はないよ。君といるほうが、ヒストリカの有益になると思ったから」呆けるアイオネにハロルドは笑いかける。「言ったろう? 僕はこれでも彼女に尽くしているんだよ」
――伊達にヒストリカと長年懇意にしている血族の人間ではない、ということか。
 御しやすいと思っていた人間が案外奥深いと知り、アイオネの表情は苦みを帯びる。
「わざと俺に情報を流すとは、お前もやるな。ヒストリカには絶対言うなよ。人間不信をさらにこじらせるぞ」
「君に言われたくはないよね。まだ完全に薬が効く時間じゃないはずだ。今ならまだ動けたはずなのに、どうしてヒストリカを追わないの? まさかとは思うけど諦めちゃった?」
 ハロルドの言う通り、まだアイオネの体調は崩れていない。
 それでも追いかけなかったことには、ちゃんとした理由があった。
 アイオネは懐から紙を取りだす。
 なんでもないような顔でそれを広げ、ハロルドに見せつけた。
「リック=ヴァリーの似顔絵だ。上手く描けてるだろ?」
 ある程度を予想していたハロルドだが、呆れたように「いつの間に……」と呟いた。
「そっちがその気なら、よろしい、存分に歩き回ればいいさ。こっちも聞き回るのが楽しみだよ。なんせ頭巾フードもなしにあの姿だ。せむしの醜い少年なんざ、十人いたら十人が覚えてる」
 やられっぱなしで終わるほどアイオネは甘くない。小さな隙を見て、リックの覆面を素描していた。おそらくヒストリカは気づいていないだろう。気づいていたらもっと確実な方法でアイオネを突き放したはずだ。つまり今回は、アイオネの勝ちである。
「……前言撤回。君は懲りて、さらにしたたかになったな」
「俺の情熱を侮ることなかれ」アイオネは歯を見せて笑った。「会ったら、ヒストリカにも言ってやらなきゃな」
 アイオネがそっと窓の外を見ると、ちょうど向かいの家の窓から、豪雨が落とされたところだった。情けないことに、時代はいい方向に進んでいるが、残念ながら世の中は美しくない。相変わらずくそったれの世界だ。けれど、幸運にも、芸術と錬金術は最盛期を迎えている。そんないまを、きっと誰かが待っていた。叶えるには絶好の機会。画家と魔女が望みを共にする、そのいまを。

「おっと頭痛と眩暈がしてきた……ハロルド、ベッドを借りる。ちょうど気分も悪くなってきたから吐く用の桶も頼ん…………おえっ」



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