名無しの画家の知恵と約束 8/8



 それはザッカリーとて同じことで、訝しそうにドリスタンを見つめる。
「理由を聞かせろ」
「彼は巻きこまれたにすぎないただの人間だ。こんなところで悪夢を見せつけなくてもいい。君は容赦がないが、俺としては、罪なき若者をここで散らすのは、あまりにも惜しく、可哀想だと思うよ。どうせ賢いだけで無力な人間だ」嘲笑うようにヒストリカを見遣った。「彼なんかじゃかなわない」
 ザッカリーが呪文を唱えると、アイオネの上に跨っていた陶磁器質の狼は、霧のように消えていった。わけもわからず立ち上がるアイオネに、ドリスタンは囁く。
「君は逃げてもいいよ」
「…………」
「助けてやると言ってるのさ。手は出さないから、このまま彼女を見捨ててお帰り」
 ドリスタンはポケットから一本のペンを取りだし、アイオネに向かって投げた。
 それは間違いなく、失くしたはずのアイオネのペンだった。
 まさか本当に持っているとは思わなかったそれに、アイオネの手は冷たくなる。
 竦みながらアイオネはペンを懐に仕舞う。それだけでドリスタンは愉快そうに顔を歪ませた。
 彼らの考えている通り、アイオネに今の状況を打開する力はない。武術も得意ではないし、魔法だって使えない。無力だ。ヒストリカは何度もそう言っていた。邪魔であると。どうせなんの役にも立たないと。だからこれは自業自得だ。
 道の先、後方でうずくまっていたヒストリカが顔を上げる。
 逃げようとしていた道を辿るように歩きだすアイオネ。甘いシャンパンのような色をした髪が風に乗って去っていくような、そんな情景を思わせた。
 きっとこのまま、アイオネはヒストリカの脇を通りすぎて去っていく。邪魔者がいなくなったあとで、ヒストリカを捕獲すればいい。どうせあの怪我では大した魔法も使えないはずだ。あのすっかり怯えきった表情では、ろくな抵抗もできやしない――そう、ドリスタンは笑みを深くした。
 ヒストリカは浅く息を吐いてアイオネを見上げた。身に纏った傷など、折れた腕など、もうどうでもいいような目。切なげな唇が悲観を紡ごうとしたのを、しゃがみこんだアイオネが人差し指で制止させる。そして低く目線を合わせた。
 その様子を見ていた二人が眉を寄せる。
 アイオネは、竦むふりをして懐から取りだしていた、、、、、、、、、、、、、、、、、瓶の蓋を開け、ヒストリカに囁く。
「俺を信じてこれであいつらを襲え」
 舌打ちしたザッカリーが魔法を唱えようとするよりも早く、ヒストリカは杖を振るった。
意のままに動けアクタスミミンド!」
 瓶に入っていた液体が芸術的な流星を描き、ヒストリカの指揮下の元、宙を裂くように駆け抜ける。攻撃しようとしていたザッカリーはそれを見て口を閉ざす。自分たちに向かってきた流水の槍に向かい、杖を向けた。
57℃まで上昇せよガインヒート・フィフティセヴェン
 狙い通り、その槍は水へと還る――はずだった。
 しかし、その液体は魔法と一緒に蒸発し、気体となって二人の周囲に漂う。
 その反応を見たドリスタンは顔を強張らせた。
「だめだ、ザッカリー、逃げよう!」
「ヒストリカ! 火を放て!」
 アイオネの言葉に従い、ヒストリカは火の魔法を二人に向けて放つ。それはただの小さな火の矢のような魔法。けれど、二人の周囲に近づいた途端、驚くほどの熱飛沫を上げた。
 大炎上。
 爆発したような炎の海が広がり、逃げ遅れたザッカリーを焼く。まるで火炙りのようだった。一瞬で火だるまになったその光景に、ヒストリカは目を見開いた。
「くそ! やっぱりアセトンか!」
 早急に気づき、一線から下がっていたドリスタンは、その光景を見て声を荒げる。
 アイオネが持っていた瓶の中身は、絵を描く下地や絵の具、有機溶媒と混和させるために持ち歩いていた、アセトンという液体だ。引火性が高く、扱いに危険な液体で、小さな火にも簡単に反応して、大きな燃焼を生む。そしてアセトンの特徴としては、沸点の低さもあげられる。アセトンの沸点は56.5℃――無効化魔法で引き上げられる温度よりも低い。そのために液体ごと蒸発し、気体となった。ドリスタンはその様子で、ヒストリカが操っていた液体の正体に気づいたのだ。
「い、ああ、あ、ああああ! 熱い、あ、あああ熱い! いや、だ! 怖い! 怖い怖いぃぃ、死にたくないいううぁああああああっ、あああああっあああ!」
 火に呑まれるザッカリーは猛烈な叫び声を上げる。必死に生にしがみつく、暗黒に呑まれることを恐れた、亡者のように獰猛で、哀れな姿だった。
 ドリスタンはコートから石を一つ取りだして、火だるまの中に放りこむ。彼特有の特殊な化合石だろう。火に触れて溶けた途端、飛沫を上げていた炎が冷水を浴びたように消える。
 ばたりと倒れこんだ焼け爛れるザッカリー、ドリスタンは抱き上げた。
「一度引こう。その火傷だってすぐ治せる」
 立ち去ろうとする二人を庇うように、陶磁器質の騎士が立ちはだかった。
 ヒストリカは杖を向けてそれを破壊するも、すぐに再生されて騎士を形作る。ヒストリカの呪文は、あの二人には届かない。
 ヒストリカが血を振り払って立ち上がったのと、ドリスタンがコートから出した小さな紙にザッカリーが嗄れ涸れと呪文を唱えたのは、同時のことだった。
Abrakadabra
 まるで紙に吸いこまれるように、二人の体は消える。その紙がぱちんと破裂すると、立ちはだかっていた陶磁器質の騎士もがらがらと崩れていった。白い土埃が宙を舞い、月明かりを浴びてきらきらと光る。
 もうこの場には、あの憎らしい魔法使いと錬金術師はいなくなっていた。
「……逃げられたか」
 ぽつんと呟いたヒストリカは、もう一度地べたに逆戻りした。安堵で力が抜けたのだろう。あれだけの傷を負わせたのだから、しばらくは二人もおとなしくしているに違いない。
「懐から紙を出したように見えたが……ありゃ陣か?」
 アイオネはヒストリカに尋ねる。
「おそらく。緊急避難用に常備していたんだろうね。周到なことだ」
 アイオネはヒストリカのそばにしゃがみこんで言う。
「一つお聞かせ願おう」
「なんなりと」
 アイオネはヒストリカの負傷したほうの腕を指差した。
「その曲がった腕も治るのか?」
「治るけど」
「それは元通り? それとも曲がったままくっつくのか?」
 ヒストリカは少し考えてから「そこまではわからない」と呟く。前例がないのだ。ヒストリカにとっても、自分にかけられた呪文は、他人から施された未知の呪文なのだ。なにがあったときどうなるのか、完全には把握していない。
 アイオネは少し苦い顔をしたが、意を決したふうに口を開く。
「ならば、念のために、骨を元通りの位置までもう一度曲げたておいたほうがいい。自分では怖いだろうから俺が努めさせてもらうが、いいか」
 自分でやろうが誰かにやってもらおうが怖いものは怖い。それにきっととてつもなく痛い。ヒストリカは押し黙ったが、最終的には「頼む」とアイオネに委ねた。腕が見えるようにゆっくりと寝返る。
 そんなヒストリカの上に、アイオネは野蛮にも跨った。ヒストリカは抗議しようとしたが、その瞬間に腕に力をこめられる。曲がったところをさらに曲げられる激痛にヒストリカは歯を食いしばった。じたばたともがくのを見て、やはり拘束のためにも跨っていて正解だとアイオネは思った。責められればそう弁明すればいい。ヒストリカとてこんな痛みは早く終わらせたいだろう。
 ごきっと歪な音が鳴る。ヒストリカの腕はもう曲がっておらず、人間としてあるべき位置にまで戻っていた。
 人間の骨を折るというのは思いのほか重労働で、アイオネもすっかり汗を掻いていた。
 痛みに悶えたヒストリカの肩はまだ荒く震えている。声を出さないよう我慢していたのがさらに祟ったのかもしれない。体力的にもすっかりぼろぼろになったおかげで立ち上がることさえできなかった。
「もう大丈夫だぞ、ヒストリカ」
 アイオネはヒストリカの前髪をさらりと掻き上げる。明るみに出た目元に涙が浮かんでいるのが見えて、一瞬硬直してしまった。痛みに耐えた結果だろうが、罪悪感に顔が歪む。
 そんなアイオネを見て、ヒストリカの頬は力なく腑抜けた。
「ふっ、ふふ、ふうぅぅ」
 痺れたような声でヒストリカは笑う。無理矢理声を出しているように見えた。子供のようにふにゃっと笑いながら、涙をぽろぽろ伝わせていた。
「みす、み、すみ、見捨てられるかと、お、思ったのに」
 その言葉に、さきほどドリスタンと交わしたやりとりのことを、アイオネは思い出した。
 もちろんアイオネにはそんな気などさらさらなかった。自分は無力でも打開策はあると確信していたし、あんなヒストリカを放って自分だけ逃げるなんてとんでもない。
 けれど、ヒストリカはそうは思わないのだ。あの瞬間、どれだけの不安を抱えて、自分を見捨てるかもしれないアイオネのことを見つめていたのか。
 嵌められて、騙られて、見捨てられたら、今度こそ人間不信になるだろうなとアイオネは思った。自分が彼女に手を差し伸べたことを、心から誇りに思えた。
「怖かったよな」アイオネは優しく髪を撫でる。「さっき、俺を信じてくれて、ありがとう」
「……ううん。私も、ありがとう」
 折れていないほうの手首をアイオネは掴んでヒストリカを立ち上がらせる。ふらついた体を支えるように、腰に手を回した。バランスを取り戻したヒストリカにアイオネは呟く。
「あんたの悲願、叶えらんなかったなあ」
「君の夢を壊した罰が当たったのかもね」
「はは、それはざまあみろかもなあ」
「このっ」
「あいてっ」



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