名無しの画家の知恵と約束 4/8



 ヒストリカにもなにか考えがあったのだろう。そのために、姿を眩まし、アイオネの絵で自分そっくりの人形を作り、それを大魔女に見立てて騒動を起こした。もしかするとここ数日彼女が算出していた魔法陣はその具現化のためのものなのかもしれない。そう考えればヒストリカはずっとこの展開を企んでいたことになる。ハロルドにすら言わず。アイオネにも断らず。
 それについてもなにか言ってやりたかったが、アイオネが一番憤っていたのはもっと別の事柄だった。
「嘘つきだ、あんたは」アイオネは眉を顰める。「描く絵が完成するまではそばにいると、出て行かないと言ったくせに」
「…………」
「怒る」
 ヒストリカは頬や目尻から苦笑を拭い取り、ただアイオネをじっと見つめた。
「……あんたの企んでた計画ってのは、そこまでしないといけないものだったのか?」
 ヒストリカの行動は、明らかにアイオネを拒絶したものだった。
 初めから、踏みこませないふしのある人間ではあった。遠慮がちで、疑い深く、突き放すような態度を取り、したたかに強情。冷徹とも思えるような手段で、他人から近づかれることを拒む。けれど、今回はこれまでとは違った。明らかに拒絶し、決別を意識していたように思う。もしもあのときアイオネが石を投げなかったら、ヒストリカは永久に目の前に現れることなどなかっただろう。アイオネは、ヒストリカは死んだと勘違いし、完全に諦めていたはずだ。そして、ヒストリカはそれを狙っていた。
 じっと視線を交わし合ったころ、ヒストリカは口を開く。
「未練を断ち切ってあげようと思って」
 ヒストリカはゆっくりと自分のうなじに手を持っていく。詰襟に指を入れ、杖を引っこ抜いた。美しい銀白の杖が、まっすぐにアイオネへと向けられる。
「私に恋をするのは、これでもうおしまい」
 青い双眸が力強くアイオネを射抜いた。逃げることさえ許さないような空気を、ヒストリカは纏っていた。その威圧感に背筋が湿っぽくなるのを感じながら、アイオネは冷静に返す。
「大きなお世話だ。他人の色恋に口を挟むな」
「挟まずにはいられないんだ。やっぱり若者はかわいいから」
「俺があんたの絵を描いて、あんたを気にかけて、それがそんなに許せないか」
「なんだ、わかってるじゃないか。わかっててやってるなんて、悪い子」
 杖を向けられていることすら些細なことに思えるほど、アイオネは静かな憤りを覚えていた。わけもわからず拒まれる理由も、頑なに変わらない態度も、勝手に終わらせようとする意図も、全てが嫌だった。その全てをああ、そうなんですね≠ニ言って許せるような気持ちでアイオネは絵を描いていたわけじゃない。
「……俺の絵のあんたを、勝手に殺すな」
 ヒストリカはほんの少しだけ顎を上げ、「それだけじゃないよ」とアイオネに告げる。
「君の初恋の相手を殺したのも……名画『大魔女』を消したのも、私」
 言いきったヒストリカに、アイオネの表情は歪んだ。
 そう暗示させるものはこれまでに数多く存在した。美術館に『大魔女』を見に来たはずなのに未練がなかったのも、アイオネに絵を描かせてしまえば元も子もないと言ったのも、きっとそれが理由なのだ。
「だと思った……」
 だから、アイオネは気づいていた。
 ヒストリカはその表情を見て、少しだけ眉を下げた。
 アイオネは頼りない声で「でも、なんで」と呟く。
「……私が生きていくのに、あの子は邪魔だったの」
 アイオネはヒストリカが片手に持つ覆面に目を遣る。
 邪魔だった、の真意をなんとなく理解した。
 ヒストリカは普段、覆面をして外を歩いている――顔を晒して出歩くには、あの絵画、『大魔女』は有名すぎた。誰もが一度はその顔を見たことがあるし、いまは芸術の最盛期、美術館に行ってその絵を目に焼きつけた人間だって少なくない。現にアイオネは、一目で彼女が『大魔女』の少女であるとわかった。あの絵は精巧すぎるのだ。おかげで、彼女は本来の自分の姿で陽の下を歩くことさえできない。
 ならば、その原因を絶ってしまえばいい。
 彼女を有名にしたのが『大魔女』なら、彼女を無名にするのもまた『大魔女』――絵を消して、もう二度と、自分の顔を確かめられなくしてしまえばいいのだ。
 人間には記憶というものも存在するから時間はかかっただろうが、彼女にはその時間がたっぷりある。もう自分の顔を知る者が誰もいなくなった時期、すっかり忘れ去られてしまったころに、覆面を剥ぐつもりだったのだろう。
「いまなんだ。芸術と錬金術の最盛期。時代遅れな魔女裁判が完全に廃れたいまを、私はずっと待っていた。もう二度と、誰にも、私を大魔女とは呼ばせない。私が平和に生きていくためにはあれを消滅させるしかなかったんだよ」
「一枚も残さなかったのか」
「ハロルドも似たようなことを言っていたけど、魔法の特性上それはできないよ。あの魔法は存在を消すのではなく、認識できないようにする魔法なんだ。言ってしまえば視覚異常の類さ。だから、厳密にはまだ『大魔女』は存在する。誰の目にも見えないだけで」
 なら、あの日あの美術館で、アイオネは『大魔女』を目の前にしていたことになる。ただ認識できなかっただけだ。それだけのことが、とてつもなく遠い距離ではあるけれど。
「魔女狩りの時代が終わって、私もようやく大々的に動けるようになったんだ。ご覧よ。私の絵が消えても、君も彼らもそれが魔法であるとはつゆほども思わなかったでしょう? 私がかつて生きた時代は、こんなものじゃなかった。異常だった」
 嵐が来たら魔女のせい。疫病が流行ったら魔女のせい。帽子が落ちても、橋で転んでも、どんな些細なことも全部魔女のせいだと言われるような時代に、ヒストリカは生まれた。
 時代は彼らを許さなかったのだ。ただ怯え、疑い、大仰に騒ぎたて、罪のない者を刑に処し。その闇が、平凡な人生を歩ませたかった魔法使いと魔女に、娘に不老不死の魔法をかけるという所業を促した。そして生まれたのが《大魔女》――ヒストリカ=オールザヴァリ。
「それが絵を消した理由か」
「そうだよ」
「なら、俺をそばに置けない理由はなんだ」
「信用できないから」
 濁すこともなくまっすぐに言ったヒストリカ。
 ここまで強く言われたのは初めてのことだった。
「なにが――なにが『大魔女』に恋をした、だ。私の、虐げられる様子を描いた絵に、一目惚れするなんて、信じられるほうが、どうかしてる。よくもまあ、そんなことが……」
 顔を青褪めさせたアイオネに、ヒストリカは殴りつけるように吐く。
「信じられるわけがないでしょう? あの《裏切りの魔法使い》も、《背徳の錬金術師》も、みんなそう。我々のために、君のために。そう言って簡単に騙すんだ。さも善人ぶって。偉そうに。だったら、利用して、利用されるほうがよっぽどいい。君の望みはなに? どうして私にかまうの? 等価交換だよ。素直に代償を差しだしてみせて。眼鏡に適ったら乗ってあげる」
 いまの今まで、どれだけ的外れな期待をしてきたのだろうと、アイオネは思った。
 アイオネだけではない。彼女を家族だと言ったハロルドだってそうだ。
 ヒストリカはまだあの暗黒の時代に憑りつかれているし、そして無意識に依存している。
 相手に下心がなければ安心を得られない。利用し、利用される、目的や利害が明確になっていないと、不信感を拭えない。信用できないのだ。純粋な善意がない環境で、ヒストリカは生まれ、育ち、形成されていった。思えば、リックとしてアイオネと出会ったときにも、彼女はずっと警戒していた。
「……それが、あんたの本心なのか」
 ヒストリカは答えなかった。向ける杖は揺らがない。
「まさかとは思いながら、少なからず信用されていればいいのにと、俺は思っていた」
「大概にしろよ、人間」
 あえて魔女のようにヒストリカは振る舞う。
 杖を見せびらかしながら、諭すように言葉を続ける。
「どうしてこれまで君にいろんなことを話したと思うの? 今もこうやって話していると思うの? いつだって記憶を消してしまえるからさ。君は聡いのに青いな。考えなかったのかい? もしかすると、君を殺すかもしれないって」
「……考えなかった。本当に。考えたことも、なかった」
「へえ。まるで私を信じているかのような口ぶりだね」
「そりゃそうだよ」アイオネは続ける。「俺はあんたを信じてたんだ」
 ヒストリカは怯むように強く息を呑んだ。じわじわと溢れ出るものを我慢するように、肩を上げる。いつのまにか、その青い双眸は剣のように鋭くなっていた。
「いい加減にして」
「俺に言わせれば、こっちこそいい加減にしてほしい。あんたはなにをお望みだ」
「私は、なんにも望んでない」物欲しそうな目でヒストリカは言った。「君はなにがしたいの。恋ならまたすればいい。忘れられないなら、記憶を消して、諦めさせてあげる。お願いだから近づかないで。どうして私についてこようとするの」
 どこまでも冷白れいはくでわからず屋なヒストリカに、アイオネは訴えるように強く叫ぶ。
「心配だからだって言ってるだろ!」
 ヒストリカは目を見開かせた。
 残念ながら、アイオネの言葉には一片の嘘もない。ずっとそうだった。リック=ヴァリーとして出会ったときから、この瞬間に至るまで、アイオネはたった一つの気持ちで動いていた。
 ただ、それをヒストリカが取り違えただけだ。
 出会ったときから、この瞬間に至るまで、ずっと。
 唇を噛み締めたあと、アイオネは説きほぐすように、ヒストリカに語りかける。
「大事にしろよ。一人はつらいぞ。また糞便の豪雨に見舞われたり、襲われたりしたらどうするんだ。あんたは魔法が使えるだけでただの人間だ。死ななくても痛いものは痛いだろう。なのにあんたは無茶をする。言わないだけで、ハロルドも心配してると思うぞ。危なっかしくて放っておけない。なのにどうして、俺はあんたを心配することすらできないんだ」
 ヒストリカは氷のように凍てついた。
 そして、ゆるゆるとこうべを垂れる。
 アイオネがヒストリカに差しだしたものは、代償や見返りという飾りのつかない、ただの絵の具にまみれた手だった。あの絵画を見たときから、アイオネはたった一つの情熱に突き動かされている。ヒストリカの知るような、理性的な欲望は何一つもない。それがヒストリカにとっての悲劇だった。
「……おい」
 俯いてつむじしか見えなくなったヒストリカの肩を、アイオネは揺らす。それでも顔は上がらない。ヒストリカは息を潜めるように俯いたままだ。
「ヒストリカ……?」
 アイオネはヒストリカのこめかみあたりに触れ、顔を持ち上げる。
 彼女の双眸は、あの『大魔女』で見たものそのものだった。今にも叫びだしそうなほどにまで熟した力強い瞳。憎しみだと勘違いしていたその瞳の感情の正体に、アイオネはこのときはじめて気づく。
 絵では、わかるはずもなかった。あんな小さな画面で、それも絵の具で構成された、画家の偏見が混じった代物では。こうして目の当たりにしなければ――その美しい目が潤んでいることに、気づけるわけがなかった。
 じっと覗きこみながらアイオネは言葉をこぼす。
「泣かないでくれ、ヒストリカ」
 湛えていたのは、怒りではなく、悲しみだった。
 憎んでいるように見えた彼女は、本当はずっと泣いていた。
 ヒストリカがまばたきをしただけで、それは容易く決壊した。そのしずくが髪や手を濡らす様は息を吹き返した嘆きのようだ。水浸しの吐息を漏らしたあと、ヒストリカは切なげに笑う。
「……教えてあげる、アイオネ」
 ヒストリカは自分のこめかみにあるアイオネの手にそっと触れた。
 温かいのに切なくて、胸を締めつける温度がした。
「君が私に優しくするたびに、私は絶望していたんだよ」
 彼女にとってはもう全てがいまさらだったのだ。だから厚意を疑って、真意を探って、そこに悪意がないことに気づいては、顔も上げられないほど傷ついた。
「もっと……もっと早くに、君と出会いたかった……こうなる前に。もう私は、誰かに優しくされるたびに、次はどんな目に遭うのかって、怯えることしかできないのに」
 ごめんと言ったら、また怯えさせてしまうと思った。だから、アイオネはこめかみに当てていた手を頬に動かすだけに抑えた。けれど、それにすら、ヒストリカは傷ついたような顔をする。それだけが本当につらかった。
「アイオネはばかだなあ、本当に、ばかだ」
「あんまりな言い草だな」
「私なんかといてもいいことなんて一つもないのに。いつか必ず来るよ。私なんかと出会わなければよかったって、そう思う日がいつか必ず来る」
「悲観的になりすぎてないか? これだから老いた考えは嫌なんだ」
「だって、だって、また襲われるかもしれないもの。また怪我をして、二人に狙われて、ハリソンのときもそうだった、それに君まで、もう、あんな思いは嫌だ」
「心配してくれてるのか。役得だな」
「私に、情を移させたのは、君だ。君のせいだよ。なのに、なのに……みんな私よりも先に死んじゃうんだ。ハロルドだって、やっぱり嫌だ、もう全部」
 はらはらと、見た目の齢よりも、実際に生きた齢よりもずっと幼く、ヒストリカは泣き続ける。恐怖と戸惑いに溢れた顔には朱が散っていた。
 あの眼差しと同じ彼女に、アイオネは同じ情熱を抱いている。
――そうか。惹かれた理由はそうだったのか。
 今にも折れてしまいそうな、砕ける前の硝子のような哀れな輝きに、アイオネは心を奪われたのだ。絵画を通して見たときから、出会ったときから、ずっと手を伸ばしていた。放っておけないと――助けてやりたいと、アイオネは思ったのだ。
「なあ、ヒストリカ、こういうのはどうだ?」
 アイオネは穏やかに囁いた。
 ヒストリカは未だ流れる涙を野放しにして、その様を眺める。
「交渉。取引。等価交換。俺と君との関係は持ちつ持たれつだろう? ともすれば、俺は君に多大な借りがある」
 こうでも言わないとヒストリカはまた怯えてしまうだろう。優しさの奥にある裏切りや嘘を敏感に疑ってしまう彼女は、アイオネの気持ちを素直には受け取れない。
 だが受け取ってくれなければ困る。
 ヒストリカ=オールザヴァリは、描きたいと思った初恋の少女なのだ。
「君は俺の夢を叶えてくれた。俺も君の悲願を叶えよう」


▲ ▽



 アイオネがヒストリカに導かれたのは、処刑が行われた広場が優に見渡せる、とある安い宿の一室だった。天井も低く、一室も狭く、そして見るからに壁も薄い。娘一人がここで一晩すごしたなどと親が知れば卒倒すること請け合いだ。硬そうなベッドには最低限の荷が置かれていた。そこにヒストリカは腰かけて、まだ潤んでいる目尻を拭う。
「私が怪我を負って帰ってきた日のことを覚えているね? あの日、どういうわけか、私の魔法が二人に通用しなかった」
 まだ声は震えていたが、それをからかうのも可哀想というものだ。アイオネはそちらには言及せずに「実力差が覆ったということか?」と問い返す。



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