プロローグ 1/1



「本当に消しちゃうの? もったいないなあ」
 埃っぽい地下室に男の言葉が響いた。
 蝋燭の灯りから揺れ広がる光と深い影との隙間に、彼はひっそりと佇んでいる。邪魔にならないように見つめているのだ。薄暗闇の中央、部屋の地べたに座りこんでいる彼女は目下作業中の身である。木目の粗い床板に白墨チョークで刻んだ記号や円は、既に百や二百を超えていた。
「死んだ作者もあの世で泣いてしまうに違いない。きっと最高傑作だったろうから」
「……静かにしてくれないかい? 気が散って式を間違えてしまうよ」
 手を動かし続けながら彼女は言った。尖り気味の頭巾フードを目深に被っているせいで顔はよく見えないが、まさか微笑んでいるとは誰も思わないだろう。の割に放った言葉は、怒るというより叱るような、温かみのあるトーンだった。
「本当に一枚も残さないつもり?」
「もちろん。残っていたって枷にしかならないからね」
「僕用に一枚だけ残しておいてほしいんだけど、だめ?」
 甘えるような言いかただった。見た目での年の頃を考えるなら、彼のほうが彼女よりもよわいは上のはずだ。けれど、その年不相応の甘えかたは妙にこなれていた。
 そんな彼の言葉を彼女は「だめ」と両断する。
「その一枚が誰かの手に渡ってしまうかもしれない。それにこれ、、は一枚だけを残して作用するようなものでもないからどっちみち無理だよ。残念だったね」
 彼は苦笑するが、どうしてもと強いないあたり、不可能だとはわかっていたのだろう。
 それから数秒後に、カツカツと床を叩く音が消える。
「……できた」
 彼女は持っていた白墨を床に置いた。白く汚れた手を叩くと、弾んだ粉末は火に照らされてゆらゆらと煌めく。それが鼻に入ったのだろうか、彼女は一つくしゃみをする。追い風を食らった粉は小虻のように四散した。
「随分と大きな陣だね」
「けほっ……これでもコンパクトにおさめたほうなんだけどね。効果との兼ね合いを考えると、どうしてもこの大きさになってしまって。終わったらちゃんと拭くから」
「残しててもいいよ。どうせこの部屋は君のものだし」
「いらないよ、別に」彼女は淡々と言った。「終わったら、ここにもほとんど来なくなると思う。もし来たとしても、君はとっくに死んでいる、なあんてこともありえるよ」
 彼女はそう言うと、傍らに置いておいた細い棒を持って立ち上がった。
 細い棒、というのは些か敬意のない表現かもしれない。その棒は棒と評するにはたおやかで美しく、まるで彼女のためだけに存在するかのような気高さがあった。
 彼女はその棒を――杖を握りしめて、冷たく言葉を紡ぐ。

Abrakadabra

 その瞬間、世界中からいっぺんに、彼女、、が消えた。



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