名無しの画家の知恵と約束 1/8



「いや、ヒストリカがどうしてるかなんて僕にだってわからないよ」
 テーブルで向かい合わせになった二人の空気は心地の好いものではなかった。
 ハロルドは困ったような、うんざりしたような表情でアイオネを睨む。
 一方のアイオネは、絵の具の乗っていない乾いた絵筆をてしてしと机に叩きつけるようずさんでいた。とは言っても、視線はハロルドから揺らぐことがないので、一種の威圧行為のようにも見える。その動作にハロルドが怯むことはなかったが。
「そんなわけがあるか。あんたとヒストリカは仲良しこよしのはずだろ」
「孫に小旅行の報告をしないおばあちゃんだって世の中にはいるよ。いい加減めんどうくさいんだけど」
「なら、本当になにも知らないと?」
「ずっとそう言ってるってば」ハロルドは一歩出ればあちこちに散らばっている号外新聞を見せつけるように持ち上げる。「僕だって、これを見て初めて知ったんだから!」
 あのヒストリカ=オールザヴァリ≠ヘ生きていた。
 今世紀最大の大事件の犯人――稀代の大魔女、ここに現る。
 各社大見出し記事にはそう記載されていた。名画『大魔女』の消失事件からしばらく、次第に沈静化していった国土中が、同じ話題で持ちきりになっていた。どこへ行っても民衆の話声が聞こえてくる。かの有名な《大魔女》・ヒストリカ=オールザヴァリが名画『大魔女』の消失事件の犯人であり、そして捕まったのだと。
「もういろいろ気になるけど、それよりも、まさか本当にヒストリカはそこにいるの? そこってどこ? 捕まったってなに? 僕が聞きたいくらいさ!」
 ハロルドは新聞紙をばっと投げた。穏やかな所作をする彼にしては乱雑な態度だった。
「突然消えたと思ったら新聞に載るなんて、もうわけがわからない」
「……あんたでもヒストリカの考えはわからないのか」
「わかるわけないよ。僕は彼女の全てを知っているわけではない。わかっているのは、ヒストリカがどこかへ行ったらしいことと、世間が突然現れたヒストリカ=オールザヴァリに興味津々ってことくらい」
 情報の出所は謎だが、ヒストリカが『大魔女』消失事件の犯人であるということは、どこの新聞社でも取り上げられている。その偏りのなさから、たしかな情報筋なのではないかとあちこちで囁かれている。
 もちろん、あの消失事件は珍奇な怪奇現象だ、犯人もくそもあるとかというのが大多数の意見だったが、その犯人の名を出されれば興味を抱かずにはいられない。
 事実は小説よりも奇なりと面白おかしく囃したてられている。
 犯人は、あらゆる逸話を持ち、歴史上唯一と言ってもいい、世界的に高名な魔女。そして彼女は『大魔女』のモデル本人でもあるのだ。入り組んだ設定のようにも思われるそのシナリオに、好奇の目を向けないわけがない。
「議論巷談におおわらわ。報道の茶番、被害妄想の爆発だとする見解や、生きていた大魔女に対する考察、魔女伝説の復活、世界滅亡大予言の第一段階だと唱える者までいる。これは魔女狩りにも匹敵する社会現象じゃないかい? 名画『大魔女』の消失事件は未だに生を繋げていた名画の大魔女が起こしたものだった、なんて……嘘、真実の別なく取り沙汰される。しかもなに? 消失事件の罪を問う裁判が非公開で行われている? これでは、魔女裁判そのものじゃないか」
 アイオネも新聞に目を遣った。消失事件の裁判の結果は今日の夕刻に出ると書かれている。知らぬあいだに勝手に騒がれているような現実味のなさに、アイオネの表情は曇った。
「……様子が、おかしかったんだ」
「それってヒストリカの? どんなふうに?」
「素直で気遣いがあった」
「君はヒストリカが嫌いなの?」
 アイオネはテーブルに肘をつき、「お前はなにか気になることはないか?」とハロルドのほうへと顔を寄せる。戸惑い気味のハロルドは、思い出すように視線を下げた。
「ヒストリカが傷だらけで帰ってきたのは君も見たよね。でも……妙なんだ。これまでの裏切りの彼や背徳の彼は、そこまでの傷をヒストリカに負わせたことがない。負わせられないと言ったほうが正しい」
 どういうことだとアイオネが問う前に、ハロルドは続ける。
「ヒストリカはなにをしても死なない。それを理由に、彼らはかなり……荒っぽい? やりかたで、ヒストリカを追いつめていた。容赦がなかった。だけど、おそらく、魔法技能で比較するなら《裏切りの魔法使い》よりもヒストリカのほうが優れているんだ。それを補うのが《背徳の錬金術師》なわけだけど、下手に動かれる前に拘束するか、不意打つのがヒストリカの常套手段。あそこまでの負傷は僕が見てきた中では一度しかなかった…………僕の父の匂いを掴んだ彼らに、父を人質にされたときだけ」
 アイオネは押し黙った。手を組んで口元に寄せ、目を伏せてから「続けてくれ」と促す。
「それなのに、今回ヒストリカは大怪我をして帰ってきた。初めは父と同じように君を人質としたのかと思ったんだけど、匂いを消すのが早かったからそれはないと思った」
 それよりも自分が人質として成立するのかが微妙なところだとアイオネは感じたが、わざわざ言うようなことでもないので口を閉ざしておいた。
「となると、あの二人はなにかしらヒストリカにとって不利な状態で戦闘を持ちこんだことになる。戦闘っていうか、一番の目的は捕獲だろうけどさ。まあ、そこを、命からがらヒストリカは逃げた。だけど、いまもなお、ヒストリカが二人の手の平の上だとしたら?」
 ハロルドの言葉はあやふやだった。本人もまだ整理できてないのだろうとアイオネは思った。なにしろ出来事は突然で、まとめる暇もなかったのだ。感じたことをそのまま口にしているのだろう。補うように、アイオネは問いかける。
「つまり、二人の術中にヒストリカが嵌っている可能性があると?」
「だってさ……考えても見てよ。消失事件の犯人は大魔女でした、その大魔女を裁判にかけます――このかびの生えたような流れ。頭のわるい突飛な運ばせかた。どう見ても彼らの考えかたじゃないか。大迫害時代、1600年代の思想」
 なんとなく言いたいことはわかった。
 たしかに、アイオネも似たようなことを感じてはいたのだ。
「君を寝かしつけて、、、、、、ヒストリカがお出かけした二日間、彼女は裏切りの彼と背徳の彼への接触を試みようとしてたみたいだけど……その二日目に接触して、なにかしら吹きこまれたり、魔法をかけられたってことはないかな?」
「その結果がこの大魔女騒動? トンデモだな」
「まあ空想の域は出ないよね。あーあ、どうなることやら」
 そう言ってハロルドは頬をテーブルに押しつけるようにしてうなだれた。すっかり考える気をなくしたようで、もうそこからぴくりとも動かない。
「……そろそろ院を開けないとなあ。通常業務に差し支えが」
「こんなときでもか」
「薄情だって? そりゃないよ。僕はこれでも彼女に尽くしているほうだ。それに、本当に力を貸してほしいときは、なんとかしてこっちまで連絡してくるはずだよ」ハロルドは顔を伏せったまま続ける。「もうなんとなくでもわかってると思うけど、うちの家系は代々、ヒストリカと相利共生にあったんだ。持ちつ持たれつ? 家のことになってくるから深くは言えないけど、うちはヒストリカに途方もない恩があるんだ。それを長きに渡り返済しているって感じかな」
 深くは言えないと彼は言ったが、こうしてアイオネに話すあたり、本当におしゃべりな男だ。
 一瞬アイオネですら聞くことを躊躇った。後ろ暗い話でもあるのかと警戒したほどだ。
「長い付き合いにはなるからもう利害がどうとか言うつもりもないけど、肝心のヒストリカがああだからね。僕はあくまでも、利害一致の体で彼女と接しているよ」
「……本心、ハロルドにとってヒストリカは?」
「家族かな」少しだけ顔を上げてはにかんだ。「祖母であり、母であり、姉であり妹だよ」
 純粋に微笑ましいと、アイオネは思った。
 けれど、その家族にすらなにも語らず、ヒストリカは姿を眩ましたのだ。
 そして『大魔女』喪失事件の犯人として身柄を拘束されている。
 なにを考えているのかちっともわからない。本当に考えているのかさえわからないような行動だ。わからせまいとしているのなら、アイオネの知っている彼女そのものだけれど。
「それで、アイオネはどうするんだい? 彼女がいなくちゃ絵の続きは描けないだろうに」
 ハロルドの問いに、アイオネは簡潔に答える。
「心配ご無用。絵が消えた」
「うん?」
「だから、消えたんだよ」アイオネは不機嫌そうに言う。「ずっと描いてたヒストリカの絵」
 ハロルドは表情を落としたまま、けれど、少しからかいの混ざった目つきで、両手を口元へと宛がう。それから、まるでどさっと荷が崩れたかのように「不憫!」と笑いだした。
 笑い事じゃないと言いたかったが、アイオネには大声を出す気力さえ失せていた。
 日々描き進めていた自分の絵が消えたのだ。落胆を超越した心地を覚えた。自分の魂の重量をごっそり奪われたような気分だった。下腹部からにじり出るような怒りさえ湧いてくる。消えた原因は、十中八九ヒストリカだろう。元よりヒストリカは絵を描かれるのを躊躇っていた。去り際に消した可能性は大きい。まるで隠滅工作だ。
「にしても消えたってどういうこと? なくなったの?」
「画面からヒストリカが消えた」
「……それってつまり『大魔女』みたいに真っ白になったってこと?」
「違う。背景はそのまま。ヒストリカだけ消えたってことだ」
 ハロルドは当てが外れたのか、不可解そうに首を傾げる。
「塗り潰されたのかな」
「絵の具を使った形跡はない。よくわからんが魔法だろ」
「まあ、ヒストリカも自分の絵は残したくなかっただろうしね」
 なにはともあれ、これでアイオネは、唯一と言ってもいいほどのヒストリカとの繋がりを絶たれてしまったことになる。彼女がなんのためにこんなことをしたのかは不明だが、アイオネにとっては大きな失意だ。
「夕刻までどうなるかわからないにしろ……僕はこの施療院で、気長にヒストリカを待つよ。何年後か、何十年後か、何百年後か知れないけど。ヒストリカがなにも言わなかったってことは、僕にできることは今のところないだろうし」
 そう言ってハロルドは席を立つ。
 どこか慣れたような態度だった。こうしてハロルドとヒストリカは付き合ってきたんだろう。相利共生。相互扶助。ギブアンドテイク。互いに依存しすぎず、なんらかの取引によって表面上は成り立っている。ヒストリカの要望に、ハロルドが倣っている。



■/march


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