裏切りと背徳 8/8



 錬金術師は着こんでいたフロックコートの前を開ける。コートの内側には液体の入った試験官や怪しげな化合石などが並んでいた。粉末が入った音の鳴るいくつかの薬包紙を、噴射し続けられる炎の魔法の前にかざす。
 瞬間、炎熱は激しさを増し、超速の火花に氷の柵は敗北した。眩しいほどの燃焼反応に、ヒストリカとアイオネは目を瞑る。解けた氷の水分で爆発の元は鳴りを潜めた。
 足元を見遣ると小さな純鉄の屑。魔法使いの呪文に操られ、その純鉄たちは弾丸のようにヒストリカへと向かう。咄嗟に避けるも、その弾丸は持っていた白い杖を弾いた。真後ろに飛ばされ、床をカラコロと転がるそれをヒストリカは追いかけようとする。そんなヒストリカの背後を操られた弾丸は狙いにかかった。ヒストリカは杖に飛びついて呪文を唱えようとしたが、自分の唇よりも速く動くそれにはかなわない。
 襲いかかるであろう痛みに目を瞑ろうとしたとき――視界が黒一色に塗り潰された。
「え?」
 ヒストリカだけでなく、相手方二人も呆然としていた。
 現れたのは真っ黒い炭の塊。操られた弾丸を横殴りにした骨太の一直線。ヒストリカと二人を遮るようにそれは横断している。魔法のようであって、魔法ではない。
 物体の源に目を向けた。
 そこには麻袋に入った大量の砂糖があった。この倉庫では珍しくもない品だ。だから見つけるのにそう苦労もなかったのだ。乱雑に引き裂かれた麻袋の中は、純白ではなく乾いた黒をしていた。炭の塊はここから伸びてきている。偶発的に起こった現象ではない。明確な意志を持って行われたことがわかる。何故ならそこにはいたからだ。錬金術師が落とした試験官の中から的確にあたりを引いた、アイオネが。
「それは俺の濃硫酸……」淡く目を見開く錬金術師。「脱水反応による炭化と膨張か!」
「ヒストリカ!」
 アイオネの声にヒストリカはハッとする。すぐに杖を二人に向けて構えた。
意のままに動けアクタスミミンド!」
 二人が腰かけていた椅子を操り、砲弾のように放つ。魔法使いは魔法で跳ね返したが、錬金術師は直撃を免れず、顔面を殴打された。
「……おい。大丈夫か」
「ザッカリー、お前、自分だけ、絶対許さねえ」
「恨むならあれを恨め」
「無理。鼻が痛すぎて無傷のお前が憎い」
「一旦引こう。おそらく鼻の骨が折れている」
 どくどくと血が出る鼻を押さえた錬金術師が身を翻す。
「逃がさない」
 ヒストリカがもう一度呪文を投げようとする。
 だが、それより先に、魔法使いが魔法を繰り出していた。攻撃目的でない魔法だった。
 杖の動きに従って、倉庫内にあった金属の大きな四角い塊が横一列を作るように立ちはだかる。そのあいだに、錬金術師が懐から一つの試験官を取りだした。中には黄色い気体を放つ液体。それを宙に放り投げると、魔法使いが呪文でそれを打ち砕かく。その瞬間、まるでヴェールを作るように、液体は金属の塊へと降り注いだ。
 その液体が放つ匂いにアイオネは覚えがあった。液体臭素。鼻を塞ぎながらヒストリカの元へと走り、杖を持つ腕を引っぱって自分の背後へと押しこむ。
「逃げるぞ!」
 爆散の屹立。液体を被った金属からたちまち火柱が上がった。
 流線形を描いたマグマのように灼熱の星が飛散する。
 勢いよく放たれる飛沫は天上さえも焦がした。
 一面を覆い尽くした炎は、まさしく燃え盛る壁だ。
 物陰に隠れたアイオネとヒストリカのところにまで、その熱と勢いは伝わってくる。逃げたときにジャケットや靴の裏が焼けてしまった。
「気体も吸わないほうがいい。体が壊れる」
 アイオネはヒストリカの口元を押さえつけていた。
 ヒストリカは杖を火柱のほうに向ける。
「やめておけ。水で消すともっとひどくなる、最悪ここは大炎上だ。燃焼が終われば火も消える。本当に怖いのは発生した気体。蔓延する前にここから離脱しよう」
 あちら側、火柱の隙間から、なにかを拾い上げたあと唯一の出入り口である扉のほうへ向かう、魔法使いと錬金術師が見えた。もうアイオネやヒストリカには視線すら遣らない。
「出入口は火のむこう。なにか手はあるか?」
「……魔女を相手におかしなことを言うね」
 ヒストリカは肩を竦める。おどけてみせたのかもしれないが、顔は落胆の色を滲ませていた。二人を取りに逃がしてしまったことを引きずっているのだろう。アイオネにとってはいろいろと、複雑な心境ではある。ヒストリカがあの二人を捕まえたあとになにをするのかを考えればそう易々と彼女に同情はできなかった。
「ん、ふ? あれ? 君に借りたペンが見当たらない」
「今すぐ必要なのか?」
「それで陣を描こうと思っていたから」
 見つからないのなら仕方がないと、箱詰めにされた没食子インクに杖を突っこみ、筆のように壁に描き殴る。描き慣れていることもあり、魔導書も見ずに、数十秒で陣は完成した。一度杖を横薙ぎにしてインクを払い、呪文を唱える。さっとアイオネの手首を掻っ攫って、ヒストリカは陣の中に飛びこんだ。
 吸いこまれるような勢いに身を委ねると、いつか味わったものと同じ、いきなりどこかへと放り投げられるような感覚。地べたに身を投げだして倒れこむ。
 そこはやはりいつかと同じ、施療院にあるヒストリカの寝起きする地下室だった。
 二度目ということもあり、アイオネが立ち上がるのも早い。慣れた動作で砂埃を手で払う。
「稀な体験をさせてもらった。いい絵が描けそうだ」
 暢気だねえとかなんとか、そんなヒストリカの呆れ声が後を追うのかと思いきや、彼女はじっくりと押し黙って考え事をしていた。
「ヒストリカ?」
 アイオネはその顔を覗きこむ。
 少女らしくたおやかな、形の良い眉がわずかに寄せられていた。
「これ、なんだろう……見てごらんよ。私の靴の周りに白い粉がたくさん」
 ヒストリカは訝しそうに自分の足元を見つめていた。
 確かによく見ると白い塊が散らばっている。なにかついているのかと自分の靴をよく観察しようとしたヒストリカに「まあそう気にすることでもないだろ」とアイオネは言う。ヒストリカはゆったりとした間を置いて、それもそうだと立ち上がった。
「あと……やっぱり、君に借りたペンを落としてしまったようだ。すまない」
「え? あ、ああ。別にいいってそんなの」
「多分、魔法で吹っ飛ばされたときだと思うんだけど」
「なあに、そう高いものでもないさ。なんならいま使ってる筆のほうが高いくらいだ」
 気に病むふうのヒストリカを慰めるように言ったアイオネ。
 しかし、ヒストリカの顔色が明るくなることはなかった。むしろよりいっそう考えこむように口元に手を遣った。
 いつまでもここにいるのもどうかと思い、この地下室から出ることをアイオネは薦める。
 黙りこむヒストリカの背を押しながら階段に続く扉を開けた。薄暗い階段を見もせずに歩く姿はあまりに危なっかしい。いつ転んでもいいように、アイオネはヒストリカの両肩を掴んでいた。
「なあ、ヒストリカ」
 ヒストリカは答えない。俯き加減から、まだ考え事をしているのが伺える。
「あんたはさっきみたいなことをずっとしてきたのか。復讐だかなんだかのために、戦って。俺には考えもつかないような攻防を、いままでずっと」
 そこでヒストリカがぐるんと振り向いた。あまりの勢いにアイオネの手は自然と肩から外される。思いのほか間近にあった顔にアイオネは後ずさりしたが、逃げるその手首をヒストリカは掴む。強い力だった。いったいどの言葉に機嫌を悪くしたのかとアイオネは気構える。けれど、いつまで経っても叱責の一つも飛んでくることはなく、ヒストリカは緊張気味に俯いたままだった。
「えっと、どうした?」
「ペン……」
「は? あ、俺の? だからもういいよ」
「吹っ飛ばされたときに落として、そのままだった」
「まあ、拾う暇なんてなかったしな」
「あの二人が、倉庫を出るとき」ヒストリカの声に怯えが混じっていく。「なにかを拾い上げたように見えた。懐に入るサイズ。試験管や化合石の類じゃない。あんなの、あの男は簡単に作れるから執着などしない。あれは、おそらく、拾ったんだ。ペンを。そして、あのペンは、当然ながら、男物だった」
「……ヒストリカ?」
 アイオネの問いかけに答えることなく、ヒストリカは吐き捨てる。
「二人は、あれが私の物でないことを知っている」
 ヒストリカはぐいっとアイオネの手首を引っぱり、急いで階段を駆け上がった。先ほどまでとは打って変わった敏捷な動きについていけず、アイオネは素っ頓狂な声を上げる。足を縺れさせてもヒストリカは止まってなどくれない。慌ただしく階段を上りつめ、さらにアイオネを連れ回そうとする。
「あ、お帰り。キナの樹皮は買えた?」
 廊下ですれ違おうとしたハロルドを無視してヒストリカは小走りに進む。捨て置かれたハロルドも驚いていた。後ろから「どこいくの二人とも」と声をかけられる。アイオネからしてみればこちらこそ知りたいという気持ちでいっぱいだった。
 ヒストリカはとある一室の扉を開ける。中は広い浴室だった。装飾性の高いタイルの壁に固い床。乱雑に閉められた扉に、かけられてあったスワッグの葉がはらりと落ちた。アイスグリーンのマットをずかずかと踏みしめて入っていく。浴槽のカーテンを勢いよく開けると、つるんと光沢のある浴槽がアイオネを出迎えた。
「アイオネ、脱いで」
 端的な言葉を投げたあと、ヒストリカは大きな収納庫の扉を開ける。
 アイオネはわけもわからず棒立ちしていた。
「話についていけないんだが」
「早く」
 急かすだけで説明はしない。ヒストリカによくあることだった。
 ヒストリカは収納庫から大きな樽と斧を取りだす。アイオネがぎょっとしていると、それを浴槽まで運び、勢いよく樽を叩き割った。中からどくどくと液体が漏れだしていく。つんとした匂いが鼻腔を突いた。おそらく香水だろう。
「な、え、なんだ」
 ヒストリカは、まだジャケットしか脱げていないアイオネを浴槽のほうへと導く。
 そして、思いっきりその背を押して、浴槽の中へと落とした。
 アイオネはばしゃばしゃともがく。香水が口に入って変な味がした。展開についていけない。にべもなく、ヒストリカはシャワーの蛇口を捻った。生温い水がアイオネの体を濡らす。
「どういうつもりだ」
 少しだけ責めるように、アイオネはヒストリカを見上げた。濡れて顔に貼りつく髪を指で掻き分ける。
 脇に固定された樽からはまだ香水が注ぎこまれている。果実とラベンダーの香り。水で薄めているとはいえほとんど原液だ。あまりの匂いにアイオネは鼻を押さえた。
 どこか呆然とした声で、ヒストリカは呟く。
「君の匂いを覚えられた」
 ヒストリカは俯いたままだった顔を少しだけ上げる。それだけで、ずぶ濡れになったアイオネと視線が交わった。張りつめた眼差し。ほんのりと噛み締められた唇。
 どういうつもりも、なにもない。
 これは、彼らから身を守るため、ヒストリカがやっていたことそのものだった。



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