裏切りと背徳 7/8
蘇生を完了していた陶磁器質の騎士が、人間の何十倍もの大きさのある蛇へと姿を変えた。一掃するようにキャットウォークを襲い、ヒストリカとアイオネを下階に突き落とした。
受け身を取れたこと、下に襤褸の布溜まりがあったことが幸いし、怪我はなかった。ヒストリカは座りこんだままのアイオネの手首を掴むと一緒に立ち上がる。
「おい、本当に危険じゃないんだよな?」
「相手に陣を使わせないうちは」ヒストリカは胸の固定ベルトを外していた。「アイオネ、魔導書取って」
余裕をなくしているせいか、いつもの丁寧さの抜けた口調。
切羽詰っているのはアイオネとて同じだ。物珍しく思う余裕もなく、ケープの下から体を這うように落ちてきた魔導書を掴む。見た目通りの重さに両手で持ち替えてからアイオネは「どうするんだ?」と尋ねる。
「十二回だけ頁をめくって。開けたら左側の一番下」
ヒストリカは大蛇と攻防するも、合間にアイオネにかまっているせいで形勢は不利なように見える。魔導書を出したかったのなら仕方がないとは言え、このように攻撃されて、陣を描く時間など作れるのか。
「これだな」
アイオネは邪魔にならない程度に開いた魔導書をヒストリカの視界へと持っていく。そのまま渡すつもりだったのだが、ヒストリカは「いい子」と一瞥しただけで、受け取る意思はないようだ。アイオネはわけがわからなくなる。
そのとき、ぼとりと空から落ちてくるように、陶磁器質の大蛇は二人の周囲を長い体で取り囲んだ。絞めようとどんどん距離を縮めていく。そのまま螺旋階段のように上へ上へと出口を塞ごうとする巨体を、ヒストリカは魔法で切り裂いていく。一ヶ所だけ脱出できるほどの綻びができた。
「アイオネ、その裏まで走って」
「は?」
「いいから!」
「よくねえ!」
そう叫びながらもアイオネは言われたとおりに蛇から逃れる。ヒストリカが指示した樽の裏へと身を潜め、彼女の動向を見守った。
やはり魔法の短略式である呪文だけで応戦するのは難しいようだ。未だヒストリカは大蛇の鳥籠から逃れられていない。こうして自分だけ解放された意味がよくわからなかった。やはり足手纏いだと思われたのだろうか。にしては、魔導書を持たせるなんておかしい。
「遊び場出でよ」
攻防の呪文の合間に、攻撃目的とは違う、ヒストリカの声がした。
その瞬間、樽の塔に隠れたアイオネの背後、ずずずっという音と共に柔らかそうな土壌が現れる。深緑色の蔦を装飾のように纏いながら、石碑同然に大きく聳える土の壁。中央を避けるように小さな文字が刻まれていた。それはリックという醜い少年の姿のときに何度も見た、ヒストリカの文字。
〈お絵描きは得意でしょう?〉
アイオネはにやりと笑い、巻きつく蔦の中でも硬そうなところを手折った。
「――切り裂かれよ!」
大蛇の中のヒストリカは何度も同じ呪文を唱えていた。先日倒したものよりもはるかに大物の相手なのだ。背中や額に汗が滲んでくる。今の自分の状況よりも、長いこと野放しにしてしまった目的の二人のことが気になっていた。そう容易く逃げたり隠れたりはしないはずだけれど、この陶磁器質の大蛇にかまっていたおかげで時間を与えてしまった。魔法族同士の決闘において、相手に時間を与えるということは、致命傷になりかねない。
ヒストリカはぎゅっと杖を握る力を強くする。
「強く願う、砕けてしまえ」
弱っていたところを、剣で薙ぎ払うように杖を振り下ろせば、大蛇は爆散した。
光沢のない粉末が空気中を漂い広がっていく。
その瞬間、静かにこちらを睨みつけるような魔法使いが見えた。
「Abrakadabra」
まるで見えない魔物。風の水牛。空気の砲弾。大蛇と対峙している隙に描き終えていた相手の魔法陣から、腹を抉るような勢いが襲いかかる。
吹っ飛ばされたヒストリカは樽の塔に体を打ちつけ、崩れた樽と共に地べたに雪崩れこんだ。
その様子を眺めていた錬金術師が「気絶させるくらいでいいのに」と呟く。
「借りを返しただけ」
「さっきのヒストリカの言葉、まだ気にしてるんだ? おばかだねえ。どうせ本当のことなんだからいいじゃん。それより早く回収しよう」
「待て、ドリスタン。まだ意識がある可能性も……」
と、そこで魔法使いの言葉が途切れる。
会話をしていた錬金術師が訝しそうに彼の顔を見た。
魔法使いは崩れた樽の向こうに目を凝らしていた。ヒストリカが粉砕した陶磁器質の大蛇の粉末が、まだわずかに視界を遮っている。ふわりと倉庫内に風が吹きこむと、塵の濃霧は揺れるように消えた。いまの今までどうとも思っていなかった――ヒストリカの連れていた若い男が、蔦の筆を手放したところだった。盛り上がった土壌に彫られたのは大きな魔法陣。
魔法使いが危険を察知するのと、樽の瓦礫から伸びる杖を持つ腕が呪文を放ったのは、同時のことだった。
「Abrakadabra」
濁流のように伸びる太い木の幹と枝。
暴れるほど勢いよく、けれど一直線に、それは目標の二人にまで伸びていった。
陣から現れた大木の蔓が魔法使いと錬金術師を捕える。胴や腕に巻きつき、体の自由を奪い、空中で磔にする。勢いあまったせいで錬金術師のフロックコートからいくつかの試験官と石が落ちた。いくつかは椅子の上に落ちて事なきを得たが、ほとんどはあっけなく地に落ちて割れた。蒸発し、もくもくと白い煙が上がる。なにか薬品の類だった。
「……お見事」
アイオネはぽつりと呟く。
樽の瓦礫から手を振っていたヒストリカの手首を掴んで抱き起こした。
「君もご苦労さま。いい円だ」
木が伸びた陣を一瞥してヒストリカは言った。
細い枝葉は魔法使いの口内を犯し、呪文を紡げないようにしている。杖も奪ってしまいたかったが、呪文を唱えることができないのならもう魔法も使えない。
悠々と、ケープやスカートについた土埃を軽く手で払ってから、ヒストリカは拘束した二人に近づいていく。五歩分ほどの距離を空けてヒストリカが止まると、錬金術師は口を開いた。
「やあ。俺たちのところに来る気になった?」
暢気な表情と声音にヒストリカは眉を顰める。
「お前は本当に他人の話を聞かないね」
「ていうか、そこの若者は誰だよ。魔法族の難解な陣を一発で描けるなんて、助手かなにか?」
「関係ないし答える義理もないよ」
錬金術師は喉を鳴らすような肩の竦めかたをした。おどけたような様子。今のヒストリカはアイオネにとって驚くほどそっけないが、彼にとっては慣れたものらしい。彼はもう一度ヒストリカに向き直る。
「おいでよ。また俺たちと仲良くやろう。この悪趣味な束縛も許してやるよ」
「黙って。私はお前を許す気はない」
「どうして、魔女裁判の拷問から助けてやったのは俺だろう?」灰色の瞳が欲張るように細められる。「それとも、ずっとあそこにいたかった?」
ヒストリカは表情を落とした。けれど、青い瞳だけは、あの絵のように爛々と燃え上がる。
「お前が生きているのなら、そんなのどこも同じじゃないか」
ヒストリカが杖を向けるよりも先に、錬金術師は行動を起こす。
指で袖口から器用に試験官を取りだし、拘束する木々に試験管ごと中の液体を叩きつけた。硝子の破片から漏れた液体が木々を溶かしていく。ほんの数瞬で二人の体は自由になる。その隙に、魔法使いは杖を振るった。
「灼熱の炎出でよ!」
「凍結の氷出でよ!」
咄嗟に魔法の攻防が再開される。アイオネたちが炎に掴まる前に、地面から数本の氷の柱が柵のように現れる。凍った壁に炎の光が映えて溶けた水が滴った。
ほのかな熱と冷気を感じながらアイオネは口を開く。
「さっきの、高濃度の強酸か……それでも腐食反応が速すぎた」
「詳しくは知らないけど」ヒストリカは一歩下がって言った。「《背徳の錬金術師》は錬金術と魔法の融合を研究していた。一時的な形状変化や促進作用、反発物の掛け合い調べ合いなんかの補助の加担を《裏切りの魔法使い》が行っているようだよ」
「あれはとても面倒な相手ってわけか」
おそらくこれこそがヒストリカの懸念していた問題だろう。魔法が使えないからと勝手に戦力外と認識していたが、実際はかなり厄介だ。
錬金術は帰納学の始祖。始まりこそ卑金属から金を精錬しようとする奇っ怪な学問であったが、今日では自然界の規則や物質の性質、構造を理解し、結合させたり分離させたりする、立派な化け学――伝統的な知だ。1500年代盛期に廃れるかと思いきや、ほぼ同じ形態で現在の最盛期を迎えた、その理由はそこにある。錬金術は多くの学問に精通する、まさしく真理なのだ。
その知識を十二分に携え、魔法という超越的な学問までをも味方につけたのなら、もう怖い物なんてないだろう。