裏切りと背徳 6/8



 首だけで振り向いたヒストリカにアイオネは続ける。
「あんた、魔法陣と呪文、両方使うだろう? なにか違いはあるのか? どういう使い分けをしてるんだ?」
 ヒストリカは「ああ」と頷いてから説くように話しだした。
「魔法陣と呪文はさほど変わらない。どちらも同じさ。ただ原形か省略形かって違いだけ」
「文法的な言いかただな」
「そうだね。おそらく君が思っているよりも、魔術は無秩序なものじゃない。魔術とは学問であり、魔法陣を組み立てることで魔法を扱えるようになる。魔法陣は式のことなんだ。だから根本は数学と似てるかな。ほら、魔方陣≠チてあるだろう?」
 ヒストリカが例えとして挙げたのは、誰しも一度は遊んだことのある数字のパズルだった。魔方陣。正方形の方陣にそれぞれ数字を配置し、縦・横・斜めのいずれの列についても、その列の数字の和が同じになるよう埋める遊び。
「魔法陣と魔方陣は非常によく似ている。原理が同じなんだ。魔法陣を描くとき、陣の中を犇めく魔術式の記号がどこからどう計算しても均等であることが必要不可欠となる。この魔法の計算を魔算と言うんだけど、魔算が正確でないと正しい魔法は使えない。あえて均衡を崩して陣を乱れさせる魔法もあるけど、それはおそろしく危険な魔法だけだ」
「じゃあ呪文は?」
「呪文は魔法陣を省略化したものと思ってくれていい。これも数学と同じ。一足す一と言うより二と言ったほうが早いだろう? 削れるところを削っただけだよ。簡単に簡略化できるもののほとんどは陣の発見者が呪文に変換してくれている」
 つまるところ。魔法陣は計算式、呪文はその短略式、ということなのだろう。思ったよりも理屈っぽいことを言うんだなと思った。魔術が学問であることはあらかじめ聞いていたが、そのように法則があり、簡素なものに置き換えることさえできるとは。
「魔法をかけるときの杖っていうのは絶対に必要なものなのか? 話を聞くかぎり式が重要なだけで、あんまり必要なものだとは思えないな」
「いいところを突くね。実際、杖の役割はさほどない。呪文は最悪唱えるだけでも効果があるし、魔法陣だって同じ。まあ、陣の場合は発動呪文を唱えなきゃいけないわけだけど」
 アブラカタブラ。
 アイオネは心中で呟いた。
「杖は魔法の方向を定めるためのコンパスみたいなもの。もしくは陣を描くための道具」
「案外軽いもんなんだな」
「そうでもない。杖がなくても発動はするけど、杖がないと暴動する。アイオネ、君は筆もなしに絵を描けと言われたらどうするつもりだい?」
 どうしようもない。
 アイオネは押し黙った。押し黙るしかなかった。
「ちなみに、杖自体に魔力的ななにかがこめられているかと聞かれたら、もちろんそういうわけでもないんだ。素材は単純。作ろうと思えば――覚悟さえあれば――誰にだって作れるよ。だからこそ、魔法族以外が杖を持ったり呪文を詠唱したりしても意味はない」
「じゃあ、その背中で大事に温めてある書物はなんだ? 時々開いているのを見るけど」
「魔導書。数式のように解明された数多くの魔法陣や、それを省略した呪文を全て覚えるのは困難だからね。魔法族は魔導書を持って詠唱する。便覧みたいなものだよ。新しい陣を発見したら描きこんだりもするかな。だから持つ者によって、魔導書は厚みも情報量も違う。自慢じゃないけど、私の魔導書はなかなか知識が豊富なんだよ」
「へえ」
 白状すると、アイオネもまさかここまで答えてもらえるとは期待していなかった。
 予想に反してヒストリカの舌の滑りは良い。研究家なため、その手の質問にはついつい答えてしまうのかもしれない。もしくは、言及していい範囲の話だと思ったか。こんな突飛な話、もしアイオネが吹聴したとしても、聞かされた誰もが信じない。それに理屈を知ったからといってアイオネが魔法を使えるようになるわけでもない。話したところでヒストリカには不利益などないのだ。だから世間話のように軽々しく口に出せるのだろう。
「……近いみたい」
 ヒストリカは立ち止まった。
 アイオネが肩口から覗きこむようにヒストリカの手元を見ると、魔針盤の針は左方向を指していた。ちらりとそちらを見遣ると、亜鉛メッキ鋼板の扉。雨風のせいで少し錆びてしまったような独特の色味が不気味さを醸しだしている。
「君はここで待っていて」
 ヒストリカはアイオネに告げる。
「え? 行くつもりだったんだけど」
「ここまでついてくるのは許したけど、これ以上は許さない」ヒストリカはアイオネの顔も見ずに言う。「君自身わかっているとは思うけど、来られると足手纏いになるんだ」
 これがもし、自分の体を気遣うような発言だったら、アイオネは強く出ることができたに違いない。心配するなと笑い飛ばして、一も二もなくその扉を開けてみせただろう。だがヒストリカが選んだのはそれとは違う言葉だった。
 アイオネが「卑怯だ」と呟くと、ヒストリカは微笑んだ――ような気がした。覆面の奥など見えないので、気のせいかもしれない。
「ここいるのは《裏切りの魔法使い》だけじゃない、おそらくもう一人いる。とても危険だ。絵のことならともかく、この件についてはこれ以上関わらないほうがいい」
 歯痒さに拳を握りしめるアイオネ。答えの知っている問いを、白々しく投げかける。
「そいつらを見つけたら、あんたはどうするんだ?」
 ヒストリカは押し黙った。その代わりに、音を立てないよう、ゆっくりと目の前の扉を開けたのだ。周囲に人の気配はないようなので大きく扉を開かせる。後ろ手で閉じようとしたところで、自分のものではない力が扉に加えられるのをヒストリカは感じた。数歩踏みだしてから目の前にあった樽の群れに手をつく。振り返るのと扉が閉まったのは同時のことだった。
「……なんで来るの」
 ヒストリカの代わりに後ろ手で扉を閉めたアイオネは、堂々と言葉を返す。
「俺とあんたの約束は一つだけ。あんたは俺に絵を描かせる。俺はそれを誰にも見せない」
 そう言うとヒストリカに近づいた。いつかの日のように覆面を脱がせて、それをヒストリカに差しだした。
「だから、それ以外の言うことは聞かなくていいぜ。俺もあんたも」
「帰って」
 無理矢理覆面を取られたヒストリカの髪は乱れていた。ひたすらに青い双眸が、アイオネを淡く射抜く。差しだされた覆面を奪うようにもぎ取って、淡々と告げた。
「邪魔なの。お願い。帰って」
「そのお願いは聞けない。心配なんだよ、ヒストリカ」
「……心配?」
 ヒストリカはアイオネの真意をうまく汲み取れずにいた。
 彼がここまでする意味がわからない。
 どうして自分に興味を持ち、こうして関わろうとするのか。
 なにも知らずに楽観的に考えているのならまだ救われるのに、残念ながら彼はある程度知ってしまっているようだし、ヒストリカが望むほどばかでもなかった。彼がばかだったなら、どうしてと問いかける暇もなく罵れたなら、いったいどれだけ楽だっただろう。
 そうとも知らずにアイオネはヒストリカの隣に立つ。それがヒストリカには理解できない。
 この場にいて、アイオネにとって得になるようなことはなにひとつもないはずだ。本当に彼を信じていいのだろうか。考えれば考えるほど、ヒストリカの指先は冷えていった。
「……私は君を守れるけれど、君は私を守れないだろう」
 アイオネは眉を下げて、「そこまで無能でもないさ」と告げる。
「それに、自分の身くらいは自分で守ろう。不肖ながら、極めて最善を尽くすつもりだ。俺だって、あんたを描き終えるまではこの筆腕、指の一本だって、くれてやるつもりはないぜ」
 その言葉に、ヒストリカはそうかと納得した。
 彼が自分を追いかけるのは、絵が完成しないことを恐れているからだ。だから、こうも自分のことを気にかける。腑に落ちてみれば、恐れるに足りない。
 おとなしくなったヒストリカに訝しみながらも、アイオネは声を潜め、屈み気味に呟いた。
「その《裏切りの魔法使い》とやらは危険なのか?」
「……そうでもないさ。魔法でなら私の勝ち。それよりむしろ……」
 その先の言葉が気になったが、ヒストリカは続けずに歩きだす。
 物音を立てないようアイオネも後についた。
 おそらくここは貿易倉庫なのだろう。高い天井ぎりぎりまで、大量の四角い木製梱包材が中身を伴った状態で積み上げられている。酒や蜜の類が入った樽もそこかしこに並び、どこからかは燃料の匂いもする。その他にも、船舶の竜骨キール、青銅の剣、いかがわしい液体の入った瓶、植物の種や香辛料、砂糖などの調味料まで、ありとあらゆるものが無造作に散りばめられていた。
我らが足音静粛にベキュイエツ・フォーツステプス
 いつの間にか杖を出していたヒストリカが足元へ向けて呪文を唱える。次に足を踏みだしたときには完全に音が消えていた。ヒストリカは上へと続く階段を指差した。これを上るということだろう。階段は安っぽい金属でできていて、歩けば響きそうだ。それを危惧しての足音を消す魔法だったと推測される。
 二人はあたりを見回しながら階段を上っていった。上った先はキャットウォークだ。ギャラリーのようなスペースもない。天上の吊り金具から垂れ落ちた縄が雪崩れこみ、埃から保護するのが目的であろう襤褸が意味もなく手すりを覆っている。窓とも呼べない簡素な枠から外の明かりが漏れているだけで、たいへん薄暗かった。
 ヒストリカは襤褸に隠れるようにしてキャットウォークの周回を始める。下階を覗きこみながら慎重に足を進めていった。手元の魔針盤はほとんど動かない。おそらく相手が近いのだろう。ちらちらと魔針盤を確認しながら雑多な倉庫に目を凝らす。
 ヒストリカの足が止まった。
 見つけたのかとアイオネはヒストリカの目の先を追う。
 紡績機が散乱するスペースだった。すぐそばにある金属でできた棚は不思議な色をした薬品で埋めつくされている。その棚の前は妙に片づけられていて、私物であるとも思われる豪華な椅子が二つだけ並んである。狙われているとはつゆほども気づかず、そこに標的は暢気に腰かけていた。
 興奮気味に「見つけた」とヒストリカは呟く。
 目線の先は、まだ十分に若いと言える二人組の男。
 一人は癖のある黒髪の男だった。前髪で左目が隠れているが、それでもその顔の瑞々しさは見てとれる。見た目はアイオネと同い年くらいだ。表情が読みとりにくいのは前髪のせいだけではない。猫背なわけでもないのに、彼の頭は俯きがちだった。
 もう一人のほうはいい身なりをしている。滑らかなフロックコートは金ボタンを有する一級品。栗毛を被った顔はあどけなく見えるが、おそらく童顔なだけだろう。それがわかるほど佇まいには魁偉な貫禄があった。こちらの年齢も、アイオネのそれとそう変わらないように思える。
「あれが《裏切りの魔法使い》か?」
「黒髪の陰気そうなほうがそう。もう一人は《背徳の錬金術師》、胸糞悪い耄碌野郎」
 彼女にしてはかなりいただけない口の聞きかただった。その可憐な唇からこぼれたとは思えないほどだ。若干引きながら、アイオネは尋ねるように言う。
「……どっちも若いな」
「見た目だけはね。だけど、私が彼らに初めて会ったときは、ほとんど死にかけの老人だった」
「と言うと?」
「原理はわからないけど若返ったってこと。本当の年齢は二百五十歳くらいじゃないかな」
「とんだじじいだな」
「私だってとんだばばあだよ」
 そう言われると、アイオネは黙るしかない。ヒストリカの見た目はアイオネと同い年かその少し下ぐらいなのだが、少なくとも彼女は二百年の時を生きている。
 ヒストリカはゆっくりと魔針盤を地べたに置いた。襤褸を掻き分けて、銀白の杖を二人のほうへ向ける。杖の先はかすかに震えていたが、彼女が放った呪文は狙い通りに命中する。
止まれフレーゼ!」
 反響した声に二人は立ち上がるも、その瞬間に魔法にかけられた。ぴたりと動けなくなってしまったようだが、眼球を動かすことや声を出すことはできるらしい。キャットウォークに立つヒストリカを見て二人は目を見開く。立ちつくす錬金術師のほうの男が、うっそりと口角を上げる。
意のままに動けアクタスミミンド!」
土くれクレイドール!」
 青銅の剣を操って二人を貫こうとしたが、庇うようにして現れた陶磁器質の巨大な騎士に阻まれる。おそらく脇にあった木箱の中の土から生みだされたのだろう。剣は跳ね返って落下。魔法使いの男が文言を唱えると、金縛りはほどけ、二人は自由の身になった。
 魔法使いは外套のポケットから杖を取りだした。ヒストリカのものよりも短い、金色の瞬きを持つ杖だ。臨戦態勢。それを獰猛に振るって呪文を唱える。
灼熱の炎出でよデヴァスタティング・フィレ
砕けてしまえフラグメンティントピーケス
 ヒストリカは襲いかかる炎禍を避けながら呪文を唱える。ヒストリカの放った魔法は陶磁器質の騎士を穿ち、あっけなく粉砕させた。
 逃げきったとはいえ、まだ魔法で現れた炎の熱さがアイオネの半身に滲んでいる。耐性はなくもないが、それもわずかだ。魔女と魔法使いという夢物語でしかない存在同士の攻防線を、当たり前だが初めて見た。見つめることしかできなかった。
「捕まりに来てくれたのヒストリカ!」
 戦いの最中だというのに、錬金術師は涼しげな瞳を細めて高らかに笑いかけた。
 あまりにも場違いな嬉々とした表情と言葉に、アイオネはぞっとする。
「殺しちゃだめだからね、ザッカリー。生きたまま捕獲しろ。どうせ死なないだろうけど!」
「わかってるさ、ドリスタン――稲妻出でよロアル・ケラウノス!」
 雷のような光線が降り注ぎ、キャットウォークの手すりが壊れていく。それに伴い、かかっていた襤褸も下階に落ちて大きな布溜まりを作った。キャットウォークの端ぎりぎりにまで踏みこんだヒストリカが見下すように首を傾げる。
「この前はお前の騎士ナイトの世話になったよ。お姫様」
 攻防の切れ目。杖を向け合いながらではあるが生まれた静寂。その一時に、ヒストリカは言葉を投げた。それに乗るように魔法使いも口を開く。
「それは俺の台詞せりふだ。見事に逃げおおせてくれたようで。大魔女め」
「この町にまで追ってきて、お前たちは命知らずなの?」
「命知らずはお前のほうだろ」
「どうして? まみえる君は、私を殺す度胸も力もないくせに」
 挑発であろう一言に魔法使いはまんまと引っかかった。一瞬で目を鋭くさせて杖を振るう。



return/march


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