裏切りと背徳 5/8



 ヒストリカが完全に出ていったのを見送ってから、ハロルドはアイオネに近づいた。
「まさか取引を成功させるなんてね。驚きだ。それに、怖くなかったの?」
「なにがだ?」
「魔法でどうにかされることがだよ」ハロルドは呆れるように言った。「ずっと杖を向けられていただろう? 言葉を選ばないと、一瞬で牙を剥かれるところだったよ。勇気があるね」
「ヒストリカがそんなことするわけないだろ」
 なにを言ってるんだ、と不思議そうに眉を顰めるアイオネに、ハロルドは一瞬呆けてしまった。それから感慨深そうに腕を組んで「なるほどねえ」と呟いた。
「君って勇敢なのかと思ってたけど、ただの暢気な箱入り息子だったってわけか」
「どういうことだよ、おい」
「貶してはいないよ。決してね」ハロルドは苦笑する。「けれど、彼女が干渉を許すことが、誰かを信じるということがどれだけ稀有なことなのか、君だけは知っておくべきだ」
 そう言ったハロルドはアイオネの肩にぽんと手を置いた。それからひらひらと手を振って部屋を出ていく。
 他人の生活観が感じられる空間によそ者の自分一人というのは少しだけ居心地が悪い。けれど、そんなのは些細なことだと思えてしまえるくらい、アイオネの気は昂ぶっていた。
 結局その日は白亜地を塗り重ねる作業で一日を終えてしまった。実際に筆を手に取るのは地が乾いてからだ。腕も完全に治療され、痛みも違和感もなくなった。使っていたベッドとその仕切りのカーテンの範囲内を、アイオネの生活スペースとして、ハロルドは認めてくれた。床に新聞紙を敷くことで、その上で絵を描くことも許してくれた。
 いよいよ翌日から絵画制作となったが、そう長いあいだ絵に取りかかれるわけでもなかった。アイオネに付き合って施療院に留まるヒストリカも、昼間はわけのわからない魔法陣の算出などで地下室にこもっている。魔法は学問――その言葉の通り、彼女は自分の知や式を生みだすことに余念がなく、結局、モデルとしてアイオネの前に現れるのは、絵を描くのにとんと向かない、夜になってからだった。蝋燭の火を明かりに、ヒストリカを窓際に座らせてエスキース、その後、大まかな下書きを画面に施す。モデルに慣れないヒストリカが身じろぎやあくびをするたびに、アイオネは唇を噛み締めながらヒストリカを睨んだ。二晩で下書きを終え、実際に絵の具を使い始めたのは三日目の夜。ようやっとかとヒストリカは思ったが、ここからが長い試練の始まりだった。オイルを混ぜて描く油絵の、その絵の具の乾かなさと言ったらなかった。慣れたアイオネは平気な顔をしていたが、丸一日経ってもぎとついている画面なんてヒストリカには理解できない。まだ絵の具が乾いていないから続きを描くわけにはいかない。そう言われてずるずると滞在期間が延びることを危惧したヒストリカは、色塗りに移行してから四日目の夜には、魔法で画面を乾かすという荒業を行った。普通にやるよりも進捗は増し、日を置くことなく筆を握れることに、アイオネはたいそう喜んだ。
 亜麻の端切れにも白亜地を施していたアイオネは、暇を持て余した昼間には、その小さなキャンバスに自由な絵を描いていった。まるでハンカチに施した技巧の刺繍のような絵を、ハロルドはいたく気に入った。施療院の壁のあちこちに飾られることになり、訪れた患者たちの足を数歩躊躇わせることになる。絵は瞬く間に施療院の名物になっていった。
「個性的な雰囲気のある絵だね。畏まった感じがしなくて僕は好きだよ」
「まあ、アカデミーには受け入れられない代物だけどな」
 素直な賛辞は嬉しかったが、アイオネは肩を竦めてしまう。
 豪壮華麗・繊細優美な風潮から1800年初頭に一変。現在アカデミーが推進する、装飾的官能的表現を抑えた堅苦しい芸術が主流となった。だが、アイオネの絵は、変化する前の絵画に影響を受けている。新しき豪壮華麗。その言葉がしっくりとくる特徴的な画風だ。
「不思議だね。私には、十分素晴らしいものに見えるのに」
「描く対象もだめなんだ。本当は、あんたの裸婦画を描きたいんだけどな」
 アイオネは筆を動かしながら、星が綺麗ですねなんて調子でそんなことを言ってのけた。
 窓際に腰かけてじっとしていたヒストリカもさすがに顔を濁らせる。
「アカデミーじゃそういうののほうが評価される。一糸纏わぬ愛と美の女神の誕生とか。でも、巨匠ならともかく、俺みたいな名無しの画家のモデルをやってくれる奇特なレディなんていないだろ。ヒストリカ、俺のために脱げる?」
「無理だよ」
「だよなあ」
 アイオネの視線はずっと画面に向いていて、漏れたため息には予想していた落胆が滲んでいた。結局、その日は、アイオネの口の端からあくびが決壊したところで、作業は打ち切られた。
 そんなこんなでアイオネとヒストリカの取引は、交わしてみれば存外平和的に取り持たれていた。夜、眠る前に時間を拘束されてしまうことも、ヒストリカにとってはそれほど苦でなかったようだ。約束の都合上、描いた絵をアカデミーのサロンに応募できないのがアイオネにとって惜しいところだったが、ヒストリカ=オールザヴァリを描けるという喜びを天秤にかければ、そんなものは微々たる憂いだった。
 そして、それは、ある日のことである。
「今日は外に出る。いつ帰ってくるかわからないから夕餉はいいよ」
 夜ふかしのせいで中途半端な時間に起きてしまったヒストリカが、スープを飲む前にそう言った。ずっと地下室にこもっていた彼女にとっては久々の外出だった。
「了解。もし間に合いそうなら帰りに薬草店でキナの樹皮とアシュワガンダを買ってきてもらってもいいかな? どちらも一瓶分」
「期待はしないでね」
 ハロルドは「ありがとう」とにこっと笑ってから食事を再開した。
 アイオネは一連の様子をじっと見つめていた。
 二人よりも先に食事を終わらせたアイオネは、カウンターで絵の具の調合を行っていた。ラピスラズリを粉末にしたものをその他と一緒にペインティングナイフで練りこんで、練り棒で一仕上げしたあとだ。空チューブに詰めこみ、尻を折り畳みながら、「どこに行くんだ?」とヒストリカに問いかける――彼女はなにも答えなかった。
「……俺も行くぞ」
 そう言ったアイオネに対し、さすがにヒストリカも一言拒まざるを得なくなる。
「どうして君がついてくるの。歩きながら絵を描くわけじゃないんでしょう?」
「また変なのに襲われたらどうするんだ」
「心配ご無用。それに、私はおりが得意じゃないんだ。お利口にして待っていておくれよ」
「……いいだろう」
 意外だった。いささか情熱的、、、なところもあるアイオネがこんなにあっさり引き下がるなんて。
 怪しい。なにか仕掛けてくるに違いない。
 絵の具の調合を終え、アイオネは道具を片付けた。作り終えた赤と青の絵の具を持って、そさくさと部屋を出る――怪しい。怪しすぎる。気をつけたほうがいい。ヒストリカはスープをかっ食らってから、アイオネに気づかれないよう静かに施療院を出た。


▲ ▽



 リックのいでたちで裏口から外に出たヒストリカだったが、気を抜くことはなかった。
 念には念を。
 実際に追ってきているかもわからない相手を撒くために、わざと複雑な道を選ぶ。
 施療院のある漁村近くは、騙し絵の町と言われるほど、あらゆる建物の壁面に絵が描かれてある。見ているうちにどれが本物なのかわからなくなり、迷子になる観光客も少なくない。道が続いていると思いきや騙し絵、誰かいると思いきや騙し絵。こんな珍奇な町を迷いなく歩けるのは、この町の住民と、長く生きているヒストリカくらいのものだ。
 さすがにもう大丈夫だろうと、ヒストリカは肩の力を抜く。
 ヒストリカは魔法陣の描かれたシャーレを持って歩いていた。そのシャーレを見るのに夢中になっていると、ふと誰かとぶつかってしまった。相手は謝ることなくヒストリカの脇を通りすぎる。一方のヒストリカはよろけてしまい、のそっと体が傾いた。そんなヒストリカの腕を誰かが掴む。こける寸前だったその体を掬い上げたのは、
「エスコートしましょうか、マイレディ?」
 完全に撒けたと思っていたアイオネだった。
 覆面なので表情は変わらないが、ヒストリカは驚いていた。確認するようにあたりを見回してから小さな声で「君、どうやって、なんでいるの?」と尋ねる。
「みくびったな。あんたの頭の中の俺よりも、実際の俺は情熱的だったってことだよ」
 しかしその情熱は、ヒストリカにとっては怪しげな意慾いよくでしかない。
 表に出せない分、ヒストリカは鋭い声で「なにを企んでるの」とアイオネに吐いた。
「企むとは失礼だな。花と芸術の都を駆けまわった仲だろ」
「おかしなことを考えないほうがいいよ。男の子の矜持を傷つけるようで悪いんだけど、私は君をどうにでもできるだろうから」
「俺に生娘のような反応を求めても無駄だぞ」アイオネは両手を広げて言ってみせた。「それと、別になにも企んでないったら」
「かわいげがないね。だったらどうしてついてくるのさ」
「ていうか、さっき誰かとぶつかってただろ。気をつけないとだめだぜ」
 もうわけがわからなかった。自分の腕を引っぱりながら「こっちか」と歩きだすアイオネに、ヒストリカはため息をつく。本来ならこの姿でしゃべるのはあまり得策ではないのだが、非常事態だ――周りに聞こえないような音量で、ヒストリカはアイオネに言う。
「アイオネ、院に戻って。君を連れて行くわけにはいかない」
「戻りかたを覚えてない。こんなへんてこなところに置き去りにするつもりか?」
「勝手についてきたんでしょう。そんなに不安なら私がついていってあげるから」
「そんな面倒なことはさせられない。諦めて俺を連れて行け」
 アイオネは譲らなかった。
 もうなにを言っても無駄だろうと、ヒストリカは放っておくことにした。
 別の道へ進もうとしたアイオネの袖を引っぱる。こっちだと違う道を指差して、先導するように歩いていった。人の目を気にしてしゃべることはしなかったがアイオネを無視しているというわけでもない。思いのほかしっかりとアイオネを導き、シャーレを確認しながら目的地を目指していった。
 アイオネはヒストリカの持つシャーレをじっと見つめる。
 各辺には補強用の金具。底には魔法陣。蓋の上には時計のような針が釘で打ちつけられている。シャーレの中には見覚えのある土のようなものが入ってあった。それをまるで羅針盤かなにかのように携える様は、はっきり言って異様だ。
 アイオネの視線に気づいたヒストリカは黙ったまま見上げる。それから立ち止まり、シャーレを持つ手でアイオネの手の平を器用に手繰り寄せた。アイオネが不思議に思っているあいだに、もう片方の手の指で奪った手の平に字を綴る。
〈気になるかい?〉
 さっきまでの自分の行動を振り返れば、なにに対してのことかなど容易に想像できた。
「その陣、ずっと算出してたやつだよな」
 ヒストリカはもう一度アイオネの手の平に字を書こうとしたが、アイオネは握ることでそれを拒む。苦笑混じりに「くすぐったいんだ」と言った。胸ポケットからペンと紙を取り出してそれをヒストリカに持たせる。出会ったときにずっと行っていた意思疎通方法だ。
〈よくわかったね〉
「ずっと見てたから。なにか魔法がかけられてるんだよな。それはなんだ」
〈聞いてどうするの?〉
 その言葉を最後にヒストリカは歩みを再開させた。
 拗ねたような顔をしたアイオネもすぐに後を追う。
「気になるものは気になるんだから、しょうがないだろ。それはなんのためのものだ? 中に入ってるのはなんだ? これからどこに向かうんだ?」
 犬のようにあちこちから声をかけてくるアイオネに、ヒストリカは目を回すようにして空を仰いだ。表情が見えないためなんとも言えないが、おそらく呆れているのだろう。もう一度ペンと紙を取りだしてアイオネに向けて綴る。
〈君に教えて、なにかいいことでもあるの?〉
「ある。ヒストリカにとっても有益なことだ」アイオネは自信満々に言う。「俺のご機嫌とりさ」
 呆れ気味の筆致で〈君の機嫌をとってなんになるんだい?〉と尋ねるヒストリカ。
「回し続けたオルゴールのようなこの口が鳴り止んでくれるかもしれない」
 少し考えたあと、ヒストリカは〈ならいいや〉と返した。
 アイオネは驚いたような顔をする。
 そんなアイオネに、ヒストリカはもう一言重ねた。
〈私は、そのオルゴールの音色が嫌いじゃないんだ〉
 アイオネは数瞬固まったあと、唇を尖らせる。
 ヒストリカは笑った。肩を小刻みに震わせる無音の逸楽だった。
〈けれど、今度は故障してしまったと嘯かれては、少し寂しくなってしまうな〉
 通行人の邪魔にならないように道の端に寄る。行き交う人の群れに背を向けるように顔を寄せ合い、ヒストリカはシャーレを差しだした。
「この中にはこの前襲ってきた土くれクレイドールの断片が入ってある」
 アイオネは驚いたが、次に続く「君の靴の裏に付着していたのをもらった」という言葉にささやかな失笑をこぼした。
「底にあるのは、成分識別、砂鉄化、方向暗示などの式を組み合わせた魔法陣だ。シャーレの中の土を元に、同じものがあるほうへと上の針が方向を示す。魔針盤ましんばんだよ」
「それで《裏切りの魔法使い》たちを探すのか?」
 何故それを、と紡ごうとした口をヒストリカは閉ざす。以前自らその単語を漏らしたのを思い出したからだ。もちろん彼女が考えている以上にアイオネは知ってしまっているが。
「そうだよ。でも、相手が遠すぎると方角が狂ってしまうから……数時間歩いても見つけられなかったら、餌を撒くつもりではいるけどね」
「餌って?」
「私の匂い」
 ヒストリカは魔針盤を確認しながら言った。
 針が動いた方向へとまた歩きだす。露店が賑わうほうに向かったかと思えば、すぐに路地裏に入った。日は出ているのに、建物の影が濃くて薄暗い。細い道だったので並んで歩くことは難しく、一列になって先へと進んだ。向かい側から誰かが来れば少々もめただろう。ひとがないことに安堵した。
「シャーレにあるような魔法陣と呪文って、なにが違うんだ?」
「え?」
 二人きりの状況下からだろう。ヒストリカは細めることもせずに声を出した。



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