裏切りと背徳 4/8



「ああ、お帰りヒストリカ。無事に彼の鞄を取ってこれたんだね」
 そのときハロルドが部屋に戻ってくる。白衣を脱いで適当な場所に放り投げた。
 ただいまを言う代わりに「お行儀が悪いよ」とヒストリカは呟いた。
「お腹すいたよね? なにか作ろうか」
「いいよ。私は大丈夫。君たちはなにも食べなかったのかい?」
「ヒストリカを待ってたから。とは言え、アイオネの持っていたお菓子をつまんじゃったから、それほどお腹はすいてないんだけどね」
「あんたは食いすぎなんだよ」
「ごめんごめん」
 気さくに会話するアイオネとハロルドを見て、ヒストリカは困ったような顔をした。屈んだ姿勢から上体を起こしてアイオネのほうに目を向ける。
「ねえ、その作業はいつ終わるの? 急かすようで悪いけれど、時間がかかるようならここを発つのも遅くなってしまうよ?」
「あー、ヒストリカ」ハロルドは意味深な咳ばらいをして言った。「そのアイオネなんだけど、君に話したいことがあるんだって」
 ヒストリカはほんのりと目を見開いた。それから、どこか警戒したふうにアイオネに向かい、「へえ、なんだい?」と首を傾げた。
 アイオネは膠液を掻き混ぜる手を止めることなく、ヒストリカに告げる。
「――あんたの絵を描かせてくれ」
 ヒストリカは驚かなかった。けれど、ハロルドのほうを一瞥した。彼はある程度予想していたかのような表情でアイオネを見つめている。ヒストリカはゆったりと体を揺らしながら「おかしなことになったなあ」と呟いた。
「アイオネ、悪いけれど、それはできない」
「昨日のことはもうなにも聞かない。だから、その代わりにあんたを描かせてくれ」
 強情なアイオネの言葉に、ヒストリカはろうけた聖者のような慎重な表情を浮かべる。
 彼女の知るところではないのだが、実際のアイオネは概ねの事実をハロルドから聞いた状態にある。彼女を取り巻く不穏や現在の自分の状況を知ったうえでのこの言葉だ。嘘とまではいかないが、詐欺師のような論弁を唱えている。
 もちろん、その弁を素直に受け取るようなヒストリカではない。舌の根の乾かぬ内に翻した意見は、彼女の中では不審そのものだった。
「どういうつもり? どうしていきなりそんなことを言うんだい?」
「いきなりでもないさ。ずっと思ってた。あんたも知ってるだろう? 俺がどれだけヒストリカ=オールザヴァリに入れあげているか」
「……だから、私を描きたいと?」
 訝しげに、けれど優美に目を細めるヒストリカに、またアイオネの指はひくついた。
 残念ながら、先ほどのアイオネの言葉には一片の嘘もない。彼女を見てからずっと、指先はずっと筆を求めていた。憧れの大魔女を、その美しき娘を、ただひたむきに描きたいと願っていた。彼女こそが、自分の求めていた描きたいものなのだと、強く確信していた。
「あんたもさっき言ったはずだ。そういえば俺は画家なんだよ」
 あくまで冷静なアイオネの言葉にヒストリカは首を振る。
「冗談じゃないね。君に描くことを許してしまえば、元も子もない」
「だめなのか」
「だめ」
「どうしても?」
「しつこいよ」
 今朝もした応酬にアイオネは薄く笑う。
「そうだ。しつこいんだ。こればっかりは俺も折れる気はない」
 そう言い切ったアイオネに、ヒストリカはため息をつく。ソファーから立ち上がり、せむしに見せかけた大仰な背中に首筋から手を入れる。すすっと静かな動作で一本の杖を取りだした。彼女が持つ最大の武器。それを、なんの躊躇いもなくアイオネに向けた。
「そう。奇遇だね。私も折れる気はない」
 いままで意識的に動かしていた膠液を混ぜるアイオネの手が、そこでぴたりと止まった。
 緊張に手汗が滲んだ。けれど、視線を逸らすことは絶対にしなかった。
「さすが古くから名高い大魔女、痺れる冗談だな」
「さすが果敢な名無しの画家だ、楽観的な妄想を描くのが得意らしい」
 突き放すようなことを言うヒストリカだったが、その唇から呪文が飛びだすようなことはなかった。戸惑っているのかもしれない。いくら距離があるとはいえ、逃げることも、隠れることも、杖を盗ることもなにもしない、そんなアイオネに少なからず動揺していたのだ。
「ヒストリカ、こういうのはどうだ」アイオネは箆から手を離し、吟遊詩人のような動作で語りかける。「最近流行りの、等価交換だ」
 ヒストリカは反復するように「等価交換?」と呟いた。
「取引ってことさ。俺はあんたをモデルに絵を描く。その代わりに俺はあんたになにも聞かないし、あんたのことを世間に言いふらしたりもしない」
 アイオネの表情をじっくりと読みとりながらヒストリカは返す。
「胡散臭い発言だね。なによりそれは等価ではない。見合わない話に用はないよ」
 この返答は予想の範囲内だった。アイオネは折れることなく次の案を提出する。
「なら、あんたに当分の生活資金を工面するというのはどうだ? ハロルドから聞いたぞ。あんたはもうこの施療院には戻らないつもりだったらしいな。表舞台に立てない天下の大魔女が、背むしの少年が、長い宿泊費や食費、その他諸々の金銭を持っているとは思えない」
「お生憎様、金で買収される気はないな。かわいい財布を連れ歩けるのは魅力的だけれど、君の懐も無限に広がってるわけじゃないでしょう? 名無しの画家くん」
 言ってくれるとアイオネは笑った。
 ヒストリカは笑みなど浮かべない。
「なら無銭の請負人としてならどうだ。使用人バトラー従僕フットマン、あんただけのかわいこちゃんだぜ。家事に身だしなみにアシストまで、なんでもござれだ」
「いらない。やめて」呆れたように悲嘆した。「どれもこれも私にとっては無価値だ。交換にも、交渉にも、取引にもならないよ」
 はっきりとした声だった。ここまで拒絶されるとなると、アイオネにはもう差しだせるものなどない。元より絵を描くことしか取柄がなく、残るは親の金と若く働き盛りな身一つだけなのだ。どれだけ知恵を振り絞ってもこれ以上の妙案など出るはずもなかった。
 ふとヒストリカのほうを見遣ると、不思議なことに、彼女の顔色は曇っていた。
 これだけきっぱりと拒絶して、完璧にアイオネを論破して、なのに表情は薄暗い。後ろめたさから来るものではないことだけはわかる。不可解そうな顔。不安にでも急かされているような、そんな表情で、ヒストリカは口を開く。
「どうして……どうして君は、外套のことを言わないんだい?」
 ヒストリカは昨日買い与えてもらったばかりのケープをそっと撫でる。ヒストリカの青紫のスカートと映えるような、日を浴びて萌えるような若草色。元々着ていた外套の賠償としては天と地ほどの差がある高級品だ。
「君はばかじゃない。どうしても交渉したいなら、外套のことを言えばいい。お前にやるにはあまりに高額な代物だ、詫びとしては釣り合いが取れない。そう、外套を元に交渉すればいいのに、どうして」
「それは俺があんたにあげたものだ」当然のようにアイオネは首を傾げる。「あと、それはあんたにやるには妥当な値段だったよ。似合ってるぜ」
 その言葉にヒストリカは目を見開いた。
 彼がヒストリカに与えたものは高額すぎる外套だけではない。リックと騙った姿で彼と行動を共にしたとき、ソルベや劇場の観賞代、遊覧代に至るまで、全て彼が支払っていたのだ。彼はあまりにも金を費やしてしまっている。今この時点で、簡単に返せないような大きな借りが、ヒストリカにはあったのだ。それなのに彼はどれ一つだって口にはしなかった。
「……ヒストリカ?」
 アイオネの呟きなど、ヒストリカの耳には届いていないようだった。
 カウンターを出て彼女に近づき、ゆっくりとその顔を覗きこむ。
 信じられないものを見るような、信じていないから見ることさえできないような、そんな張りつめた無表情をヒストリカは浮かべていた。白く柔らかそうな皮膚はどこにも皺など寄せていない。自然体で凍てついている。ただその碧眼だけは、今にも叫びだしそうに見えた。
「……いい」
 ぽつんとした響き。彼女がなにを言ったのかわからなくて、アイオネは顔を寄せる。
「絵はどこにも出さない、見せないこと。それが守れるなら、いい」
 それは承諾の言葉だった。
 アイオネは弾むように顔を綻ばせる。
「本当か!」そう言った矢先に、もう一度彼女に同じことを言わせることになるのを危惧し、さらなる言葉を続ける。「絵を描くには場所と、時間がいる。しばらくここにいてもいいか?」
「それは坊やが決めることであって、私がどうこうする問題じゃない。二人の好きにして」
 それ以上ヒストリカはなにも言わず、部屋を去っていく。それと同時にアイオネはハロルドに顔を向けた。ハロルドの「君一人ぐらいなんてことないよ」という言葉に、アイオネは全身を弾ませた。あどけない嬉々がその顔に浮かぶ。



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