裏切りと背徳 3/8



「こうなったら僕はもうなにも話してあげない。どうせすぐに記憶を消されるんだから、ヒストリカが帰ってくるあいだ、散々に悩むといいよ」
「見捨てるなよ。彼女を熱く語った仲じゃないか」
「君って大概いい性格をしてるよね。そして、その魅力が自分自身の首を絞める。まあ、わかってやってよ。彼女が君を突き放すのは、君のためでもあるんだ。それともなに。君は彼女と引き剥がされるのがそんなに嫌なの?」
 ないだろう、という言葉を滲ませるハロルドにアイオネは押し黙った。
 言い返すこともできたけれど、彼にはわからない感情だろうと口を閉ざしたのだ。
「まあ、等価交換とでも思えばいい。たしか錬金術の基本だっけ。代償だよ。僕から知を得た代わりに彼女に知を消される。知の習得を分離してみれば、知の消滅が精製される」
「それは違う」
 アイオネは断言するように言った。駄々をこねるような否定が続くのかと思いきや、次に発せられた言葉の羅列に、ハロルドは目を見開く。
「等価交換だから分離精製なんじゃない。分離精製だから等価交換なんだ。粗雑なるものから精妙なるものを、ゆっくりと巧みに分離する。元ある物からは元ある物しか生みだせない当たり前。等価交換っていうのは質量保存の法則のことを指しているから、精製されるのは根本の変わらない同質のものでないと成り立たない」
 一瞬、なんの話をしているのかを、ハロルドは計りかねた。けれどすぐ、己の言葉にアイオネが真っ向から返答してきただけだということを理解する。寸分の比喩も婉曲もない。返答があまりにも一直線だったので狼狽えただけだ。しかし、そのまっすぐな言葉はハロルドが引っかかりを抱くに値するものだった。
「まるで……錬成について深い知識があるような言いかただね」
 ハロルドの瞳は興味という気色に彩られていた。
 アイオネは挑発するように「俺に興味が湧いたか?」と問いかける。
「ふふっ。ヒストリカは君をただのしがない名無しの画家だと言っていたはずだけどね」
 ただのしがないとまでは言ってない。
 だが、思わぬところで彼の好奇心を引き寄せられたものだ。好奇心は猫をも殺すと云うが、猫は殺すよりも手懐けるほうがいい。これまでの彼の行動や、ヒストリカについて解剖したという言動から、彼が根っからの知りたがりであることなど、アイオネには容易に想像できていた。となれば、だ。そこをくすぐってやれば、交渉道具になり得るかもしれない。このアイオネ、見た目と生まれ育ちに反し、一筋縄ではいかぬのである。
「ならば殿下よ、交換条件だ」アイオネは人差し指を立てる。「俺の身の上と引き換えに、知りたいことを教えろ」
 その発言にハロルドは眉を寄せる。
「僕と取引しようってこと?」
「これこそ等価交換だろうが」
「本当にそれが等価だという保証はどこにもない」
「そう見限られるなら残念だが、安寧がお好きなら賢い判断だ。あんたはこれから先、この日のことを思い出して、魚の大きさを確認するのが怖くて釣り逃がしてしまったと、そう思いながら生きていけばいい。実に麗しい日々だろうさ」
 ハロルドは、うっと、苦そうな顔をした。
 彼がこういう言いかたに弱いだろうことを、アイオネは見抜いていた。
 冷静になってみれば、アイオネの言葉にはなんの信憑性もなく、彼がこのように頭を悩ませる必要など毛頭ない。けれど、どうやら未知に目のないらしい彼は、「いいだろう」と口を開いてしまう。かかった、とほくそ笑んだアイオネに、気づかなかったことを祈るばかりである。
「で、君はなんなの?」
 ハロルドは星のようにきらきらとした目でアイオネに尋ねた。
「話すのはそっちが先」アイオネはハロルドを指差した。「忘れてくれるなよ。俺のおあずけ、、、、はあんたよりも長いんだから」
 そう言えば、ハロルドは渋々納得した。先ほど縫いつけた話をもう一度広げるように促すと、今まで足りなかったものを補うように話してくれる。
「昨晩、君を……正確にはヒストリカを狙ったのは《裏切りの魔法使い》だ。この男はヒストリカを狙うもう一人の人間、《背徳の錬金術師》と共に二百年以上を生きている」
 裏切りの魔法使い――それは昨夜もヒストリカの口からこぼれでたものだった。
 背徳の錬金術師のほうは初耳だが、昨日からずっと聞き慣れない見慣れない体験をしたのだから今さらだ。
「この二人は肩を並べ、長らくヒストリカを追いつめていた。始まりは、もう二百年も前のことになる、魔女狩り時代だね」
「魔女狩り? その錬金術師はともかく、魔法使いのほうだって同じ魔法族だろ」
 魔女狩りと言うから勘違いしやすいのだが、裁判及び死刑罰の対象は女だけではなかった。行為そのものを魔女狩り・魔女裁判と呼ぶだけで、文字通り炙りだされた、、、、、、魔法族の男、つまり魔法使い≠烽「るはずなのだ。
「だから《裏切りの魔法使い》だとヒストリカは語る。彼は魔法族の仲間を裁判側に売った。僕も全てを聞いているわけじゃないからぼんやりとしかわからないんだけど、この魔法使いと錬金術師はヒストリカにとって、いや、魔法族にとって、許しがたい相手みたいだ」
 口では「なるほど」と言ったものの、アイオネはほとんど理解できていなかった。わかったことといえば、昨日襲ってきたのが《裏切りの魔法使い》であることと、そいつと仲間らしい《背徳の錬金術師》の二人がヒストリカの因縁の相手であるだろうことくらいだ。
「……要するに、俺は本当に巻きこまれただけなのか」
 アイオネは腰かけていたベッドから降りた。軋む音と床に着地した音が重なる。縫合した腕を気遣うように伸びをして、ゆっくりと肩をほぐす。
「なんにしても、これ以上の関わりはヒストリカにとっても君にとっても害悪にしかならないと思うよ。巻き添えにされる、してしまう身にもなってみてよ」
 ここまで話してもやはりヒストリカの肩を持つハロルド。
 あくまでアイオネは仲間はずれで、その世界に入りこませようとはしない。
 このまま引き下がれば、もうアイオネとヒストリカが関わることはないだろう。
 関わらせないよう、ヒストリカは取り計らう。
「ヒストリカはね、被食者ではないんだ。あろうことか彼女は、いまは失き卓抜の名画『大魔女』のヒストリカ=オールザヴァリだよ。許すまじき因縁の相手を、なんの報復もなく見すごしておくとでも思った?」
 記憶にある絵画の中の少女のぎらついた双眸。
 ここでアイオネは初めて、その秘めたる真意を理解したのだ。
「ヒストリカには悲願がある。《裏切りの魔法使い》と《背徳の錬金術師》を殺すことだ」


▲ ▽



 アイオネには夢がある。それは立派な画家になって、好きな絵を好きなだけ描くことだ。
 けれど、その道は困難だった。いくら世が芸術の盛期を迎えているとはいえ、ほとんど飽和しているような状態なのだ。追い風を受けている人間は自分だけではなく、芸術家はそこかしこに存在する。高みを目指そうにも、アイオネには画家組合ギルドへの紹介状もなく、巨匠に弟子入りすることができない。自力で描く場所を確保しつつ、若手芸術家の登竜門である王立アカデミーの展覧会に絵を応募し、評価されることでしか道は開けない。だが、アカデミーが推奨する絵画は上流絵画。的確なデッサンや丁重な塗り、拡張高く威風堂々とした雰囲気やモチーフが評価対象となる。残念ながら、アイオネの画風、画題とは真逆をいくものだった。
 好きなものではなく評価される絵を描かなければ。
 そう切羽を詰まらせれば、アイオネの筆は簡単にしなりを帯びた。
 ずぶずぶと底なし沼に落ち、溺れ、なにもかもを見失いそうになるなか、アイオネは思い出す――こんな絵を描きたいと初めて自分に思わせたのは、かの有名な『大魔女』だった。
 不思議な魅力のある絵だった。画面の中央にいる彼女の色価値をあえて高くつけることで、存在感を強くしている。けれど、引きこまれるのはそれが原因じゃない。モデルの少女の持つ惨憺さんたんたる美しさだ。魔女の烙印を押されて、迫害の対象とされた哀れな少女。彼女が見る者へと向ける貫くほどの眼光は、たちまち強い感情を植えつけた。
 記憶よりも幾分か柔らかくなった彼女のまなこは、今、すっとアイオネを見据えている。
「アイオネ、君はなにをしているの?」
「お帰り。俺のためにわざわざありがとう」
 平然と微笑まれたヒストリカは、覆面を取ったまま、扉のノブから手を離せずにいた。
 宿で邪魔者扱いされていたアイオネの荷を持って帰るころには、部屋の時計は一時を指していた。やはり午前中は持っていかれたが、誰にもこのような芸当をすることは不可能だろう。あの距離を往復移動するのにかける時間としては神業――魔法そのものだ。
「次に描く絵の準備。そこにある楢の板に塗るための白亜地を作ってるんだ」
 少なからず臭うにかわえきにつっこんだへらを持ちあげ、アイオネは言った。
 キッチン近くにあるカウンターの上でアイオネは事を行っていた。キャンバスやパネルに施す地塗りのための作業だ。白亜地塗りは吸水性に富み、ただの板に絵を描く場合にはまず重用される。膠と適量の水を湯煎して、膠液を作る。それに畑に撒くような重質炭酸カルシウムと絵の具のチタニウムホワイトを混ぜ、準備した支持体に塗るのだ。
「時間のかかる作業だから、いまのうちに済ませてしまおうと思って」
「ああ、そういえば、君は画家だったものね……」
 袖を捲ったブラウス姿のアイオネを、ヒストリカはじっと見る。
 深紅のジャケットを離れた椅子の背にかけて、汚れないようにしてあった。彼の使うビーカーや火の元、ふるいの類はハロルドが用意したものだ。
「……ハロー坊やはどこ?」
 ヒストリカはあたりを見回しながら尋ねる。
「院の受付のほうに顔を出してくるってさ」アイオネは答える。「すぐに戻るとも言っていた」
 ヒストリカは「そっか」と呟いてからやっと部屋に入り、アイオネのジャケットがかけられた椅子の上に荷を置いた。青紫のスカートが椅子に触れて乾いた音を立てる。妙に緊張した空気にそれは容易く響いた。
「……腕」
「ん?」
「もう、動かして平気なの?」
 スエード生地のソファーに腰かけ、屈みこむように手を膝につけたヒストリカが言った。
 昨晩、アイオネの褥に足を運んだことといい、彼女の中で自分に傷を負わせたことはなかなか気にすべきことのようだ。視線は意地でも寄越さないが、その意識は猛るほどに、自分へと向いている気がする。思い違いなら恥ずかしい。だが、思い違いをさせるほうも悪い。
「違和感はあるが概ね良好。念のためにハロルドに痛み止めはもらったが、使わなくても大丈夫だろうな。もしだめそうなら、また魔法とやらで助けてくれるか?」
「もちろんそのつもり。今日はその傷にかけられた残りの魔法の反対式を算出して、それから治癒魔法を施す予定だったんだ。夕刻までには抜糸もできるよ」
 彼女の横顔には笑まいが滲んでいた。
 花の蕾がほころぶようなそれに、またアイオネの指先はひくついた。



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