裏切りと背徳 1/8



「宿に忘れた君の荷物を取ってくる。抜糸が終わったら帰って」
 翌朝、アイオネのいるベッドに集うように開かれた朝餉の卓でヒストリカはそう言った。
 昨日の夜に生涯でも稀の状況に出くわしたアイオネは、なにも知らぬまま、理解できぬまま、このハロルドが営む施療院で一夜を明かすこととなった。おそらく落ち着いたころには説明もあるだろうと高をくくっていたのだが、予想に反して相手方の対応は淡白だった。
「どうせ宿は一日で追い出されるだろうからね。荷物を持って帰ったら、治癒魔法で治してあげる。君の次の宿探しのためにも、早めに発つのが得策だろうし」
 ヒストリカは淡々と続け、ベーグルにクリームチーズを塗りたくった。
 あの『大魔女』の少女が目の前にいて、しかもベーグルに好きなだけチーズを乗せていく庶民的な姿は、どうにも異様でむず痒い。長い睫毛に縁取られた目は恨みがましさの欠片もなく、むしろ平和そのものの柔らかさで、これから腹に入れる朝食を眺めている。愛情もなく適当に結われた金髪ブロンドはしっとりと濡れた菜の花のように鮮やかだ。朝日を浴びてきらきらと輝く娘に、場違いに、アイオネの筆腕の指先は、また、ひくついた。
「……その前に、あんたに聞きたいことが山ほどあるんだけどな」
 アイオネは眇めるようにしてヒストリカに言う。
「山のようにあるなら一生かかっても聞き終われないだろうね」
「茶化すな。まず聞きたいのが、あんたが本当に『大魔女』のヒストリカ=オールザヴァリなのかってことだ」
 アイオネの確認するような言葉に、ハロルドは意外そうな、間抜けな顔をする。
「あれ、なんにも聞いてないの?」
「坊や。黙ってて」
 ヒストリカの制止にハロルドは素直に従う。けれど、彼の目はアイオネを追っていた。目玉焼きにフォークを突き刺しながら次の発言を待っている。
「もし本当に『大魔女』のヒストリカ=オールザヴァリが生きていたら、二百歳をとうに超えている。だが、あんたはどう見てもうら若き乙女だし、背骨が曲がっているわけでもない」
「悪かったよ」ヒストリカは眉を下げた。「リック=ヴァリーなんて言って騙して。でも、あれはしょうがなかったんだ」
「そんなことはどうでもいい」
 愛想よく、後腐れなく、どうにかして煙を巻いてやろうとするヒストリカに、アイオネは強く言った。アイオネのその表情に、ヒストリカは困ったような顔を浮かべる。とてもずるい。彼女にそんな顔をされると、アイオネは、こっちが悪いことをしているような気分になるのだ。
「アイオネ。君には、私のことにあまり関わってほしくない」
「あんなのに襲われてただ無知のままで帰れって? また襲われるかもしれないのに」
「大丈夫」ヒストリカの返答ははっきりとしていた。「あれは私一人を狙ったものだから、私のそばにいないかぎりは二度と君を襲うことはないよ。誓って」
 その目は揺るぎない。きっと彼女の言うことは真実なのだ。だからこそ、必要以上のことは話さない。いま開示したことも、慎重に審議した上で、彼女の中でバイアスをかけて添加分をこそぎ落としたものに違いなかった。
「だからどうか昨日のことは悪夢だとでも思って。なにも聞かないで。関わらないで」
 諭すようにヒストリカは紡ぐ。
 二百年生きたという仮定はあながち間違いでもないのかもしれない。か細い透明感のある愛くるしい声をしているが、それに似合わない温和な紳士のような口調が、積年の末に卓越した思慮深さを感じさせる。
 悲痛な顔をしながら、アイオネはもう一度言った。
「だめなのか」
「だめ」
「どうしても?」
「しつこいよ」
 ヒストリカはからかうように、けれど突き放すように微笑んだ。
 ごちそうさま、とヒストリカは真鍮光りするトレイを持って席を立つ。彼女の普段をそう知っているわけでもないが、おそらく普段通りであろう所作で、アイオネとの会話を絶った。
 リックとして関わっていたときと似ている、徹底した態度。けれど、昨日は、少なくとも最後のほうは、それなりに仲良くなれたと感じていたのに。彼女にとって、あの時間は、さほど心を動かさないものだったのだろうか。そう思うと、アイオネの心に寂しさが募った。
 そんなアイオネにハロルドは楽しそうに声をかける。
「残念だったね、アイオネ。ヒストリカからいろいろ聞きだすのは難しいと思うよ」
 機嫌のいいときなら暢気な男だと笑ってやれるだろうが、今の状況では無理だった。ほとんど八つ当たりでアイオネは「なんで」と低く呟いた。
「それは僕も言っちゃいけない範疇なんだけどなあ」
「でも、あんたが魔法ってやつを疑わないのは、ヒストリカが魔女だからだよな」
「うん、まあ、そうだね」
 ハロルドの口は軽かった。アイオネの声や表情は確信に近く、ヒストリカが露呈してしまってることも多い。おそらく言ってもいい範疇だと思ったのだろう。
「ご名答。お察しの通り、彼女はあのヒストリカ=オールザヴァリで、正真正銘の魔女だ」
 魔女。それはあまりにも滑稽で、時代錯誤な単語だった。
 その単語が頻繁に使われていたのはおよそ1400年代から1700年代までのあいだだけ。悪魔と契約を交わし、超自然的な力を持ち、人間に災厄をもたらすとされた者たちの呼び名だ。女を魔女、男を魔法使いと表記する。世界が暗黒の疑惑に覆われていた時代に、彼、彼女らはお伽話的な立ち位置から現実に忌避される者へと変貌した。それが顕著に現れたのが、魔女狩りだ。エウロパ全土で魔女狩りは蔓延り、多くの人々が魔女の嫌疑をかけられ、裁判によって処断された。しかし、裁判官や教会学者による捏造が発覚し、魔女狩りの風習も1800年代前に完全に廃れてしまった。おかげで、魔女というのは再びお伽話の中だけの存在になり、日常では耳にしない懐古的な単語へと生まれ変わったのだ。
 消えた絵画『大魔女』は、その残酷な魔女狩りの歴史を示す有名な一枚でもある。あの絵を見るたびに人々は、あらぬ疑いをかけられた美しき少女に同情し、彼女が湛える憎悪に胸を打たれるのだ。魔女だと痛めつけられて、可哀想に。芸術家や錬金術師が後ろ指を指されなくなった代わりに、魔女や悪魔などを信じている者のほうが立場を追われた。ばかな真似はよせ。そんなものはいない。けれど。
「魔女狩りにはいんちきもたくさんあったようだけど、案外あたり、、、も引いていたんだ。そりゃそうだよ。本物の魔女がいないと、あんなに流行るわけがない」
「魔女は存在するってことか」
 アイオネは尋ねた。
「魔女だけじゃないさ。魔法使いも。魔法を扱う者は現実に存在する。陣を起こし、呪文を唱え、杖を振るう。ヒストリカは自分たちのことを魔法族と呼んでいる」
 アイオネはとんでもない秘密を知ってしまった気分になった。あの『大魔女』が、本当の意味で、歴史に忠実な題名ということが発覚したのだ。突飛な展開ではあるけれど、アイオネにとっては興味を掻きたてるような、そんな蜜のような話だった。
「やっぱり、その魔女や魔法使いは悪魔と契約を交わしたのか?」
「ふはっ。僕も昔同じことをヒストリカに言ったけど、散々笑われたよ。魔法族は別に悪魔と契約して力を得ているわけじゃない。元からそうなんだって。僕らが思い描いている魔女像と本物の魔女は全然違う。少なくとも彼女たちは悪魔と契約なんてしてないし、そもそも悪魔なんて信じちゃいないよ」
 ハロルドがおかしそうに笑ったそのとき、この部屋のドアのあたりで、入室の申し出でないノックが、コンコンと鳴る。花も恥じらう美しい娘が顔を見せるかと思いきや、そこにいたのはせむしの醜い少年、昨日一日行動を共にしたヒストリカの仮の姿だった。
「あれ、もう行くの?」ハッとした顔をしてから機嫌を伺うようハロルドが尋ねる。「また襲われたりしないか心配だなあ。気をつけてね」
「もう体臭は消したから大丈夫だよ。だから、似合わないご機嫌とりはおやめ」
 そのふざけた顔に似合わない可憐な声がハロルドを窘める。
 ハロルドは気まずそうな笑みで目を逸らした。彼女のいないところで彼女のことをぺちゃくちゃしゃべったのだ。萎縮するのも無理はない。
「それじゃあ、行ってくる。この時間じゃ人通りも多くて陣が使えないから、時間はかかると思う。ハロー坊やはおしゃべりを控えること」
 ヒストリカは部屋を出て行く。これからアイオネの宿へと向かうのだろう。
 今朝聞いた話だが、ここは昨日までいた町とは離れたところにあるらしい。アイオネの宿との距離を考えると、少なくとも徒歩では今日中に帰ってくることはできない。鉄道か馬車を使うのが主な手だが、鉄道でも相当時間がかかるという。おそらく魔法を駆使して時間短縮をするのだろう。となると、やはりヒストリカに荷物を持ってきてもらうほかないのだが、そこまでして自分を追いだしたいのかと思うと釈然としないものがあった。
 彼女、いや、彼――リック=ヴァリーは、ケープを翻して去っていく。
 分厚い書物と杖を忍ばせた不自然な背。つい先ほどまで見ていた少女のシルエットとはまるで違った。シルエットどころか、顔さえも。
「……なんでヒストリカはあんな変装を?」
 ふと思ったことを、アイオネはハロルドに尋ねた。



■/march


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -