五日後のとある昼 1/1


「これを見るある、夜明け。豆苗の卵ね」
「豆苗の卵?」
「さっき食べたこの葉っぱの根っこを水に浸けてればまたにょきにょき伸びてくるね。ほら、この茶色いやつよ。ここから豆苗の赤ちゃんが出てくるある」
「鳴き声は?」
「みょーみょー」
「みょーみょー!」
 嘘八百だ。
 しかし、そのありえない嘘は夜明けの心を惹きつけた。
 世にも珍妙な鳴き声は談話室の隅々まで響き渡り、一連の流れを聞いていた香弁の眉をへにゃりと下降させる。力なく「本当に仲がいいよね」とだけ呟いた彼は主である謎々のほうを見た。彼は遺憾そのものであると言いたげに恋戯と夜明けを睨みつけている。夜明けはこちらを見つめている謎々に気づくと「謎々もご一緒にー!」と歌いかけるように言った。謎々は「香弁のほうが上手い」と生贄を差しだす。夜明けの目が香弁に吸い寄せられる。恨むよボス、と心中で呻きながら香弁は半笑いでその期待に応えた。
 夜明けが来てから十一日目の朝を迎えた。件の日から五日後のことである。
 あのあとも夜明けの様子は変わりない。相変わらず夢見がちで、暢気で、蹴り飛ばしたはずのファーストキスにも夢中だ。恋戯や香弁を友達のように慕い、殊に謎々によくかまう。
 変わりがあるのは一つ、これまで最悪だった夢見が徐々に改善されつつあることだろうか。
〈それで? 夢を見るようになった夜明けとりぼんの様子はどうだい? 日を置いたあと、検査でもしてみる?〉
 謎々と応対していた画面のスピーカーから鳴る仁紗の言葉に、謎々はあまり得意げな表情をしなかった。それどころか、少し不満なようにも見える。
「……見るようになったと言っても穏やかでないものばかりだ。括りとしては悪夢のうちの一つかもしれないぞ。なんてったってファーストキスと一緒に蟻地獄に嵌ったり、素っ裸で空から落ちたりするらしいからな」
 そう、夜明けは夢を見るようになった。しかしそれは悪夢の延長線上にあるようなもので、彼女の口から漏れる夢の話はどれもこれも被虐的なものだ。ノンレムステージ時に夜明けがどんな悪夢を見ているかは知らないが、それらとあまり大差ないような気もしてくる。実際に脳波がレムステージに突入しているかも怪しいところだ。
〈夢なんてそんなものじゃない? 朝起きたときにいい夢だったと思えるような夢なんてそうそうないよ。楽しいこと、美しいことだけが夢じゃない。それでも夢を見たいと願ったのは夜明けとりぼんだ〉
「なるほど。しかし仁紗、懸念はそれだけじゃない。あいつの夜驚症はまだ続いている。取り乱すレベルは低くなったが、まだ叫んだりもするぞ」
〈すぐには治らないさ。夜驚症は成長による自然治癒。焦るには時期尚早だ。それにどうせそんなの覚えてないんだろう? 僕としてはそれよりも、見るようになった夢の内容に目を向けたいものだね〉仁紗は続ける。〈夢に謎々や香弁さんが出てきたのはいい傾向だ。夢とは記憶の整理が目的でもあるから、それはつまり、夜明けとりぼんの記憶の定着の発達を意味している〉
「つまり、脳は確実に本来の機能を取り戻していると思って違いないな?」
〈ないね〉
 それを聞いて謎々は安心したような笑まいを浮かべた。それと対照に、仁紗はぷつぷつと電波が切れるように小刻みな、押し殺した笑い声を漏らす。そして数秒後、それは弾け飛ぶように大きく飛散した。
〈成功だ! あの抗生物質にはちゃんと効力があるみたいだね〉仁紗特有の高音が真実高らかに響く。〈改良してワクチンを作れば対《栄光の少女》用の策になるかもしれない。これは高く売れるぞ〉
「仁紗」
〈なんでさ。ちょっとだけだから〉
「なんでももない。無粋なことはするなよ」
〈ちぇっ、いい案だと思ったんだけど。まあ、君の策を考えれば邪魔をするようなことも言ってられないしね。なるほど無粋でしかない。骨折り損のくたびれ儲けかと思いきや、いやはや、君もなかなかあくどい考えをお持ちのようだ〉
 謎々は口角に誉れを滲ませる妖しい笑みを浮かべた。
 五日前、見事に大正解を果たした謎々は、起きたその頭でこれからすべき行動を練り上げた。夜明けのなぞなぞは無事にクリアした――しかし、夜明けは伝説通りの《栄光の少女》に成りえない。本人の言葉を借りるなら夜明けは無価値である。謎々は栄光を手に入れるための賭けに負けたというわけだ。
 だが、千億という借金をしてまで夜明けを買収した謎々としては、それで納得できるわけがない。
 だからこそ、これまで夜明けが敷いていた《栄光の少女》の体制に謎々は乗っかることにした。
 夜明けに栄光を齎す力はない。しかし、それを知る夜明けと謎々が口を噤んでいれば、表向き、夜明けには価値がある。
 謎々は仁紗を呼び起こし、あの借金帝貴族・謎々が《栄光の少女》である夜明けとりぼんの問いに正答した≠ニいう噂を意図的に流すよう依頼した。誰も死んでいないという点を突かれる前に、一度回答権がリセットされたという事実も含めてだ。あの夜のオークションで謎々が夜明けを競り落としたのは公然の事実だ。噂が出回るのは早かった。あの男が栄光を手にした――その噂を蔓延らせることが、謎々の考えた作戦だった。
〈なにを以て栄光とし、なにが栄光を作るのか。ただ一人きりで財や地位を成せるほど世界は甘くない。ならばなにがそれらを呼びこむのか。君は実によくわかっている。その通りだよ、謎々。人脈とはまさしく大金なり〉
 栄光を手にしたという謎々の元へたくさんの人間が舞いこんだ。それも殺しにかかったり追いかけ回したりような不躾なものではない。全て、友好的な関係になりたいというお誘いだった。
 謎々にこれから訪れるであろう栄光のおこぼれを欲する人間はたくさんいる。求められるのは《栄光の少女》、しかし、問いに答えが出ればその少女によって栄光を得た人間へと移行する。
――謎々はそこに狙いを定めたのだ。
 財界の各要人や、つい最近まで謎々の首に文字通り首ったけだった連中など、様々な人間がすり寄ってきた。そしてそういう人間に限って媚びを売ることに余念がなく、懐は温かい。どうぞご贔屓にと、袖の下をたっぷりと見繕われたこともあった。空っぽの金庫とは知らずに、その金庫の中身をいつかは見せてもらえることを夢見て、彼らは謎々に莫大な投資をした。多くの人間と友好条約を結んだ謎々は、その人脈に見合うだけの地位を回復しつつある。
〈信用が金を生むのは銀行という金融機関が証明してくれている。彼らも可哀想に。君に集る自分たちこそが栄光への鍵だと知らずにいるんだろう?〉
「なに、多くの者が見る夢を壊すのはしのびなかっただけだ」
〈よく言うよ。しかも君、最近は夜明けとりぼんを切り売りするようなことを触れ回っているそうじゃないか〉
 問いに答えたという噂は広まった。謎々の地位も回復しつつある。しかしそれは噂に惑ったものが作りあげた幻想に過ぎない。見せかけだと勘繰られるのも時間の問題だろう。ならばと、謎々は奇策の先手を打った。
 現状、《栄光の少女》の問いの正答を確実に知る者は謎々しかいない。ということはだ――その答えすらも財を成す種になると、謎々は踏んだ。《栄光の少女》のルールには一人にしか栄光を与えないなどとけち臭いことは記されていない。博愛主義の公平主義、万物にそのチャンスが与えられる。謎々が答えを出したからと他の者が夜明けの回答権を蔑ろにする必要はないのだ。けれど答えを誤れば死ぬことから、そう易々と手は伸ばせない。そんなふうに怖気づいている欲深きものに、謎々は答えのヒント――と言っても実に曖昧で不明瞭なものだ――をちらつかせ、自分と付き合うことを有益だと思わせる手法を用いた。
 面会を申しこんだ相手のところに夜明けとりぼんを連れて行けば、謎々と行動を共にするその従順さに、人々は噂が真実であることを確信する。そして話の合間に囁くようにそうそう、あの問いの文言はそう難しく考えずとも、≠ニ言えば、誰もが目の色を変える。続ける言葉は答えに不適当でも構わない。どんな妄言でも答えを察しないかぎり謎々が疑われるようなことはない。適当なところで口を噤んでやれば、相手は痒そうな顔をして謎々の前に金を積んでみせる。それに気をよくした顔を見せて妄言を吐けば、いくらでも財は集まった。
 謎々が選んだ切り売りというのはそういう手だ。
「不躾な言いかたを承知で言うが、あれは特上の素材だな。肉は美味しく、その骨は出汁までとれる」
〈恐ろしい男だ。可哀想な少女を助けた王子様がまさかそこまで考えていたなんてね〉
「慈善事業をするほど俺は優しくはないからな。俺だってちゃんと欲張りだ。多額の金をあれに注ぎこんだんだから、最低でも元手は回収する。ゆくゆくはお家の汚名返上、名誉挽回だ」
〈しかし、なかなか綱渡りなことをするね。君が一番《栄光の少女》という伝説の空洞を知っているだろうに〉
 夜明けはただの少女だ。薄汚い芥地区で生まれ、己の無価値を嘆き、悪夢に脅かされ、夢に焦がれた、栄光とは程遠いところに位置するただの少女だ。
〈言ってしまえば《栄光の少女》は経済のバブル。崩壊したときが怖いよね〉
「決してさせない。そのためならどんなことだってしてみせる」
〈わあ、罪深い〉
「それは誰だって同じだ。むしろ俺は誰よりも人類に貢献しているぞ。夢は儚いが、信じていれば全員が救われる。それに」謎々は楽しげにする夜明けに目を遣った。「あいつに価値を作ってやるのに俺は適任だろう」
 夜明けは謎々の視線に気づいて顔を向ける。無邪気な表情を崩し、超然とした笑みを浮かべた。そのうっそりとした真紅の瞳には冷たい熱が滲んでいる。
 期待以上だと褒め上げるような烈々とした眼差しに、謎々も口角を吊り上げた。



■ / ■  



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -