一つの合理的可能性 5/5


「そこはね、世界と言うにはあまりにも狭いわ。私たちが宇宙と呼ぶ物が存在しない。地球さえないわ。本当に、まるで別の世界なの。けれど世界は球体に似ていてね。私たちが地球と呼ばれる球体の星の上に住んでいるのだとしたら、あれはきっと球体の中に住んでいるのね。見上げれば天井があって、《イルミナ》と呼ばれる太陽が設置されているの。その世界を、人々は桃想郷(ユートピア)と呼ぶわ」
「《ユートピア》……トマス・モアかな? 現実には決して存在しない理想的な社会」
「かもしれないわね。その世界はとても理想的よ。そこにはね、犯罪がないの。だから警察もない、あたしたちのようなマフィアもいない。戦争さえも。とても安全で、みんなが幸せな世界。それが誇りでもあるわ。その世界では誰もが幸福なの。素敵でしょう?」
「僕らの世界とは大違いだ」
「大違いなのはもう一つ。その世界には《ピンキー》と呼ばれる化け物がいるのよ。その化け物たちは、人々の悲しみや不幸に呼び寄せられて姿を現すの。人々に害を成す危険な存在よ」
「おっと、いきなりおっかなくなったな。まるで絵本に出てくるモンスターみたいだ」
「そうね、けれど大丈夫よ」セレナは自信ありげに笑った。「そのモンスターを退治してくれるスーパーヒーローがその世界にはいるの。あたしが今から話すのはそのスーパーヒーローになるだめにがんばっている女の子・サヨのお話」
 まただ。また彼女が私の名前を呼んだ。
 このときにやっと、やっと確信した。もしかしたらと思っていたことが本当であると。
――夢を見ているのが自分だけではないことを。
「パワフルでチャーミングなティーンエイジャー。黒髪(ブルネット)のショートボブがよく似合ってる。不愛想な顔、でも愛嬌があるわ、だからキュートなの。あたしの若いころにそっくり。髪や目の色を変えればもっと似るんじゃないかしら? 彼女はね、スーパーヒーローになるためのスクールに通っているの。とっても強いのよ。いろんな仲間と素敵な先生に囲まれて、楽しそうな生活を送っているわ。まるで青春ドラマね。ハンサムな男の子までいるのよ。貴方に声がそっくりなの。なんだか笑っちゃうわ」
 セレナは言葉のとおりくすくすと笑った。それからしみじみとした顔に戻って続ける。
「理想的だけど、そう楽しいことばかりでもないわ。あの子も戦っているの。あたしと同じように。でもタフよ。信念が強いの。あの子ががんばってると、あたしもがんばろうって思えるのよ。あたしには送れなかった無邪気な生活のエピソードと、小さな体にある屈強なハート。あたしはただ一方的にそれを感じているだけにすぎないわ。あの子とあたしはまったくの無関係。それでも、ただの夢とは思えないの。彼女に支えられてるの。どうして夢を見るのかはわからない……でも、彼女に会えてよかった……本当よ」
 何百もの幸福を一つにしたかのような気持ちが次から次へと流れこんでくる。
 ただここにいるだけなのに、幸せで幸せでたまらなかった。
 わかる。この気持ちは本物だ。
 セレナは私を思ってくれているのがありありと伝わってくる。
 幸せなのはセレナの気持ちだけじゃない。私自身も、とても嬉しい。
 なんて素敵な感情だろう。
 彼は「なるほどね」と微笑んだあと言葉を続ける。
「君が異世界の話を馬鹿にしないのはそれが理由か」
「そうよ。愛の力でなくてごめんなさいね」
「妬けちゃうけど、でもそっちのほうがずっといいさ。なんてったって僕の夢を実際に見たひとが僕の目の前にいるんだ。すごく幸運だよ」
 彼の言葉にセレナはくすりと苦笑した。
「夢なのに?」
「確かにそうかもしれないね。でも夢って侮れないよ。脳科学では記憶の整理によるものだとか言われてるけど、実際のところは経験したことのないものが出てくることのほうが多いと思うんだ。君が見る、その不思議な世界のようにね。だけど、意識していなかったり記憶がなくても、脳は一瞬でも見たものは忘れないらしいから、どこかでその光景を見たことがあるはずなんだ」
「でもあたし、あんな化け物なんて見たことないわ」
「そう急かさないでおくれよ。続きがあるんだ。古代の人たちはね、魂(ゴースト)というものは身体に宿るものと考え、眠っているあいだに身体を離れ、自由に飛び回るものと考えられていたんだ。そして彼らは、眠っているあいだに自分の魂が霊的な世界に出会うときに、夢を見ると考えていたんだ」
「ああ、なるほど」セレナは納得したように言った。「あたしの魂は寝ているあいだに彷徨って、そしてあの世界を見たってわけね?」
「そもそも夢っていうのは、違う世界の自分の体験を見る行為だという説もあるくらいだからね。重力を、時限を超えて、別の世界へ行ったとしても、おかしなことではない」
 違う世界の自分を夢に見る――私にとってのセレナであり、セレナにとっての私。
 私たちが互いの夢を見るのはそれが理由、なんだろうか。
 所詮は夢だ。私の見るただの夢。これまでの一連の会話も私の脳が造りだした幻影にすぎないのかもしれない。その確率のほうが高いだろう。だから事実、セレナはいままで誰にもこのことを話してこなかった。私にしてもそうだ、話せば頭がおかしいのではないかとからかわれた。やはりこれはとてもおかしな話なのだ。
「ああ、素敵ね。だとしたらサヨは、今あたしのことを夢に見たりしているのかしら」
 だけど、それでもいい。この胸に流れてくる幸福は本物だ。なにもおかしいところなんてない。
 叫べるなら叫びたかった。
 そうだよ、セレナ。私はここにいる。
 貴女の出てくる夢を見て、私もこの瞬間、喜びをもらっている。
 ふわふわとした感覚。夢の目覚めは、そんな心地好さだった。柔らかい二人の笑い声が遠くなるのを感じながら、私は徐々に眠りから覚めていった。
 窓から照明光輪の陽光が射す。その輝きが私の眠りを完全に覚ましてくれた。
 今までにないくらい気持ちがいい。
 一生で一番の目覚めだ。
 まだあの至上の幸福感が残っている。
 寝起きは最悪だと言われるけれど、今日は心が跳ねあがっているのがわかる。頭もすっきりしていて、いい一日が始まる予感。きらきらと輝く窓ガラスに思わずはにかんでしまう。この喜びを、胸の高鳴りを、早く誰かに伝えたい。
 私は大急ぎでベッドから跳ね起きて梯子を下りていく。
「ねえ、あのね、」
 馬鹿みたいに浮かれていた私は下の段のベッドを覗きこんだ。
 そして、でも、そう、そこにはもう、誰もいないことに気づいた。


◆ ◇ ◆



 素敵な夢の後は幸せをもぎとられたようなぽっかりとした虚無感だけが残った。
 あまりにも寒々しくて、思わず胸が震えた。
 すぐに魔法の注射を打ったけど、それでもこの変な気持ちはおさまらない。
 そして気づいた。いい夢でも、悪い夢でも、セレナの夢は私にとって害でしかないのかもしれない。
 前までに見た悪い夢の終わりが鬱屈した気持ちで、今日見たいい夢の終わりがこんな気持ちなら、いっそ見ないほうがマシだ。私がおかしくなってしまう。
 その日から、私は夢を見たくなくて寝ることをやめた。もちろん眠気には勝てないから努力空しく屈してしまうこともあったけど、夢を見ないノンレム睡眠のタイミングだけ寝るという対策を取れば私の本意を遂げるのはそう難しいことではなかった。もちろん寝不足にはなるけど。
 起きているあいだは座学の復習を行った。夜の暇な時間を怠惰に過ごすのではなく、自分を高めることに費やそうと思った。ノートに書き写して、自分の考察も付け加える。おかげで知識の深みも増したし、教員にノートを見せれば成績の加点もされる。いい考えだと思った。だけどピンキーのまとめに入ったあたりで私の心は拒絶反応を起こした。まるで心が病んでいるみたいだった。気持ち悪い。魔法の注射を打ったけど、その気持ち悪さは変わらなかった。
 しょうがないからイメージトレーニングでもしようと思ったのだが、それもすぐに嫌になった。こんなケースは初めてだった。恐ろしいことに、セレナの気持ちがわかる。心の中では銃という武器を取ることをいつも躊躇っていたセレナの、あのときの私には疑問でしかなかったセレナの気持ちが。
 夜がすっかり嫌になる。夜は暇だから、嫌なことをついつい考えてしまう。そして気分がまいるのだろう。学業に専念していられる昼間のほうがずっとよかった。
 ちなみにラギはまだ私と一緒にいたくないらしい。座学の授業では私が彼の隣に座ると彼は一つ前に席を変えるし、食堂での食事は時間をずらされる。実技訓練は二人一組なので嫌でも組まなければならなかったが、ラギは頑なに私の言葉を無視していた。せっかくこの前の野外訓練でそれなりに話すようになれたと思ったのに。おかげで私は終始一人ぼっちだ。
 ラギがやっとかまってくれたのは、訓練中に私が倒れたときだった。
 寝不足で調子を崩し、それがついに祟ったのだろう。目を覚ましたときには医務室のベッドの上で、珍しくラギが私のそばにいた。
「あれ? ラギじゃん。やっほう」
 もう大丈夫なのかと思って気さくに声をかけてみたのだが、ラギは笑顔で拳骨を飛ばしてきた。私、一応病人なんだけどなあ。
 殴られた頭を撫でる私に、ラギは冷ややかな目を送った。
「馬鹿でしょ、君。寝不足、過労、軽度のストレス。倒れて当たり前。医務長さんが今日一日は安静にしてろだってさ」
「ラギって医務長のこと医務長さんって呼んでるの?」
 もう一発飛んできた。頭が痛い。
 布団の中でうずくまる私をラギは鼻で笑った。
「いま何時……?」
「昼の三時くらいじゃない?」
「ラギがここまで運んでくれたの?」
「ああ、そういえば君って、実はすっごく重いんだね。ハルバードを抱えてることもあっただろうけど案外体重があってびっくりしたよ。なに食べたらそうなるの?」
「そっか。重かったよね。ごめんね。ありがとう」
 私がそう言うとラギは押し黙った。
 そうか。なるほど。ラギは素直な言葉に弱いのか。今までラギが押し黙ったシーンを思い返してもその傾向が見られる。
「ありがとう」
 もう一度そう重ねると、ラギはそっぽを向いて口も聞いてくれなくなった。
またこれである。話しかけてもうんともすんとも言わない。
「ねえ、ラギ」
 沈黙。
「聞いてる? 医務長どこか知らない?」
 沈黙。
「あっ、聞いてもどうせわかんないよね。ごめんね」
「君はなにが言いたいの」
 本当にひねくれてるなあ。こういう言いかたをして初めて振り向くのか。でも勉強にはなった。後学のために覚えておこう。
「医務長はいま出てるよ。なんか急用らしくて」
「さんは付けてあげないの?」
 もう一度殴られた。今回は私が悪いのがわかる。
 でも、そうか。これじゃあ部屋に戻っていいのかわからないな。できればこんな薬品の匂いするところじゃなくてもっと落ちつける場所に行きたいんだけど。
 ラギはそんな私の意図を察したのか、溜息をして言う。
「言っとくけど、今日一日は絶対安静。部屋に戻るのもなし」
「……私って、そんな重病人なの」
「ちょっと弱ってるだけでしょ」ラギは呆れ半分で告げる。「魔法の注射は打ったから大丈夫。すぐによくなる」
 そっか、と言って私は布団を首までかける。その影響でくすりと髪が跳ねた。
「そういえば。最近は髪、ちゃんとしてるんだね」
「うん。まあね」
 今朝も自分でブラシをかけたのだ。
 やっぱりちっとも痛くなかった。
 ラギは「じゃあ僕は行くから」と言って医務室を出た。途端、一人きりの静寂。真っ白い天上だけが見える。体を覆うのは無機質な温もり。私は自分の左腕を擦る。
 魔法の注射は打った。
 たくさん、たくさん打った。だけど。



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