一つの合理的可能性 4/5


 見えたのは二人の男女。白いシーツの乱れた大きなベッドに並んで寝転んでいる。二人とも楽しそう。そして事実楽しい。今までにないほどの安らぎを抱いていた、少なくとも、彼女、セレナは。
「ああ、見て。これ」美しい顔を綻ばせてセレナは言った。「懐かしいわ。貴方がモルモットみんなに名前をつけたときの写真よ。最後にはみんな実験で殺してしまって、貴方ったら次の日目が腫れるほど泣いてしまったのよね」
「そんな昔のものを引っぱりだしてこないでほしいね。恥ずかしいったらないや」
「あら、私にとってはどれもかわいいわ。特にこれよ。モルモットのチャーリーがレーザー光線で消えてなくなってしまったとき……貴方はショックで落ちこんでしまったけど、実はあたしが隠していただけなのよ」
「数時間後、君が笑顔でチャーリーを寄越してきたときは女神かと思ったよ」
「実際は悪魔だった?」
「それも魅力的なね」
 セレナとその男のひとはくすくすと笑っていた。ベッドに俯せになって立体となって浮かびあがっている――こちらの世界ではホログラムと呼ばれる――アルバムを眺めている。思い出話に花を咲かせているのだろう。彼女の横で肘をついて覗きこんでいる彼も、表情は柔らかく、また温かかった。
 いつもとは違う夢だった。セレナは終始、蕩けるような満面の笑みで、いつも鋭くしている涼しげな目を、赤ちゃんのように細めていた。きっと信頼できるひとの隣じゃないと出ない、安心しきった心からの笑み。殺伐したような雰囲気は感じない。いつも不幸そのもので、鬱屈としていた、そんな彼女はいない。甘くて、優しくて、温かくて、尊くて、そして愛しい。そう、愛しくて愛しくてたまらない。セレナはとてつもない幸せを、この一時に見出している。まるで私まで彼のことを好きになってしまったかのよう。そう錯覚するほど、彼女の感情は強かった。
「そういえばセレナ、聞いたよ」彼は少しだけ寂しげに言った。「君、また危険な任務に行ったんだってね? 最近ずっと忙しそうにしてたけど……本当に大丈夫なの?」
 彼がそんな表情を見せるのが悲しい。そんな表情をさせたくない。私が――セレナがしてほしいのはそんな表情ではないのだ。セレナは彼の髪を手でわしゃわしゃと掻き回した。
「大丈夫に決まってるでしょ? 貴方には私の体が透けているように見える? むしろ手柄をもぎ取ってきてやったわよ。お父様(ボス)もあたしにゾッコンってわけ。あの傷野郎に言ってやりたいわ。あたしは宣言どおりの大金星(おおてがら)、あんなに鼻息を荒くしてた貴方は指をくわえて見てるしかなかったみたいねHello(どうも)=`?」
 皮肉をこめたエアクオーツ。セレナはおどけてそう言ったけど、彼の表情はあまり変わらなかった。彼もセレナが大切なのだろう。だから危険なことをするのを笑って見すごせない。まだ浮かない顔をするので、言葉を強めて続ける。
「それにね、貴方が作った反電撃体(シールド)がとても役に立ったのよ。あれのおかげで私も私の部下も無傷だったの。お礼を言うわ。私の勇者さま?」
 そう言って瞼にキスを落としたセレナに、彼はようやっと微笑んだ。
 彼も愛しそうにセレナにキスをする。なんだかこっちが恥ずかしくなってしまった。
「それで? 貴方の大事な研究は進んでいるの? 私はこの数日間、それだけを楽しみに生きてきたのよ」
「大袈裟だなあ」
 大袈裟じゃない。私だけはそれを知っている。けれどセレナは彼に心配をかけさせないように笑ってごまかした。
「でもどうか聞いておくれよセレナ。いよいよ、実用化に向けての試験が行われるんだ」
「まあ! 素敵だわ! いよいよなのね!」セレナは彼に抱きついた。「素晴らしいわ。やっと貴方の研究が認められる日が来たのよ。これは偉大なことだわ。この2315年の今、貴方よりも神に近い研究者はいないでしょうね。どういうことなの。どうかあたしに詳しく聞かせて」
 しなを作ってすり寄るセレナに、彼は誇らしげな表情をした。傲慢な感じはしない。目はキラキラと輝いている。それに没頭するのが本当に楽しいのだろう。
 なんとなくわかった。
 セレナは、彼と彼のしたいことを守るために、あんな苦境に身を置いているのだ。
 彼女は果てしなく彼を愛している。嫌なことがあってもそれに耐えられるだけの愛を、彼に抱いているのだ。
 だから今、こんなにも幸せなのだ。
 正直に言うと、彼の話すことの半分以上を私は理解することができなかった。当のセレナも全てを完璧に理解しているわけではないだろう。超弦理論、重力、時空、素粒子。なにが言いたいのかさっぱりだった。でも、聞き慣れない単語が彼の唇から止め処なく語られるのを、セレナは絶品の音楽に耳を傾けるような表情で聞いていた。
「創造神話のような世界の始まりよりも、ビッグバンの類のほうが僕の研究の材料には向いていると思うんだ。このことは前にも話したっけ?」
「ええ、話してくれたわ。ブレーンワールドがどうとかの話でしょう?」
 なんだそれは。お願いだから私を置いてけぼりにしないでくれ。
 もちろん私の思いなんて届きもしないから「そのとおり!」と二人は会話を続けていく。
「宇宙は僕たちよりもさらに高次元の時空に埋めこまれた膜のような時空なんだ。ビッグバンとはその膜同士の衝突によって起こったもの。低エネルギーはこの世界に閉じこめられるからそれ以上の世界を観測できないけれど、他にも世界は無限に広がっているんだ。だから、世界というのは僕たちの住むこの地球、太陽系に限った話じゃない。僕たちとは違う世界がきっと存在する。だろう? セレナ」
「ええ、そうね。あたしもそう思うわ」
「みんなはそんなものはどこにもないって笑うけど、どこにもない場所っていうのはね、どこ以外の場所にならあるんだよ」彼は楽しそうに目を細めた。「どこにあるかわからないだけで世界と世界同士がおそらく間近にあって、過去にビッグバンで接触したならまた交わることだって可能なはずだよ。だからねセレナ、そのときの重力を上手いこと使えれば、」
「異世界へと渡ることだってできるんでしょう?」
 セレナはもう何度も聞いたわとでも言いそうな穏やかな表情で言った。けれど彼のことを馬鹿にするつもりも絵空事だと囃すつもりもないようで、悪意は微塵も感じられない。
「時空の歪みが重力だと貴方は前に行ったわよね? 歪みということはきっと規則的なものじゃないでしょう。それを意のままにコントロールしようってことよね?」
「察しがいいね。セレナ。まさしくそのとおりだよ。次の試験で使う機械で、そうだなあ、もう九十二回目になるよ……だけど僕は諦めない! きっと異世界はあって、そこに行くためのマシンを作ってみせる。いずれは異世界旅行も可能になるだろうね! ああ、考えるだけでも楽しみだよ」
 セレナはゆっくりと頷いた。
 異世界。なんだか突拍子もない話を聞かされた気分だけど、それほど突拍子もない話でもないと思ってしまうのは、この夢のせいだ。私はこうしてセレナという異世界に住む女性の夢を見る。彼女はある男のひとの追う夢を守っている。そしてその男のひとの夢というのが異世界へのロマン。わけのわからないことなら今まで散々見てきた。今さら驚けと言うほうが馬鹿な話である。
「……ねえ、セレナ。ずっと聞きたかったんだけど」
 と、彼はさっきまでの興奮した声を抑えて、少し慎重そうな声で尋ねた。セレナも彼の顔を覗きこんで続きの言葉を待つ。
「どうして君は僕の話を信じてくれるの? 異世界の話や、そこに行くための研究をしてるなんて、大抵のひとは……特に君の周りのひとは絶対に馬鹿にするだろうに」
 セレナはその言葉を聞いてきょとんとした。けれど次の瞬間、美しい眉を嫌そうに顰めてぽつりと彼に返す。
「また傷野郎にでもなにか言われたんでしょう? Heebie-jeebies(あーキモッ)」
「いや、でも、しょうがないよ。彼の反応がきっと世間一般の反応なんだから」
「Urgh(ウザッ)」
「セレナ、君はこっちに来てから汚い言葉ばかりを覚えるね。掃除機にでもなったの? それもシェルターから中身が漏れちゃうようなポンコツ掃除機に」
「しょうがない子ね。ふふふ。あたしもきっと馬鹿にされるだろうから今まで誰にも話さなかったことを、貴方にだけ教えてあげるわ」
 突然に、セレナは人差し指を唇に当て、妖艶な表情でそう言った。
 誰にも話さなかったことを彼だけに――やばい、だめだ、私が聞いてしまう。いや、セレナにはばれないだろうし、っていうか不可抗力だし、っていうかむしろただの夢だし、よくよく考えるとなんの問題もないんだろうけど、だめだ。私自身がそれを許せなかった。
 私の気なんてお構いなしに彼は「なんだい?」と身を寄せる。
 ああもう、これが夢だということがとてつもなく腹立たしい。私には見てる以外なにもできない。ごめんねセレナと思いながら、私は彼女の話に、耳を傾けることになる。

「あたしね、異世界の夢を見るの」

 その言葉に私は心臓を掴まれるような感覚を覚えた。
 ひやりとして、けれどとてつもなく熱くなる。
 私はセレナへの心遣いなど忘れて、今か今かと彼女の話の続きを待った。
「いつも見るわけじゃないわ。ときどきよ。いつからだったかしら。そこまで古くはないと思うんだけど。こことは全然違う世界、似ても似つかないわ。いいえ、大体は同じだけど、世界を形成するシステムがまるで違うの。夢にしてはとてもリアリティーのある、おかしな夢」
「へえ」
 次は彼が興味深そうにセレナの話を聞く番だった。少しだけ上体を起こして彼女を見下ろす。



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