運命の赤い意図(1/5)




 今ではもう昔話だ。
 エグラドにも鎖国をしていない時代というものがあった。
 国の動力のほとんどを蒸気機関で賄っているこのエグラドは、元は列強と渾名される国のうちの一つだった。逸早く産業革命が起こり、卓抜した経済力と軍事力を手に入れたエグラドは、他国で流行った“大航海時代”と呼ばれる時代遅れな風潮に、これは素晴らしいと唾で湿気た拍手を贈る立場にあった。諸国は未だ未知とされた海の外へ希望を抱いていたが、世界においての古株面と権威を気取っていたエグラドはそんなものに興味がなかったのだ。
 海を別けて隣りあう国・フラネクの古語で採録された写本『イル・ミリオーネ』――その見聞録が一つの始まりだった。
 歪に形どられたコスモグラフィアに記載された小さな一点。シアア大陸、極東の島国・ピグナズ。住民は外見がよく、皮膚の色は白い。動物の頭を幾つも持つものを偶像崇拝する。カニバリズムの習慣があり外国人をしばし喜んで食らう。
 まるで古い寓話に出てきそうなその“設定”に、諸国は胸をときめかせていた。それはエグラドの女王政府も同じである。今にしてみれば歴史的に見ても馬鹿げた、原始さながらの思考で、エグラドは非人道的な行動を起こした。
 それが表向きでは知られていない、ピグナズの民の拉致である。
 女王政府はピグナズの民数十余りをエグラドへと連れ去り、見聞録の話は誠かと真偽の追究を尽くした。サンプルだったと言ってもいい。ただピグナズの民という珍種の血統に浮かれてしまっただけなのだ。
 結局、ピグナズの民はそのまことしやかに囁かれる噂とは相反するものであったが、彼らの独自の言葉や思考、稀なほどに黒い頭髪に、女王や上流階級の者は魅了されていった。彼らを飼育保全する意見も、住民票を与えて観察しようとする意見も飛び交った。結果ピグナズの民は上流階級に溶けこみ、独特の地位を築き上げていったのだ。
 しかし、誤算だったのは、ピグナズの民が賢さを兼ね備えていたことだった。
 いずれは故郷に帰ろうとする動きも増え、これは国際的な誘拐であると他国に助けと裁きを求める動きも出始めた。
 そこでエグラド女王政府は国を閉ざすことを決意した。
 それも急な動きではなく、少しずつ、じわじわと、気づかれないようなスピードで。情報を操作し、教育さえも塗り替えて、口から口へと伝わらないように細心の注意を払いながら。
 そうしてできあがったのが、いまのエグラドだ。当時の宰相の子孫が暗躍する保守党と、それを崩そうとする輩や脅かす人間を裁くための司法と、排他的絶対王政の権威を振るう女王によって鋼の要塞と化した楽園。
 楽園に閉じこめられたピグナズの民も、楽園が湛える白痴の毒に美しく脅かされていった。自分がそこにあることになにを疑うこともない。ピグナズの民の魅力に飽いた人々すら盲目している状態だ。エグラドにはもう鎖国という概念が存在しないのだ。ただ今の状態を守ることだけに神経を窶し、必死に尻込みをしているのだ。誰も“ピグナズの民”を覚えていない。きっとそれは楽園に攫われたまま閉じこめられた、ピグナズの民の末裔である、“オズワルド”自身さえも。
「目が覚めたようだね」
 オズワルドが眠りから覚醒した数秒後、見知らぬ声が思いのほか間近に鼓膜を揺らした。未だに意識はぼやけている。さきほどの声の主はそれ以外の言葉を吐かなかった。オズワルドは数度瞬きをしたあと、どこの誰とも知れずに「おはよう」と呟いた。声の主は少し驚いたふうに眉を上げたがそれ以外のことはしなかった。
 その掠れ気味の声が中性的なように、声の持ち主である人間の顔もまた中性的であった。弓なりの形の良い眉。静かそうな口元。深い目頭から埋めこまれた眼差しは、まるで厳かな儀式を見守るように、オズワルドを見ている。珍しいペールブロンドの長い髪をうなじのあたりでくくっていた。飾り気のない外套を羽織っているため体のシルエットは見えない。けれど、雰囲気や手の形から、なんとなく男であろうと予測を立てる。
 オズワルドは彼の顔を見つめると、「ああ」と思い出したように声を漏らした。
「貴方、知ってる。“アダム”でしょ?」
 アダムは小さく首を傾げて「私も貴女を知っている」と細い声で言う。
「イヴは、元気かい?」
「元気だよ。貴方は?」
「元気だよ」
「そっか、よかったね」
「私の話をイヴから聞いたの?」
「貴方の話は聞いてないわ。でも貴方のことなら聞いたよ」
 オズワルドの返答にアダムは少し考えるようなしぐさをした。それから「ごめん」と謝って、言葉を続ける。
「たしかに今のは私が悪かったかもしれないね」
「今のって? 貴方なにか悪いことでもしたの?」
「そのようだ。ごめん」
「いいわ。許してあげる」
 オズワルドはまだぼんやりとしたような声だったが、仄かに香る笑顔には澱みがなかった。
「私のことを、イヴから聞いた?」
「聞いたよ?」
「たとえばどんなことを?」
「仲間がいたって」
「それ以外には?」
「両足で靴のサイズが違うって」
 そこで初めてアダムは顔を濁らせた。少しの間を置いたあと苦々しい声で「そんなこと話したの」と漏らす。
「他にもあるわ。貴方の名字は舌が絡まりそうになるとか」
「……そうかい。まあ、元気そうならそれでいいや」
 アダムはなにか諦めたように、けれどどこかほっとしたような表情をした。それから沈黙が続いたが、また一つアダムはオズワルドへと言葉を寄せる。




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