占い師(1/6)




 熱とショックのせいで、オズワルドは二日寝こんだ。
 “亜終点”にいる哀王のもとで、オズワルドを介抱してもらっているあいだ、イヴはセレナータの体を車で海に運んでいた。火葬や土葬するよりも、海を越えてルーシャに流れ着けば、セレナータも幸せではないだろうか。そんな思いをこめての水葬だった。真っ赤な体が波間を揺蕩い、哀れに沈んでいく。最後に彼女は笑っていた。それは本当に正しい幸福ではないにしろ、彼女にとっては最良の解放だったのだろう。それがたとえ死ぬことで得られたものだったとしても。
 寝こんだオズワルドのほうは、三日目の今日の朝には、もう十分に回復したと言えるコンディションにまで持ち直していた。暫く“亜終点”に厄介になっていた二人だが、オズワルドが回復したというのであれば、そろそろ発ったほうがいいだろう。そんなことをぼんやりと考えながらも、熱の冷めたいまもなお浮かない顔をするオズワルドを、ただただ無表情にイヴは見つめる。
 “亜終点”の、哀王の塒。ある程度の生活用品も揃ったそのテリトリーで、二人は暫くを過ごしている。簡易テーブルに肘をついて座るオズワルドは、大好物の梨のジェラートが目の前にあるというのに、ちっとも嬉しそうでなかった。膝の上にはセレナータが持っていた白いテディベアがある。切られた腹は不器用に縫われていたが、その縫い痕が一層哀れに見えた。まるでナイフに貫かれたセレナータを見ているようで、心底悍ましい。あれを縫ったオズワルド本人もそう思っているのか、そのテディベアを直視しようとはしなかった。けれど、傍に置いておかなければ、それはそれで落ちつかないらしく、仕方なくといったふうに、肌身離さず抱きかかえている。ぼんやりとしたオズワルドの手は、スプーンを持ったまま止まっていた。
「なんで固まってるんだ」
「冷やしたからに決まってるじゃない」
「ジェラートのことじゃない」
 イヴの問いかけに答えるオズワルドは、いつも通りにも思える。ぼんやりしているように見えるのはいつものことだ、その透明感も、緩い切り返しも、淡々とした少女らしい声も。けれど、強いて言うなら落ちこんでいて、元気という元気がなかった。
「せっかく哀王が出してくれたジェラートが溶けてしまうぞ」
「え、これ持ってきてくれたのはジャンヌだよ?」
「そういう意味じゃない」
 イヴは溜息をつく。オズワルドから言葉を紡ぐことはなかった。ただ視線を少し下げて、またぼんやりとし始める。
 セレナータが死んだ。それは二人にとってはショックな出来事だった。それも血まみれの最後で、可哀想な最期で。
 イヴ自身もあの胸糞の悪い光景は時折チラチラと脳内を掠めていた。そのたびになんとも言えぬ感情が蘇る。思い出すのも億劫だ。たった二日傍にいただけの少女の死体。そうそう深い繋がりを持っていたわけでも絆されたわけでもなかったが、彼女の哀れな人生や悲惨な死体を思い浮かべると決して快い気持ちにはなれなかった。
「怖かったのか?」
「なにが」
「セレナータの死体が」
「死体」
「あまり落ちこむな、俺たちとセレナータは……」これ以上の言葉を続けるのはあまりにも不謹慎だった。「可哀想だが、あれはセレナータの選んだことだったんだ。お前が気にしたとしても、途轍途方もない」
 明確な返事は返ってこない。裸の電球がチリリと揺らいだだけだった。オズワルドはゆっくりとスプーンをジェラートに近づける。突っつくようにスプーンを動かして、徐に口を開いた。
「あたしって、落ちこんでたのね」
 真っ黒い目を少しだけ見開いて、オズワルドは小さく呟いた。
 自分自身が今どんな感情を抱いているのかも、どう目に映るのかもわかっていない。
 日常のなかの無機質として背景に留めておくには惜しく、安らかな言葉を囁くためにかまってやるには煩わしい。その透明感は関心には程遠い。あるのはただの稀有だった。
「お前はずっと、そこから浮かびあがれずにいるのか?」
「そういうのとは、ちょっと違う気がする」オズワルドは呟くように返した。「……あたしは、理解できなかっただけ」
 いろんなものが足りない言葉だが、イヴにはなんとなく理解できた。理解できたが、それだけだ。感情的になるようなことは決してしない。哀切も叱咤も激励も超えた、淡泊なところに、二人はいる。
 今回のことはあまりにも重すぎたのだ。重いものは馨しく、思わず鼻を抓まんでしまう。臭いものには蓋をしなければならない。耳と目は閉じなくてもいい、口を噤む必要はない、背を向ければ全ては事足りる。血の海を避けて靴を赤に染めなければ踏み出す足を失くさずに済むのだ。イヴはとうにその道を選んでいて、オズワルドは選びきれない。ただそれだけのことだった。
「意地悪みたい。死があるのに希望はないなんて、おかしいわ」
 オズワルドはようやっとジェラートに口をつけた。
 口溶けるような甘さがオズワルドの口内に広がる。ふんわりと香るペリドット色をした冷たさは、オズワルドの眉間に皺を寄せるほどの刺激を生んだらしい。
「希望はないのか」
 その様子を見てイヴは苦笑した。言葉を返しながらも視線はオズワルドの百面相から揺らがない。
「ええ、そうよ」
「パンドラの箱を開けたとしても、最後に残るのは希望だ。悪いものが溢れ出ても、最後まで悪いとは限らない」
「悪いものって?」
「よくないものだ」
「よくないものって?」
「悪いものだ」顔を顰めたオズワルドを一瞥したあとイヴは続ける。「未来を全て分かってしまう災い、というのが妥当なところだろうな」
 パンドラの箱に残ったものには様々な説がある。期待か希望か、それとも予知か。期待や希望があるから絶望しきることなく喘ぐしかないとされたり、未来でなにが起こるか全てわかってしまうから生きることを諦めるとされたり。それとは違う前向きな説もある。イヴにとってはどれも知識の枠を出なかったが、信じるならば、希望説だった。
「死に至る病じゃないのね」
「罪人になるつもりはないさ」苦笑混じりに肩を竦める。「もう罪人みたいなものだけどな」
 そう言ったとき通路からのドアが開いた。ぶっきらぼうに「お邪魔しますよ」と声がかけられる。ひょっこりと顔を出したのは愉快そうに口元を引っ張り上げたジャンヌだった。ジェラートに口をつけるオズワルドを見て数度頷く。
「お元気そうで」
「あたしって元気なの?」
「元気だろうと元気じゃなかろうと俺には関係ない。なら、元気ってことでいい」
「あたしって元気なの」
「それでいい。物わかりのいいお嬢ちゃんだ。知りたがりくんもなにか食べる?」
 妙なあだ名が定着してしまったものだ。イヴは「別にいい」と返しながらそう思った。
 ジャンヌの後ろから哀王も顔を出す。少しだけ汗を掻いていて、耳の横の髪が皮膚に貼りついていた。




×/
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -