Natalya(1/6)




 自分たちごと車がぶん盗られた。そう思っていたオズワルドとセレナータだったが、それは大きな勘違いであった。
 イヴが薬を買いに行ってすぐに何者かが車に侵入してきた。それは二人組の男たちで、ぐったりしたオズワルドとそれを介抱するセレナータごと、乗っていた車で逃走した。物取りや乱暴な輩かと思いきやそうではないらしい。真四角のよくわからない機械を口元にあてて連絡を取り合っているかのように見える。セレナータを確保した、そう静かに車内に響いた。発信機を除去したというのにそれは無駄だったのか。彼らはまず間違いなくアンプロワイエで、どうやらリングストン・アポン・ハルクから離れていっているようだ。いきなりのことに気が動転してなにも言えないし動けない。
 車ごと、自分たちがぶん捕られたのだ。
「な……なんで」セレナータは震える声でぽつんと呟く。「発信機はもう、ないはずなのに……」
 運転するアンプロワイエも、こちらを警戒しながら助手席で連絡を取る男も、後部座席の二人を振り向かない。声はおそらく聞こえていたであろうが、それも存ぜぬふりだ。
 セレナータはハッとして恐る恐る頭に手を寄せる。ぎゅっと掴んだのは大きなリボンだった。それに妙な引っ掛かりと覚えて、布を滑らせるよう、乱暴に剥ぎ取る。コロリと手の中にこぼれ落ちたのはさっき見た発信機と同じ型番のもの。髪飾りのリボンの裏側にも、発信機が取りつけられていたのだ。セレナータの手が震えた。その華奢な手の平から真っ黒い発信機が嘲笑いながら床に落ちる。セレナータは嗚咽に近い悲鳴を漏らした。
「……セレナータ?」
 自分の膝の上で熱のこもった唸り声を吐くオズワルドにセレナータは強く息を止めた。重そうに体を捩らせるその姿に、セレナータは申し訳なさが募る。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 迷惑をかけるつもりなんてなかったのに、すぐに離れるつもりだったのに、自分のせいでオズワルドも連れ去られている。それがとても歯痒くて許せなかった。今すぐにでも自分を罵ってほしかった。このままこんな惨めな思いをするくらいなら、いっそ耳が痛くなるほど殴ってほしかった。
 車はもうあのデパートから随分と離れてしまっている。あの小賢しいイヴという男だって、この車を上手く追跡することはできまい。きっと今ごろ自分たちがいないことに気づいて、不審にあたりを詮索しているはずだ。だったとして、もう完全に手遅れである。自分とオズワルドは連れ去られた。なんとなく来た道を引き返しているのはわかるがどこに向かっているかまではわからない。わかったとしてもそれをイヴに伝える手段はない。もしかしたら、いや、もしかしなくても、このままヘルヘイム収容所に連れていかれるのだ。オズワルドは、痛くて怖いことを、彼女にあんな笑顔を浮かばせた世にも恐ろしいようなことを、されてしまうのだ。自分はなんて愚かなのか。あの無邪気な体に更に傷を作るだなんて。なんという罪人たることか、真っ暗闇のような気分だった。そして、自分は悪夢の日を繰り返す。あの名も知らぬ気持ち悪い男に、また囚われて囲われる。身の毛のよだつ愛撫を思いだし、セレナータは歯が音を鳴らすほどに身を震わせた。
「セレナータ」
 震える手を握る、熱に浮ついた真っ白い手が、落ちつかせるように綻んだ。オズワルドは横たわった体勢のまま、セレナータに囁きかける。
「大丈夫だよ」それはこの状況にひどく場違いな言葉だった。「きっと大丈夫。平気だよ。もう寒くないし、もう痛くないし、もう怖くない」だというのに、オズワルドの声は確信に満ちていた。「もう、なにも怖くない」
「……どこが、ですか」セレナータは呟く。「私たち、もうすぐ収容所に送られるんです。ここからブラックマリアに移されるか、直接送られるかは、わからないけど、でももう、絶対に、逃げられないんです。寒くて、痛くて、怖いことだらけ」
「うんう」
 舌足らずな、曖昧な、けれど決定的な否定を、オズワルドはする。セレナータは目を瞬かせた。厚い呼吸をするオズワルドの口角がわずかに上がったような気がした。
「でも、あたしたちまだ生きてるわ。そして、イヴも生きてる」
「だから?」
「だからって?」
「だから、なんになるって言うんですか?」
「だから、きっとイヴがあたしたちを助けにくるって言ってんの」
 セレナータはうっすらと苦笑した。それは、夢見がちな乙女を馬鹿にする一篇の曲の休符のような一拍だった。
「できっこないですよ……」
「確かにそうかもしれないね」
「どっちですか」
「わかんない」オズワルドは体勢を変えて仰向けになる。「イヴってあたしたちよりもずっとずっと賢いんだ。うーん、でも、わかんない」
 セレナータは驚きに薄い唇を開いた。真珠のような小さい歯と歯の間から、秋風のような吐息がか弱く吐き出されていく。セレナータの目はオズワルドの目をじっと見つめていた。
 決して楽観しているわけではない黒い瞳。戯言を言っているようではないらしかった。その穢れという汚れを知らないような唇で、希望を語るようなことは、しなかった。




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