銀貨と林檎(1/5)




 石油に塗り潰された少女を見つけたときの彼の心情をどうか察してもらいたい。
 エナメル質の黒い塊に、最初はなにかと不思議に思った。近づいて見てみるとそれは人の形をしていて、その華奢な体躯から少女であることに気づくことができる。新聞紙を何枚も重ねたような複雑な服を着ているが、その全貌は顔ごと石油に汚されていた。大きなゴミ箱に凭れている様は生死の判別にひどく難い。ただ纏わりつく液体を重そうに胸が動くのを見て、はじめて少女が死体でないことを知った。

 石油に塗り潰された少女を見つけたときの彼の心情をどうか察してもらいたい。

 彼は殻に覆われた生命の神秘の類をこよなく愛する青年だった。林檎一つ分を買えるだけの銀貨よりも、すっかり果肉のなくなってしまった芯だけの林檎のほうが、よっぽど貴重で魅力的だと思っていた。手段よりも体裁よりも、あるがままの真実を選ぶ彼が、こんなところで座りこむ石油まみれの少女にどんな感情を抱いたのか――それは関心と探究心と、それ以上の好奇心だった。
「君さあ」彼は見下ろすように尋ねる。「真っ黒だって、よく言われない?」
 少女は彼を見上げ、褒め言葉であるかのようにはにかんだ。頭から被った石油のせいで不気味ではあったが、どういうわけか不快感はなかった。ただ少女は透き通るような声で「はじめまして」と言う。彼も「はじめまして」と返した。
「おにいさん、だれ?」
「イヴ」
「え? なにそれ」
「俺の呼び名」
「ふぅん」
 少女はぼんやりと目を瞬かせる。イヴは「どうして君はそんな格好をしてるんだ?」と少女に問いかけた。
「そんなってどんな?」
「どんなってそんな」
「損なの?」
「得ではないだろうな」
「そっか」
「そうだ。それで? その格好はなに?」
「あたしにね、真っ赤なドレスを着せたがるひとがいるの」
 まさか石油にまみれている理由と別のことを答えられるとは、そして、よもやいま彼女の着ているそれがドレスだったとは、イヴも思わなかった。それほどまでに、彼女の姿は石油によって蹂躙されていた。たしかに、かつては幾重にも波打っていただろう布地の色は、彼女の言う赤だったに違いない。見る影もないと苦笑しながら、イヴは「いまは真っ黒だ」と少女に呟く。
「うん。塗り潰そうと思って」少女は凭れかかるゴミ箱の奥の石油タンクを指差す。「そこにあるやつで」
 イヴからしてみれば少女は明らかに汚れているのに、少女からしてみれば石油に塗り潰される行為に悪はないのかもしれない。それも、「おにいさんは赤くないから、必要ないね。よかったね」ときている。彼女の善悪の基準は、赤いか赤くないからしい。奇っ怪なものさしを持つ少女だった。その意図を探ろうとイヴがぼんやり考えていると、彼女から「ねえ、」と声をかけられる。
「ここがどこだかわかるかしら。あたしいま迷子なの」
「ここは道に迷って来れるような場所じゃないんだけどな」
「道っていうか、人生の?」少女は首を傾げる。「ここがどこかもわからないんだ。もしかして、地獄だったりする?」
「天国とは思わないんだな」
「天国なら、もっと明るくて、優しくて、素敵なところだと思うもの」
 そう言いながら、少女は天井を仰いだ。見上げたのは空ではなく、アーチ型壁面と簡易の薄暗い照明だった。イヴもここの有様を見渡して「なるほど」と呟いた。
「やっぱり地獄かしら。貴方が死神さん?」
「まさか。第一に、君は死んでない。生きている」
 イヴの言葉に、少女は「えっ」と驚いた。そんな少女に、イヴは「さて、これからどうする」と囁いた。
「あたしに聞いてるの?」
「君以外に誰かいるのか?」
「おにいさんがいるじゃない」
「自問自答はしない主義なんだ」
「答えが導き出せないから?」
「君に聞いたほうが早いから」
「あたしがこれからどうするかで、おにいさんのこれからもどうにかなっちゃうってこと?」
「さあ? なるかもしれないし、ならないかもしれない」
「なにそれ」
 ここにきてはじめて、少女は悩むような吐息を吐いた。顔にまで石油にまみれているので表情はよく読み取れないが、幸先の好い顔色をしているとは思えない。しかし、そこからは早かった。少女はすぐさまイヴに向き直り、口を開く。
「どうするか決めたわ。おにいさん、あたしのこと、助けてみてよ」
「助ける?」イヴは目を瞬かせた。「それ、君じゃなくて、俺が決めることじゃない?」
「貴方に助けてもらうことに決めたのよ。ここが地獄でも天国でもないなら、あたしがまだ生きてるなら、あたし、まだ死にたくないわ。だからあたしを助けてみてよ」
 薄暗いこの場所で自分に縋る無力そうな少女を、イヴはじっと見つめた。
 まず一つ考えたのは、己がこの少女を助ける意味だ。助けたとして、己に利は一切ない。損得勘定をするなら、若干の不利を貰い受けるほどだ。
 しかし、いつまでもここに放置しておくのは憚られた。今日か明日か明後日か、きっと次の“利用者”が行き着いてくるだろう。目の前の少女に自分でこれからを生きるだけの力があるとは思えないが、それでも生きていかなければならないのが現実だ。
 現実の厳しさを少女に教えるもよし。
 気まぐれに誘いに乗ってみるもよし。
 どちらを取るか少女に任せてみるも――彼女がどうするかで、己もどうするのかを決めるのもよし。
「たとえば。いま君の目の前に、芯しか残ってない骨みたいな林檎と、およそ林檎一つ分が買えるだけの銀貨があるとしよう」
「なぞなぞね。あたし得意じゃないわ」
「君はその二つのうち、どっちを選ぶ?」
 少女はなにも言わないで、イヴのことを見つめていた。数秒後に「なぞなぞは得意じゃないの」と声を漏らす。
 得意じゃないなら、きっとひねた答えも出せない。それでいいとイヴは思った。彼が求めたのは少女のあるがままだった。そして、少女はそれに応えた。
「骨みたいなのでも林檎が欲しい」軽くおどけるように肩を竦める。「こんな格好じゃあ、たとえお金を持ってたって、お店のひとは相手にしてくれないわ」
 滑稽な理由だった。状況が変わればすぐに覆ってしまうような、愚かで非才な理由。
 けれど、それが全てだった。
 それが彼女と彼の運命を大きく変えた。
「どうやら君と俺は同志のようだな」
「同志?」
 少女の目線に合うようにしゃがみこむ。彼の目を見て、少女は「綺麗な青色ね」と言った。彼は笑った。そして、少女に己の持った答えを与える。
「喜べ。どうやら俺は、君を助けるつもりらしい」




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