首なし鶏(1/5)




 率直に言って、イヴは本を読みたかった。
 その日は霞むような小雨で、ぱらぱらと小さいわりに煩わしい雨音から逃れるには、読書が最適だったのだ。カウチに腰掛け、目と脳が飽くまで、文字の羅列を貪りたいとイヴは思った。
 けれど、現実、イヴとオズワルドは、宛てもないまま小雨の降る街を歩いている。理由は明解、ホテルに泊まるためのお金が尽きたからだ。あるだけの荷物を持ちながら、二人は今日の宿を探していた。
 そんな折、傘を首で持ちながら、青い地図帳を広げるオズワルドが、確信するようにぼやいた。
「やっぱり、装甲飛行船の中ですごすのが、一番だと思うわ」
 絶対にそうよ、とオズワルドは続ける。その華奢な肩には、エアライフルの入ったガンケースが背負われている。物騒な代物も、黒髪の乙女が背負えば、まるで奏者の持つ楽器のようだ。
 二人分の荷物を入れたダレスバッグを持って歩くイヴは、小雨に打たれることを甘んじている。地図を持つオズワルドに傘を貸してしまったおかげで、安全圏から外れたのだ。かれこれ一時間は雨天の餌食になっていた。湿気を少しだけ鬱陶しそうにしながら、イヴはオズワルドに答える。
「少なくとも、いま現在は不可能だな。計算上、現在《The Three Muskteers》は、湖水地方を飛行中だ。こっちに戻ってくるまでに、どれだけかかると思う?」
「なら、あたしたちから行くのは?」
「鉄道じゃないと無理だぞ。夜になる。せめて、屋根があって、二十四時間滞在を許可してくれるところがあればな」
「先に言っておきますけど、野宿だけは絶対に嫌よ」
 夜まで降りそうなこの雨の中を屋外ですごすのは、イヴとて嫌だった。すっかり湿ってしまったシャツを気にしながら、イヴは足を動かしつづける。
 二人は図書館前の大通りに差しかかる。この通りは、月に一度、マーケットが開かれる。今日が月に一度で、雨に降られたため中止かと思っていたが、人々は器用に歯車仕掛けのテントを用意して、競売を楽しんでいた。
 ここを通れば雨をしのげると思い、二人はそのマーケット通りを歩いていく。
「お腹がすいたね」
「お前はよくお腹がすくな」
「自然な欲求だよ。本能に忠実なのよきっと。えらいひとも言ってたでしょ? 自然へ帰れ!」
「そういう意味じゃないと思う」
 イヴは苦笑して言葉を返した。
 オズワルドは閉じた傘を降って、石突きを滴る雨を落とした。グリップをくるっと回し、持ち直す。そして、持っていた地図帳をイヴに押しつけ、「交代」ときれいな手を差し出してきた。イヴはその言葉に甘え、ダレスバッグをオズワルドに渡し、代わりに地図を受け取る。オズワルドは抱えこむようにしてダレスバッグを持った。
「お金が必要なのよね。残りはいくら?」
「ハイウェイまで出て、安いモーテルを探せばあるいは、といったところ」
「どんなところ?」
「いっそ、ヒッチハイクでもして、乗りこんだ車で夜を明かすほうが、まだ現実的だといったところ」
「どんなところ?」
「もう残りの金を頼るのは愚策だという意味。買えるものといえばせいぜい食料くらいのものだし……」
 と、そこで、イヴの足が止まる。あるものに目を奪われたからだ。イヴの視線の先には、マーケットのテーブルが一つ。その上に並べられた、毅然とした雰囲気のある本の波。
 突然話すのをやめたイヴに首を傾げるオズワルド。傾げるすがら、オズワルドは彼の顔を覗きこんだ。おや、と瞠目する。イヴにしては珍しい、楽しそうな目の色をしていたからだ。
 するとたちまち、イヴはオズワルドを置き去るように「ちょっと見ていいか、オズワルド」とそちらへ行ってしまう。
 イヴはテーブルに並んだ一冊のうち、まだ新しめの本を手に取った。冒頭部分を開いて、ぴたりと固まる。追いついたオズワルドもそれを覗きこんだ。気味の悪い文章が、冒頭で異彩を放っていた。
「“riverrun”?」
「川走る、だな」
 イヴはページの下側へと目線を移す。茶けた紙をパラパラとめくった。彼のまるで迷いのない手際から、特定のページを探していることがわかる。ややあって、その手は628ページ、一番最後で止まる。どうやらエンディングを迎えているようで、けれど、その引きの文句すらも、オズワルドにとってはとても不可思議なものだった。
「これ、おかしいわ。どうして“the”で文章が終わっているの?」
 冠詞で文章が終わるわけがない、とオズワルドは訴える。それにイヴは「一番初めに戻るからだ」と口角を吊り上げた。
「ちょうど“the river run”になるように……ぐるぐると繰り返す。これは終わらない物語だよ」
「どんな話なの?」
「俺にもさっぱりわからない」
「読んだことがないの?」
「あるのにわからないんだ」
「どういうこと?」
「わからない」
「ちっともわからないわ」
「わかることはただ一つ」パタンとその本を閉じて背表紙を撫でる。「間違いなく、これは『フィネガンズ・ウェイク』の原書だ」
 まさかお目にかかれるとは、という感動を如実に含んだ声音だった。オズワルドにはピンと来なかったものの、この書物はイヴの琴線に触れるものだったらしい。イヴは、オズワルドが問うてもいないことを、滔々と語る。
「この一冊に途方途轍もない情報量が詰まっている。いまは失き絶滅言語……フラネク古語、古代ヒスニア語はもちろん、フラネク語、スパニ語、ルーシア語に、あろうことかピグナズ語まで……」イヴは続ける。「外界という概念を抹消したい女王政府らの、文化規制や言語一括の網を潜り抜け、こんな露店に丸裸で並んでいることが、奇跡とも言える品だ。アンプロワイエに見つかりでもすれば、いや、そうでなくとも、その価値を知らない物に拾われでもすれば、もう二度と出会えない……」
 どこか酔い痴れるように、イヴはその本に手を伸ばした。しかし、その手を、オズワルドが叩く。
 動きの止まる二人。視線はまっすぐに交わされていた。表情に出さずとも、言葉にせずとも、二人は互いの思考を読み取っていた。滑稽な体勢のまま、二人は真顔で見つめ合う。
「……必要な投資だ」先に口を開いたのはイヴだった。「俺たちをエグラドという箱庭に閉じこめた、エグラドの女王政府らに、一泡吹かせるための一石になるかもしれない。読書という娯楽ではなく、今後の布石として、これを買うんだ」
「だけど、あたしたちお金がないのよ」緩んだだけで笑みさえ浮かべないような唇で、オズワルドは正論を吐く。「生きていくだけでいっぱいいっぱいなのに、こんなのに費やしたらあたしたち死んでしまうわ」
 それに、イヴはその本が欲しいだけでしょ。オズワルドは付け足すように言った。イヴは黙ったままだった。ただ、目の前の娘をどう説得しようか考えている時点で、オズワルドの意見は概ね的を射ていた。
「どうせ端た金だ。いまさらなにに使おうと、俺たちに宿がないことは決定している」
「んま。イヴってば」
「それに、お前も言ったろう」
「なんて?」
「自然へ帰れ」
「あたしじゃなくて、えらいひとね」
「自然な欲求だ」
「えらいひとじゃなくて、あたしね」
 そのとき、オズワルドの肩に、通行人の肩がぶつかる。オズワルドとぶつかった相手は、なんの言葉を交わすでもなく、淡々とした態度でその場を立ち去った。オズワルドは、自然とその背中を目で追っていた。しかし、イヴはそんなオズワルドを見つめたとき、ある違和感に気づいた。交代でオズワルドに預けたダレスバッグが、彼女の腕から忽然と姿を消していたのだ。どころか、背負っていたガンケースまで、跡形もなく消え失せている。
 嫌な予感に、イヴは顔色を曇らせる。それは今日の天気よりも重いものだった。
「……オズワルド、お前、荷物をスられたんじゃないか?」
「スられる?」
「荷物は?」
「あら。あったはずなのに」
「いつまで?」
「さっきまで持ってたし、これからもずっと持ちつづけるはずだったわ」
「あれ」ついさっきオズワルドとぶつかった、小走りで去っていく人間の持つダレスバッグを、イヴは指差した。「俺たちのじゃないか?」
「本当だ。びっくりした」
「オズワルド」
「大変だねえ」
「オズワルド」
「どうしようかなあ」
 オズワルドは眉を顰めながら、その場に佇みつづけていた。その困り顔は本物だというのに、行動に移すそぶりがない。本当に、どうしようかなあ、と困り果てているのだ。そのことに、イヴは呆れつつ、どこか薄ら寂しさを覚えた。
「……俺が追いこむから、捕まえろよ」
「えっ、手伝ってくれるの? ありがとう」
 手伝うもなにも、自分たちは仲間なのに。
 肩を落とす彼に、オズワルドは無邪気にお礼の言葉を述べた。




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